オロフ編2
きゃらきゃらと楽しげな女たちの声がしたため、ブリッドは慌てて荷物をまとめ、柱の陰に身を隠した。商家で働く先輩達はもう湯あみを済ませてしまったらしい。
母屋から離れた場所に井戸があり、商家の主がそこへ小さな浴室を作ったのは、ブリッドがここへ来るずっと前だそうだ。商いを始めた当初、主人は顧客を得るためにどうすればよいかと考え、見場の良い女を雇い、接客のマナーなどを叩き込んだ。
住み込みが基本なぶん待遇は良く、接客には身だしなみも必要と湯殿があるのだが、主人の狙い通り見目麗しい女の細やかな接客は評判を呼んだ。
看板を掲げていない小さな店であるにもかかわらず、顧客は現在、近所の家族からカッレラ王国の貴族にまで至るらしい。
そんな主人とブリッドの父が知り合ったのは偶然だった。ぬかるみに車輪を取られ立ち往生していた主人の馬車を、畑仕事から帰るブリッドの父が助けたのが始まりだ。
日暮れ間近だったこともあって、その日は主人を一晩家に泊めた。その際、夕食に出した父の野菜を、主人がいたく気に入り、以来、日々の食事で使う野菜を購入してくれるようになった。
おかげで貧乏だったブリッドの家は随分と助かって、それから何十年と付き合いが続いているそうだ。
上の姉の結婚の際に、十分な嫁入り道具を用意できたのも、主人が特別割引で品を用意してくれたからだった。
そんなわけでブリッドの父と主人は、今では時折酒を酌み交わすほどの親友同士になっている。そして親しくなったゆえか、父は末娘のブリッドが、極度の人見知りで仕事にもうつけない有様だ、と相談したらしい。
子どもの頃からブリッドを知る主人は、父の心配も納得できたようで、ならばうちで引き受けようと言ってくれたのだ。
ブリッド自身、親元を離れて城下に出る不安はあった。しかし、父の畑を手伝うくらいで家に閉じこもっている変人と、村で囁かれていることも知っていた。
勇気を振り絞ってここへ来て二年。ブリッドはようやく環境に慣れた。とはいえ積極的に先輩の女たちと話をするなんてまだできない。
だから彼女らの気配にこうして隠れてしまった。
息を殺して柱の陰で小さくなるブリッドには気づかず、女たちは庭に面した廊下を笑いながら歩いてくる。
「あんた、あの年下の彼とはうまくいってるみたいね。この秋の時節送りの日は、前日から休みを取ってるでしょ」
「もうラブラブよ。惚れ薬もばっちり買ってるの。それをお互いに飲んで、一晩中愛を確かめ合うつもり。うまくいけば年明けには結婚かしら。下働きとはいえ彼、王宮で働いてるから将来安泰だし」
「将来安泰って……そこに愛はあるの?」
「もちろん大好きよ。お金と結婚したって空しいじゃない。でも貧乏暮らしはいや。だから彼なの」
「そういえば取引先の金持ちの三男坊に言い寄られても、あんたきっぱり振ってたっけね」
「ああそういえばそんなこともあったわね」
「だってあの男、マザコンだって有名じゃなかった?」
「そうそう、ママの言いなり」
ないわー、と女たちの声が重なって、笑い声が上がった。ひとしきり笑いあった後、また誰かが口を開いた。
「ね、ね、そういえば知ってる?薬指のペアリングの噂」
「「「ペアリングの噂?」」」
数人の女たちの声が重なった。
「なんかね、結婚を控えた恋人同士がペアリングを交換すると、一生幸せな結婚生活を送れるんだって」
「あー、それ知ってる。嘘か本当か、シモン王子とそのお相手も、左の薬指にペアリングしてるとかって聞いた」
「え、そうなんだ?」
「ちょっと、あんたの彼氏、王宮で働いてるんじゃなかったの?」
