オロフ編1
カッレラの夏は雨があまり降らない。けれど今日は朝から曇天に覆われ今にも雨が降り出しそうだった。
夏の射るような陽光がないぶん、空気はいつもより冷えていて、けれど湿度を含んで重苦しい。
くぁと欠伸をもらしつつ、オロフが王族塔へ向かって歩いていると、後ろから含み笑いが聞こえた。
「お前が気を抜いているなんて珍しいな。寝不足か?」
「ん?ああ、テディか。昨夜、城下に出てちょっとな」
そう言ったオロフの隣に、背後から追いついたテディが並ぶ。シモンの側近を務める彼は仕官塔住まいだ。
執政塔で働く役人たちが暮らす塔であるが、テディのような王族の側仕えも暮らしている。
騎士団塔も王宮を警護する衛兵が暮らしているし、いくら王宮が広くとも職種ごとに建物を建てていられないということだろう。
「そういえば上官と飲みに行くとか言っていたな」
「ああ。昨夜はパウリにコマリ様の護衛を任せていたし、まだ不慣れなところもあるかと、早めに切り上げるつもりだったんだが……」
「上官が離してくれなかったのか?」
「いいや、そのあとだ」
「あと?」
白亜の外壁をした王族塔へ一旦視線を投げたオロフは、過去を思い返しつつテディに切り出した。
「マチルダ様の証言の裏づけを取るために出向いた商家があったろう」
「ああ、あのたたけば埃の出そうな食えない主の」
「その主が預かってると言ってた娘を覚えているか?ほら、手紙の仕分けをしていた――彼女が酔っ払いに絡まれていたんだ」
オロフの言葉にテディは意外そうに眉をあげた。
「あの極度の人見知りが夜の酒場に出向いてたのか?」
「仕事のあと同じ職場の仲間に連れていかれたようだ。内向的すぎるのを案じた先輩に、社会勉強をしたらどうかと言われたらしい。ちゃんと安全な時間帯に帰ったようなんだが、失くしものをしたことに気づいて、一人探しに来ていたんだ」
「失くしもの?おまえまさか、その娘を酔っ払いから助けたあげく、探し物まで手伝ったのか?」
「あんなに怖がりなくせに、それを押してまで探しに来るくらいだぞ。よほど大事にしているものだろう?テディだってその場に居合わせれば、俺と同じことをしたはずだ」
「面倒事に首を突っ込むのはごめんだ」
テディは誰がするかと呟き顔をしかめている。
口ではそう言いながら、困っている人がいたら助ける奴だということくらい、オロフはわかっている。しかし言えば嫌がるため、笑うだけにとどめた。
「で?見つかったのか?」
「ん?」
「探し物」
テディに問われてオロフは頷いた。
「ああ、半分くらいは」
「はぁ?半分?いったい何を失くしたんだ」
「何って……んー、あれはなんていうんだろうな。日記?」
「日記?そんなものを持ち歩いているのか?」
「いや違うな……詩?」
「詩?」
「それも違うか。ほら彼女、人と話すのが得意じゃなかっただろう?だから普段思ったことや感じたことを、絵と一緒に文字にしたためてるんだそうだ。たとえば今日みたいな曇り空見上げて、「雨が降りそうだ」みたいなことをだな……ああいや俺がやると、ただ見たままを言ってるだけなんだが、彼女のは同じ見たままでもどこか違っていてな」
「それは芸術的なものか?」
雲を見つめるオロフにつられたのか、同じように空を見上げていたテディの質問に、オロフは首を振った。
「もっと身近な、メッセージ集みたいなものだ。素朴な絵と言葉だから余計に人を勇気づけたり、心が洗われる者がいたんだろう。最初に拾った奴が酒場で開いて、徐々に見る者が増えてって、そのメッセージ集は店を転々とまわっていったらしい。で、気に入ったメッセージを抜き取る奴もいたらしくて、見つけた時には半分以上なくなってた」
「真夜中まで酒場をうろつく奴らなんて、日頃の鬱憤が溜まりまくっているか、欲にまみれた人間がほとんどだろう。そんな人間の心を打つメッセージを書くのか」