「下働きなんだってば。各建物に薪や油を運んだり、掃除道具を配ったりってそういうのが仕事なの。だから王族には会えないし、偶然遠くに姿を見るくらいみたいよ」
「王族なんて雲の上の人よね。何年か前、王国の建国記念式典で見たけれど、みんな豆粒大だったもの」
「庶民じゃ会えない人たちよね。……ねぇ、それよりその指輪の噂。幸せになるって本当だったら素敵じゃない?」
すると最初に話を振った女性の声が再び聞こえた。声の大きさから、もう随分とブリッドの側まで歩いてきていているとわかる。
「シモン王子たちも指にしてるって聞いて、買った人たちがいるみたい。まだ数組らしいけれど。わたしの友達、宝石商で働いているから間違いないわよ」
「あら、じゃあうちも扱いだすんじゃないかしら?」
「ああ、それで明日、商人仲間と会合があるのかも――」
「あー、臨時会合って確か旦那様がおっしゃってたわね」
「うちの旦那様ってこういう読みは外れないのよね。ペアリング、きっと流行るわよ」
大きく聞こえていた先輩たちの声も、今度は足音とともに遠ざかっていく。廊下の角を曲がって少し行けば、ブリッドたちの暮らす部屋があるのだ。
耳を澄ましていたブリッドは、声が聞こえなくなるのを待って柱の陰から姿を現した。すでに女たちは見えなくなっている。
ほっと吐息を漏らしたブリッドは庭を振り返った。
朝から降り出した雨は小雨に代わり、緑の葉の間で揺れる黄色い花弁を濡らしていた。
抱えていた小さな画板を左腕で支え、彼女は常夜灯の明かりに照らされた花に顔を近づける。右手が画紙の上で走るたび、黄色い花が映し出されていく。
先輩たちから遅れること数十分。寝不足で眠い目をこすって、実はブリッドも湯あみに向かっていたのだが、ふとこの花が目に入って足が止まった。
花に重なるように、オロフの顔が浮かんだのだ。
(この花みたいな笑顔だったな)
思ったらどうしても絵に残したくなった。湯あみに出たはずが画材道具を取りに、部屋に戻っていた。そうしてここで先輩たちが湯あみの間にと、急いで絵を描いていたのだ。
最後の花弁に黄色を塗り終えたブリッドは筆を置いた。
ほぅと息を吐きながら廊下に座り込んで、常夜灯の淡い明りのもと画紙を宙にかざす。我ながら、なかなかにいい出来だと思った。
(いっぱい笑顔が咲いた)
自作の花の絵を見つめるブリッドはやがて腕を下した。
今朝方、酒場通りからここまで送ってくれる間も、オロフは手を握ってくれていた。
けれど別れ際、彼は「じゃあここで」と言っただけだった。口下手で鈍間な自分はありがとうの一言と、頷くしかできなかった。
彼が「またな」と言ってくれなかったのは、もう会うこともないと思っているからだ。
仕事中、ブリッドはやっとそこに気が付いた。そして、それは嫌だと思う自分がいた。
だから仕事の後、ブリッドは食事も取らずに物置でオロフの右手を描き、日暮れ直後の雨の中、王宮へと急いだ。王宮騎士の彼は王宮住まいだと聞いていたからだ。
城門が閉ざされるぎりぎりに間に合って、ブリッドは門兵に包みを届けてほしいと頼み込んでいた。普段のブリッドならこんなふうに必死になって、自分から誰かと関わりを持とうとするなんてありえなかった。
だけど衝動が突き動かすのだ。オロフとどんな形でも繋がりを持ちたいと。
そんな気持ちは初めてで、自分でもわけがわからなかった。
(絵を見てくれたかな)
ブリッドは今度は、自分の両手を見つめる。オロフは騎士というだけあって、鍛え上げられた肉体を持つのだろう。
大きな分厚い手であったのに、自分の手を握るときはほとんど力を感じなかった。
怪我をさせないようにと気を遣ってくれていたと知ったとき、胸の奥がくすぐったいような疼きを覚えた。
村にいたときは変人扱いで、誰もブリッドを女の子扱いしてくれなかったから、彼にされた慣れない扱いに戸惑って、そわそわと急に恥ずかしくなった。
(だからってひどいこと言っちゃった)
気づかい屋、なんて憎まれ口を叩いてしまったのに、オロフは笑って冗談で返してくれた。
あの笑顔にまた胸がざわついた。
そのあと絵を探していろんな場所に引っ張りまわしても、オロフは面倒がらずにすべて付き合ってくれた。失った絵の手がかりを見つけてからは、彼が率先して情報を集めてくれたほどだ。
本当に優しい人だった。
ブリッドの前に咲く黄色い花は、まるで太陽が花になって地上に咲いたみたいだ。
夜の街で不安を抱えるブリッドを安心させてくれた、オロフの笑顔がやっぱり重なる。
「この絵ももらってくれるかな……」
「誰にプレゼントするの?」
背後から突然聞こえた声に、ブリッドは声も出せないくらいびっくりした。
振り返ると、商家で働く先輩の女たちを纏める役目を担った、最年長の女が腰を屈めてブリッドを覗き込んでいた。
「テア姉様」
主人の計らいか、頼れる彼女がブリッドと同室の先輩だった 。そういえば先ほど湯殿から戻ってくる先輩たちのなかに、テアの声はしなかった。
見れば湯あみの用意なのか、包みを腕に抱いている。
谷間がくっきりを浮かぶ胸は部屋着から零れ落ちそうで、微笑んで首を傾げる仕草すら女っぽい。風に乗ってふわと甘い香りがした。
「部屋に見当たらないから、湯あみにでも行ったものと――でも、まだみたいね。膝にある絵はブリッドが描いたの?素敵ね」
「あああの、これは」
側に画材道具一式を置いているためごまかしきれない。あわあわと言葉を失うブリッドにテアはふふと微笑んだ。
「ブリッドが絵を描くのが好きなのは、ここに住むみぃーんなが知ってるわ。隠してるみたいだから気づかないふりをしましょうって、最初に決めたのよ」
「知って……知って…知ってた……?」
ええと頷くテアの赤茶の瞳が、画材道具をしまっている箱へ向いた。
「だってここに来たばかりのころ、ブリッドったらその箱を持ってよく庭をうろうろしていたもの。楽しそうに絵を描いてるところを、目撃されないわけないでしょう」
密やかに行動していたつもりが、全然密やかでなかったらしい。
「いつか話してくれるまで待つつもりだったけれど、わたしが近づいても気づかないくらい熱中しているから気になったの。なんだかすごく大事そうにその絵を見ていたわね。……もしかしてブリッド、恋人ができたの?」
「へぁっ!?まさかっ、そんな人いません」
生まれてこの方、恋人ができたことも、もっと言えば好きな人がいたこともない。ブリッドにとって他人は、いつ自分を馬鹿にするかわからない、怖い存在だったからだ。
テアは即座に否定するブリッドの大声に面喰ったらしい。次いでうふふと笑うと隣にしゃがんだ。
荷物と一緒に膝へ乗せた腕に顎を預け、からかうようにブリッドを覗き込んでくる。
「じゃあ、好きな人ができた、かしら?。その絵、その人にあげるんでしょう」
「ち、違います!オロフのことは好きなんかじゃ……わたしのことを助けてくれたから、お礼に絵を!」
「その人、オロフっていうのね?何してる人?」
「な、何って騎士……王宮の」
突っ込んでこられてしどろもどろになるブリッドは、言葉遣いに気を遣うどころではなく、質問されるまま正直に答えてしまう。
「まぁ、王宮騎士?そんな人とどこで出会ったの?」
「昨日の夜、絡ま…――姉様達との飲み会で忘れ物をして取りにいったとき、たまたま……」
酔っ払いに絡まれたといえば心配させて、この綺麗な顔に憂いが浮かんでしまう。幾分か冷静になってきたのかそう気づいたブリッドが、言葉を濁して誤魔化すとテアは納得したような顔になった。