へえとばかりにテディは感心した様子をみせ、気になったようにオロフを見た。
「おまえは?心が清められたか?」
「そうだなぁ、花一つをとっても俺と違って面白い感じ方をするんだな、と。感受性が豊かなんだな」
「そうだな、おまえはそういう奴だったな」
「可笑しなことを言っているか?」
自分にはない感性の持ち主だとほめたつもりだが。
首を傾げるオロフに、テディは笑いながら肩を叩いてくる。馬鹿にされている気がしないでもないが、言えば予想と反対のことを言ってくるに違いない。
テディの性格はひねくれていると知っているからこそ、オロフは突っ込むことはあきらめた。
王族塔へ入って回廊を進む。シモンとコマリの住まう一角へ歩みながら、そういえばとオロフは話を切り出した。
「コマリ様がルーヌとヴィゴの快気祝いの会場探しを、一緒にすると言い出したそうだな」
とたんにテディが頭が痛いというようにな顔になって頷いた。
「おかげでシモン様までご一緒に城下へ出ると言い出した。またご公務が滞る」
「コマリ様は俺たちを手伝いたいんだと思うぞ」
「それはわかっているが、わたしたちとはお立場が違うのだ。一緒になって準備に走り回るなど、なさるべきではない」
王族塔へは限られた者しか入れないため、二人の周りに人はいない。歩いてくる人の気配もないことから、テディはさらに言葉を紡ぐ。
「わたしがおやめくださるようコマリ様に頼んでも、耳をふさぐばかりだ。頼みの綱のシモン様はコマリ様に甘くてらっしゃるから、わたしが何を申し上げても笑うだけで、しかもどうやら城下デートと喜んでいるふうだしな」
我慢できずにオロフは、ぶ、と吹き出してしまった。
「なぜそこで笑う」
「文句を言いつつ楽しそうだ」
とたんにテディは黙り込んで口をへの字に曲げた。テディは普段あまり感情を面に出さないが、オロフの前でだけは別だった。
テディが自分の前でだけ気を抜いていると知っているから、オロフもまた心を置くことなく話ができる。
「お二人のことは俺たちでお守りすればいい。普通の恋人同士のようにデートもできないんじゃ、そりゃあ不満も溜まるだろう。特にコマリ様は、日本のような自由にあふれた国にお住まいだったのだ。おまえもお気持ちをわかってやれ」
「だからといってお忍びでほいほい城下へいらっしゃるのも……ああ、今後もこのようなことで頭を悩まされるのか。毎日、毎朝、毎晩、部屋でいちゃついていらっしゃるのに、これ以上デートまで――よく飽きないな」
くしゃりと髪をかき上げるテディの最後の言葉は本気だった。彼は恋愛に関して冷めているせいか、世間一般の恋人同士がどのようなものかわからないらしい。
かくいうオロフも得意分野ではないが、テディほどではない。
「つきあいたての二人は常に一緒にいたいものだろ。おまえはそういう相手に出会ったことはないのか?」
「あとくされないつきあいが楽だ。というかそういう女もいないおまえに、恋愛のなんたるかを語られてもな。ああ……前に話していた女とはどうなった?」
「いつの話だ。気が合ったってだけでつきあってもいないぞ。シモン様のお供で日本に一ヶ月いた間に、男ができたみたいだな。この前、偶然城下で会ってそう聞いた」
「相手はおまえに本気だったと思うぞ。禁欲的すぎる鈍感男が相手で、諦めたってとこだろう」
「禁欲的?俺も男だが……」
「じゃ、手を出したか?」
「朝からする話じゃないな」
笑顔でやんわり話すことを拒むと、テディは肩を竦めて首を振った。「聖人君子か」と呟くのが聞こえたが聞こえていないふりをする。
(禁欲的か。テディには俺のことがそんな風に映ってるのか)