「真夜中近くにこっそり部屋を抜け出して、明け方帰ってくるから何があったのかと思えば。いつの間にか恋人ができていたのかしらって思っていたけれど、そう……そういうことだったの」
「そうです。姉様の誤解です。これはオロフへの、その時のお礼の気持ちなんです」
「でもお礼なら日暮れてすぐに届けたのではないの?仕事上がりの後、食事も食べないでどこかに消えてしまったもの。あなたがよくこもる物置に絵の具の匂いがしていたし、絵を描いて彼のいる王宮へ向かったんでしょう?」
テアはなんでも見通す不思議な能力でも持っているのだろうか。
ブリッドは何も言えなくなって黙り込む。
「ねぇブリッド。彼に会いたいって思っていない?」
ドキリとした。繋がりを持っていたいのは、いつかオロフに会えるかもしれないと、願っているからだ。
「あの、わたし……わたし」
「いいのよ、ブリッド。それでいいの。そう思ったら、もう始まっているわ」
「……始まる?」
いったい何が。テアはまたふふと笑って、視線を庭へ向けた。
「その絵、明日王宮へ行って直接渡したら?王宮の騎士なら周りは男ばかりだろうし、彼女がいないかもしれないわ。もし彼女がいても奪っちゃいなさい」
「奪う!?そりゃテア姉様くらい女っぽかったら……って違いますっ!オロフには感謝してるだけで、そういうのじゃないってさっきから言ってるじゃないですか」
向きになって否定してもテアは意に介さず、楽しそうな様子で立ち上がった。
「はいはい、わかったわ。感謝したりなくて、また絵を贈るのね。ならいっそ、相手があなたを忘れられなくなるくらい、絵を贈りつづけてみるのもいいかもしれないわ。頑張って」
穏やかな笑みを残してテアは背を向けた。
湯殿に続く廊下を歩む彼女から、「あなたも早く湯あみをすませるのよ」と聞こえた。
ブリッドはテアを見送り、しばらくその場で考え込んでいた。庭に振り続けていた雨も何時しかあがっていた。
* * *
今日もまた絵が届いた。これでもう五日連続だ。
オロフは朝食後、騎士団員の荷便係りから包みを渡された。自室に戻って確認すると、青空が描かれていた。
〈空に守られ泳ぐ雲〉
ブリッドを助けた日から毎日、絵が送られてくるようになった。
あの夜見つけた彼女の絵を褒めたから、ファンになったと思われてしまったのだろうか。しかしこうも続けば、今に部屋じゅう絵で埋め尽くされてしまうだろう。
(礼のつもりなんだろうか)
思いながらオロフは、壁際の机の上に封書サイズの絵を立て掛けた。小さくとも5枚もあるともう立てかける場所もなくなってしまった。
ブリッドも毎日描き続けるのは大変ではないだろうかと思う。
オロフは今日、ルーヌの快気祝いをする店を探すことになっている。合同でヴィゴの励まし会を企画している王宮魔法使いからはトーケルがでて、それぞれの部下を引き連れ城下へむかう。
手分けしてめぼしい店をピックアップしておいて、店選びを手伝うと意気込んでいるコマリとそれに同行するシモンを、後日案内することになっていた。
城下に行くのだし、ならば合間にブリッドのもとへ出向いて礼はもういいと伝えよう。
そう思いついたオロフは身支度を整え、腰に剣を佩いて騎士団塔をあとにする。
盛りは過ぎたとはいえ、まだまだ勢力の衰えない攻撃的な太陽が目を射して、彼は腕で影を作りながら空を仰いだ。
抜けるような青い空に霞のような雲がわずかに浮いていた。ブリッドの描いた空にあった雲は、空に守られているとあったが。
「今日は太陽に焼き尽くされたかな」
呟いて、オロフは厩に向かって歩きだした。
トーケルや部下たちとは、騎士団塔と魔法使い塔の間にある城門で待ち合わせている。時間には十分余裕があるためゆったりと歩むオロフは、前方にパウリを見つけた。
コマリの護衛官ということで、騎士団員になったパウリは、オロフと同じ騎士団塔に住むのだ。頭の後ろで両腕を組んで飄々と歩く姿は、腰の剣がなければ根なし草の風来坊のようだ。
コマリがいたから彼を王宮に繋ぎ止められた。
あの事件を知る者はそう思っているようで、テディなどは「コマリ様はあいつにとって強力な頸木だぞ」と言ったものだ。
当の本人であるパウリは、今の状態を嫌がっている風でもなく、真面目に護衛官としての任務をこなしているし、最近では騎士団員とも馴染みはじめている。
それに庭園パーティ以来、王宮魔法使いのペッテルやケビとも親しくなって、彼らを通じてヴィゴとも知り合ったようだ。それはまるで、生前のクレメッティの王宮での暮らしを知りたがっているみたいだった。
パウリの中で弟クレメッティは、どこまでも拭えない暗い影になっているのだろうか。
そんなことを考えながら、声もかけずにパウリを見ていたら、ふいに彼が足を止めて振り返った。警戒するような目でオロフを見た途端、パウリの表情が拍子抜けしたものへ変わった。
「なんだ、オロフか。誰かと思った」
「相変わらずふらふらと歩いているな――おはよう」
近づいて朝の挨拶をすると、パウリは「おう」と返事をした。
彼は「おはよう」だとか「こんばんは」だとか、そういう挨拶をきちんと口にするのは慣れていないらしい。
いつも軽い口調でしか挨拶しないけれど、最近ではシモンとコマリにはもごもごと挨拶するようになった。教育係のテディに、毎朝毎晩、頭を叩かれていれば言うようにもなるだろうか。
「聞いたぞ、オロフ。毎日、あんたに手紙が届いてるんだって?みんな噂してるぞ。あの堅物オロフに彼女できたってな。で?どんな女?」
二人が並んで歩きだしてすぐ、パウリが興味津々といった様子で尋ねてきた。手紙と聞いてオロフはブリッドからのあれかと思い至った。
この五日、一緒にコマリの護衛をしていながら、手紙のことを質問してこなかったのは、単に知らなかったからだろう。「美人?」と重ねて質問されて、オロフは考えるように宙へ視線を向けた。
「臆病で人見知りで人づきあいが苦手な引きこもり……かな?それに少々のろくて小さい」
「はあ?変わった趣味してたんだな」
そんな女のどこがいいんだ、と首を傾げているパウリに、オロフは苦く笑って否定した。
「彼女じゃない。数日前、困っていたところを助けただけだ」
「あー、あんたってそうだっけな。お姫さんに似てお人よしっつうか。ほどほどにしないと損するタイプだ。じゃなに?その人間嫌いの女に付きまとわれてるのか?」
「人間嫌いではないと思うぞ。むしろその逆だ。同じ職場の先輩たちと仲良くなれて喜んでいたようだったし。口下手だから、礼の代わりに得意な絵を描いてくれているんだろう」
「絵か。ふうん、新しいな……やっぱその女、オロフに気があるんだろうな」
思ってもみなかったことを言われて、ぱちくりと目を瞬いたオロフだ。
「なんだその間抜け面。毎日絵を送ってくるのは恋文のかわりだろ。俺でもわかるわ」
「そう、なのか?え?……だがそんなメッセージは一言も――今日だって青空の絵に、空に守られて雲が泳ぐとかなんとか……そんなことしか書いてなかったぞ」
「ふーん、他には?」
「他?他には花の絵に、忘れられない笑顔が咲いたとか、蝶の絵に明るい光に飛んでいくとか、鳥の羽の絵に心を届ける矢羽になりたいとか――これが恋文の代わり?」
いったいどこが。