気持ちいいことはしたいが、出会ってすぐにそういう関係になるのはと、オロフは思ってしまうのだ。つきあってもいないうちに関係を持って、結局つきあわないまま終わったら、それは体だけが目当ての男と何が違うだろう。
「確かに俺は恋愛の機微がわかってるほど経験豊富じゃないが、つきあった相手には優しくしたつもりだ。シモン様とコマリ様のように睦まじい関係を見て、微笑ましいと思うしな」
「独り身の男が彼女持ちの男を見たら、ふつう微笑ましいと思うより羨むんじゃないか?」
「シモン様とコマリ様を相手に、そのようなことを思うわけがないだろう」
オロフの返答にテディは一般論だと言ってくる。
「一般論な…ああそういえば、トーケルがいつもスミトを羨んでるな。この前、スミトとゲイリーを誘っての飲み会に、俺たちも呼ばれたろう?あのときトーケルにつかまって、ジゼルがなぜスミトのような腹黒を好きなのかと散々愚痴られた」
王宮魔法使いの三人は、スミトとゲイリーを敵視していたことを反省し、謝罪のつもりで飲み会を企画したのだが、そこへオロフとテディも参加したのだ。
「隅で二人、こそこそやっていると思ったらそんな話をしてたのか。リクハルドじゃ人の彼女に恋慕した時点で白い眼を向けられるし、グンネルには鉄拳を食らわされるだろう。ゲイリーは酒にしか興味がなさそうだったから、黙って話を聞いてくれるおまえにトーケルは絡んだんだろう」
人を人畜無害な男みたいに。思いながらオロフは口を開く。
「相談相手に見込まれたと思っておこう。もしトーケルがおまえに相談していたら、おまえのことだ。スミトのいないところで押し倒せと言っていたんじゃないか?」
「いいや、わたしなら心変わりするように仕向けろと言うな」
テディの面に、ニヤと悪い笑みが浮かんだ。
「本気でほしい女なら、わたしはそうする」
「手軽な相手がいいんじゃなかったのか?」
「だから、もしそういう相手がいたらの話だ。――わたしは、ジゼルにはトーケルよりスミトのほうが合っていると思うがな」
「ああそれはわかる」
姉御気質なジゼルだが、スミトにだけは甘えられるようだ。スミトは一見のほほんとした軟な男に見えるが、その実とても頼りになる。
しかしこと恋愛に関しては気持ちを言葉にすることが苦手なようだ。
(コマリ様も言葉を飲み込むと、よくシモン様が漏らしているな)
スミトはコマリと同じ日本人だ。だとしたらあれは国民性なのかもしれない。
ともかく言葉はなくともスミトの行動や態度からは、ジゼルをとても大切にしていることがわかった。
きっとトーケルがジゼルとつきあったとしても、友達のような恋人関係しか築けないだろう。
それはそれで悪くはないが、やはりジゼルはスミトといるほうが自然だと、オロフには思えた。
「いや、いまはジゼルとスミトのことじゃないか。オロフ、その出会いを大事にしたほうがよかったんじゃないか?」
「は?ただの人助けだ。出会いじゃない」
「友人として忠告するが、このままじゃおまえ、仕事が恋人になるぞ」
「テディだって仕事ばかりじゃないか」
「わたしはたまに息抜きをしている。だがおまえはわたしのようにはできないだろう。だから特定の相手を作って癒してもらえと言っているんだ。男ばかりの騎士団では潤いもないだろう。今後は女と出会ったら、モノにできそうかと目を光らせておけ」
最後は命令されてしまった。異性とみれば食いつけとは、どれだけがっついているのだ。
(でもこれは、テディなりに俺のことを心配してくれているんだよな)
そう思ったら自然と笑みがこぼれた。
「忠告は肝に銘じておく」
にこにこと笑いかけるオロフに、テディはこれはダメだと溜息を吐いた。
ちょうどそこへ、ぽつ、と天から滴が落ちて緑の葉を打つ。すぐにオロフは雨音に気づいて、等間隔に並ぶ柱と柱の間から外へと顔を向けた。