黙って聞いていたパウリは、はっ、とおかしそうに笑いだした。
「独特な感性持ってる女だなぁ。矢羽って……」
「ああそうだ。普通とはちょっと違った感覚をしてるんだ。だから絵にも深い意味はないと思う」
「んー、まあ俺もどっちかっつうと、男に色目を使うような女を相手することが多かったし、こういう系はいなかったから深読みしすぎかもしれないけどな。ま、一回ちゃんと会ってやれば?たぶん、あんたに会いたいんだと思うぞ」
「そうかなのか?それならそうと、わかりやすく書いてくれればよかったのに」
「うわ、まじかオロフ――……なぁ、あんた彼女がいたことは?」
「ん?ああ、あるぞ。ここしばらくはいないが」
「だろうな」
なぜそこで納得する。
「わかってないようだから言ってやる。オロフ、そこ直さないと女できねーぞ」
「はあ?どこだ?」
「その鈍いところをだ。この鈍感野郎が。あんたの彼女だった女は苦労しただろうな」
彼女だった女、と言われてオロフの脳裏にある言葉が蘇った。
――あなたって誠実で優しいけれど、優しさの方向が違っているの。
そのあと嫌いになってはいないけれど、別れてほしいと言われたのだ。
(あれは鈍感と言っていたのか)
今になってやっとわかった事実に、オロフは溜息が出てしまった。
「鈍感男、か」
「お、珍しく落ち込んだか?」
「古傷を抉ったのはおまえだ。今日、城下に出るし、彼女に会わねばと思っていたんだ。おまえの予想通りかどうかは別として、ともかく話をしてみる」
「そうしろ」
パウリは口の端を持ち上げ、再び頭の後ろで腕を組むと、のんびりとした口調で言った。
「あんたが今日城下に行くって聞いて、昨日お姫さん、自分も行くってきかなかったよなぁ。今日も駄々こねんじゃないか」
「そこはパウリが得意の冗談で宥めてくれ」
「得意じゃねぇし。つか遠慮しとくわ。お姫さんからかうと、ドリスが殺意を持った目で睨んでくるからな。テディに任せる」
「どうしてそこまでドリスに嫌われてるんだ。本当になにもしていないのか?」
「してないし知らない。いつかマジで闇討ちされそうで、あの女は避けることにしてる」
顔を顰めているパウリは、本当にドリスを苦手としているようだ。
「拗ねたコマリ様はいつも以上に動き回るから護衛はしっかり頼んだぞ」
厩へ続く分かれ道に来たため、オロフは労うようにパウリの背を叩く。
彼は「了解」と軽い口調で手を振って王族塔へ去って行った。オロフも背を向け歩き出す。
ブリッドを訪ねるのは、仕事が終わってからにしよう。
パウリと話をするうちそう思い直していたオロフだ。
商家で接客をせず、荷や手紙の仕分けをしているのだから、いつ尋ねても大丈夫だろう。
* * *
「留守?ですか?」
用事があると、トーケルや部下たちに先に王宮へ帰るよう言って、商家を訪ねたオロフは女のすげない返事に肩透かしを食らった気分だった。
下男にブリッドを呼び出してもらったのだが、現れたのは妖艶な色気を纏った美女だった。最初現れた彼女は笑顔であったはずが、オロフを見た途端、一瞬で冷ややかな顔になった。
きちんと身元と名を明かしたはずが、なぜこうまでつんけんした態度をとられねばならないのか。
理由がわからぬままブリッドはどこに、と重ねてオロフが尋ねれば、昼から使いに出たらしい。
「人見知りで人と関わる仕事は任されていないのでは?」
つい疑問が口をついて出てしまった。
高い塀に囲まれた商家の裏門の柱にもたれる女は、面倒そうに溜息をつく。
「それ、あの子に聞いたんですか?」
「いや、以前ここの主人がそう――」
「やっぱり、あのときの無礼な男の一人なの」
じろ、と女に睨まれてオロフはたじろいだ。