遅れてテディも濡れた葉を見つめ言った。
「降ってきたな」
干上がっていた土はすぐに雨水を吸い込んで色を濃くした。あたりに雨の匂いが立ち込める。
日照りが続くと、作物を育てる農民が水撒きに追われることになる。
「恵みの雨だな」
オロフが何気なく呟くと、テディからそうだなと声がした。
湿度は変わらず高いが、むっとした外気が雨に洗われ冷えていく。
その日、朝から気温はどんどん下がっていった。
* * *
「俺に荷物?」
仕事を終えた夜。朝から続いた雨は小雨にかわり、これならばと王族塔から濡れて騎士団塔の自室に戻ったオロフは、寮監に呼び止められた。
毎年、騎士団の中で寮監が決められ、今年はオロフの直属の後輩がその任に当たっていた。ルーヌの一年先輩で真面目な性格をしているため、この時間まで寮の雑用をこなしていたようだ。
「はい。晩飯時に荷便官が直接こちらまで持ってきました。なんでも城門を警護する衛兵が、門を閉めようとしていたら声をかけられたそうです。どうしてもオロフ様に渡してほしいと――あまりに熱心に頼むもので、急ぎの品かと衛兵は思ったらしく、荷便官も時間外であるのに届けてくれたのです」
話を聞くオロフが、荷物が届く心当たりもないため眉を寄せて入ると、彼はそうだと付け足した。
「相手は女性だそうですよ」
女性と聞いてますます首を傾げるオロフに、後輩はおかしな顔をした。大方、彼女がいたのに隠していたと、思われていたのだろう。
「そうか、わかった。遅くまで寮監の仕事、ご苦労だったな」
油紙をまいた文ほどに薄い手荷物を受け取り、オロフが寮監を労うと、彼は背筋を伸ばして首を振った。
「いえ、このくらい。それよりオロフ様、ルーヌの快気祝いをすると噂に聞いたのですが本当ですか?」
「ああ、王宮魔法使いのヴィゴという男も一緒に祝うから、魔法使いと合同になるがな。詳しいことが決まったらきちんと皆に連絡する」
「そうですか。ルーヌの奴、医薬師塔に見舞いに来る彼女にデレデレで、鼻の下伸びまくってるんですよ。復帰したら俺たち扱く気満々なんです」
「ほどほどにしてやれ」
オロフが苦笑を浮かべると、彼はわかってますと笑顔で去って行った。
部屋に入ってランプの明かりをつけたオロフは、朝座ったまま戻してもいない椅子に腰を下ろした。テーブルに肘をつくと、手にした薄い荷物を見つめる。
油紙は雨で中身を濡らさないためだろう。麻紐で縛ってあるそれを、オロフは何度かひっくり返して差出人の名前がないかを確かめた。
が、どこにも名前がない。
怪しい荷かと訝ったが、中身が気になって結局は麻紐を解いてしまった。
少し油紙を破いてしまいながら、オロフは中身を確認する。
中には小さな一枚の画紙。描かれていたのは、誰かに差し出しだしたような右手だった。
オロフは瞬き、次いで笑った。
「もしかしてこれは俺の手か?」
〈優しい形〉
余白に書かれた言葉の意味を考えるがよくわからない。
こういう感性が自分にはないのだ。
自分の右手と並べて見比べ、しばらくあって絵をテーブルに置くと、昨夜を思い返すように足を組んだ。
馴染みの店でもう少し飲んでいくという上官と別れ、王宮に帰ろうとしていたときだった。誰かが酔っ払いに絡まれていることにオロフは気づいた。
怯えているのが若い女性であったのと、周りの誰も助けないため、彼がその役を買って出たのだが、まさかあのやたら引っ込み思案な娘であったとは。
最初、そうとは気づかずにへたり込む彼女に手を伸べたら、思い切りのけ反られた。
酔っ払いと同じ男である自分が怖いのかと訝りながら、何もしないと口を開きかけたのだが――。
* * *
「あのときの怖い人二号」
目の前の女が言った言葉が、オロフは理解できなかった。
「はぁ?怖い人……?」
二号とはなんだ?