「覚えてるわ。遅くに訪ねてきて男二人でブリッドを訊問したの」
「訊問では……」
「返事を強要したら立派な訊問でしょう。あのあとあの子がどれだけ怯えていたか。それがなぁに?あのときからブリッドに目をつけていたって?あの子はあなたに助けられたって言ってたけど、全部あなたが仕組んだことじゃないでしょうね。ブリッドを誑かす気ならやめてくれないかしら」
「あの日の俺と同僚が不躾であったことは謝る。申し訳ない。ブリッドにも謝った。それから先日のことだが、彼女を誑かすつもりで近づいたわけではない。酔っ払いに絡まれていたところに出くわして――」
とたんに女が目を剥いた。
「酔っ払いに絡まれた!?あの子、こないだはそんなこと一言も……。ちょっとどういうこと!?絡まれてたってどういう風に?まさかどこかに連れ込まれてたとか」
「通りで男たちに囲まれて半泣きになっていたんだ。たぶん腕を捕まれたぐらいだろう」
オロフの返事に女はほぅと安堵の吐息をもらした。
「ずいぶんとブリッドのことを心配しているみたいだ。彼女からは先輩たちと最近親しくなったと聞いていたが」
オロフがこう言うと、女は意外と言わんばかりに顔つきを変えた。
考えるように組んだ両腕に豊満な胸が乗る。大きさより感度を重視するので、でかいなとオロフは見たままの印象を持つくらいだが。
「そういう話をあの子がするなんてね。あのね、お兄さん。真面目な仕事ぶりを見ていれば、わたしたちだってブリッドがどういう子かぐらいわかるの。旦那様から臆病な子だとも言われてたし、ゆっくり今の関係を築いただけ。なのにあなたはあっさりと……――」
「は?俺がなにをしたと?」
意味が分からなくて尋ねてみたが、女は答える気がないのか、あからさまに話題を変えられた。
「で?ブリッドにちょっかいをかけてるんじゃないなら、どういう用件なのかしら?戻ったら伝えるけれど」
「伝言は?」と尋ねられてオロフは無言になった。最初、絵はもういいと言うつもりだった。
しかしあの絵には意味があったのではとパウリに教えられて、きちんと話すほうがいいと思ったのだ。
「うーん……ではまた後日改めるとだけ。そのときは今日のようにならないよう、尋ねると先触れするようにする」
「そう。わかった、伝えておくわ」
「では頼む――ええと……」
「テアよ。ここの女たちのまとめ役。よろしくね、オロフさん……でよかったかしら?」
「さんはいい。あなたのほうが年上だろう」
「女に歳の話はしないものよ、オロフ」
上目遣いに顔を覗き込んできたテアがにっこりと微笑んだ。
風に流れた髪を抑えた拍子に、豊満な胸が揺れる。鼻孔をくすぐる甘い香りは彼女からだろう。
じっと見上げてくる瞳が潤んでいるようで、オロフは改めて彼女がとても美しいと気が付いた。
トーケルあたりが好きそうな、色っぽい大人の美人だ。
「そうか、それは失礼した。どうも俺は鈍感だけでなく無神経らしい」
素直にオロフが謝罪を口にすると、テアは少しあって、ふふと可笑しそうに笑いだした。
「鈍感。ええ、本当にそうみたいね。――ブリッドが戻ったら確かにあなたのことを伝えるわ。今日はブリッド、旦那様とあの子の実家に行ったのよ。ブリッドの父親と旦那様が仲が良くてね。ときどき連れて帰って安心させてるみたい」
主人に特別扱いされて、それでもテアのような先輩たちから受け入れられているのなら、ブリッドは彼女らにとても好かれているということだ。
(どうして本人は気づいていないんだ)
最初、テアがオロフを訝しんで威嚇してきたのは、ブリッドを可愛がっていたからだと気が付いた。
オロフは失礼する、と折り目正しくテアに告げ商家を後にした。