オロフは膝を折って娘の前にしゃがみ、顔をよく見ようと覗き込んだ。
そして気づく。
「ああ、君は――」
思い出して、オロフは相好を崩していた。
「あのときは失礼した。重要な案件を調査していたためとはいえ、随分と強引だったと思う。申し訳ない」
これ以上ないくらいオロフから身を離していた娘が、その台詞にやっとまともにこちらを向いた。
「一号みたいに、怖く…ない?」
一号とは彼女に質問をしていたテディのことだろうか。
漏れ聞こえた呟きに、ぷ、と笑う。
「よほど君を怖がらせたんだな。本当に申し訳ないことをした。お詫びに商家まで送ろう。この時間だし、またからまれないとも限らない」
「だ、だめです。探し物が…あります」
「探し物?明日また探しに来れば――」
「大事なんです」
「そんなに?」
臆病であるだめに接客をさせないと商家の主は言っていた。それは今この態度を見ても頷ける。
オドオドとしてオロフの目を見ることもしないのだ。そんな彼女が恐怖を押してまでも探そうとするものなら、きっととても大切なのだろう。
「わかった。なら一緒に探そう」
うろうろと逃げていたはずの彼女の視線がオロフへ向いた。
緑がかった茶色の瞳は大きく見開かれ、オロフの申出に驚いていることが見て取れた。
「あのときの罪滅ぼしだ。だから怖い人二号はやめてくれないか?」
なるだけ彼女を怖がらせないようにと、明るい口調で語りかける。
「二号は、ダメ…ですか」
訥々としたしゃべり方だが先ほどまでと違い、ちゃんとこちらを向いて話してくれている。怖がりで人と接するのを苦手とするなら、言葉を紡ぐことも慣れていないのかもしれない。
「俺はオロフ・ヒルヴィだ。オロフでいい。王宮の騎士団員だ」
長い沈黙の後、ぽつりと聞こえた。
「…………ブリッド……マルムロース」
自己紹介をしてくれているのかと続く言葉を待ったが、どれだけ待っても何も続かなかった。
やはりうまく話せないようだと納得して、オロフは腰を上げた。
「じゃあ行こうか、ブリッド」
夜の酒場通りを歩き出しながら、オロフは、で、とブリッドに声をかけた。
しかし返事がなく、それどころか側には見当たらない。振り返れば彼女はオロフを追いかけてきていた。
横に並んで止まったため、オロフは再び歩きだし、
「それでいったい何を――」
質問を口にして脇を見下ろせば、また忽然とブリッドが消えていた。
立ち止まるオロフは、ブリッドが小走りに駆けてきているのに気付く。
そして彼の側に来ると、さっきと同じでブリッドの歩みが止まった。
嫌な予感を覚え、オロフは意識をブリッドに向けたまま歩き出す。
(……嘘だろ。なんて鈍いんだ)
普通の人間ならば遅くとも一、二歩ほどの遅れて、同じように歩き出すはずが、ブリッドはかなり反応が遅かった。
オロフが三歩目を踏み出す頃やっと動くのだ。
十歩ほど先を行って振り返ったオロフは、ブリッドが鈍いだけでなく、行き交う人を避けるせいで、まっすぐ歩めていないとわかった。
それにもう一つ気がついた。オロフの一歩とブリッドの一歩では、歩幅が全く違う。
やっと追いついたらしいブリッドは、息を整えるように胸に手を当てた。
たったこれだけの距離を歩くのに、いったいどれだけのロスをしているのだ。
歩くことすらまごついていては、それは酔っ払いに目をつけられるだろう。
(危なっかしい)
オロフはブリッドの前に手を差し出した。
「手相……は、わかりません」
不思議そうな声にオロフは苦笑を浮かべる。
「この状況で手相を見てくれなんて言わないと思うが」
「もしかしてわたしと握手したいのですか?」
はっとブリッドの顔色が変わった。
どうしてそこで驚いた顔になるんだ。
「ブリッドを一人で歩かせておくのは危ない気がする。手を繋いで引っ張っていくほうが安心だ」
そしてなぜいきなり落胆する。
「それは職場の先輩達にもよく言われます。初対面のオロフにまで言われるなら、わたしはやっぱり鈍間なんですね。そうですよね、握手なんてわたしとするはずないですよね」
必要以上に落ち込んでしまったブリッドに、オロフはわけがわからない。
「ブリッドがしたいなら握手ぐらいいつでもするが?」
「え……本当、ですか?」
半信半疑な様子で訪ねてくるブリッドに、オロフは上向きに差し出していた右手の向きを変えた。握手しやすいようにと軽く持ちあげる。
戸惑ったようにブリッドが手を伸ばしてくるのを掴んで、きゅ、と軽く力を込めた。
オロフと比べて随分と小さな手だった。強く握れば怪我をさせてしまうだろう。
そんなことを思いながらオロフはすぐに手を離し、今度はブリッドの左手をとって手を繋ぐ。
そのまま歩き出したことで、引っ張られたブリッドが小走りになったため、そうだったと歩幅を狭くした。
コマリの護衛となって、ゆっくりと歩くことに慣れていたオロフだ。すぐにブリッドの歩幅と速度に自分のそれを合わせた。
そして何度も失敗した質問を、やっとブリッドに投げかける。
「探し物はどんなものなんだ?失くした場所はわかっているのか?」
返事がないため見下ろせば、褐色の髪を揺らすブリッドの頭が見えた。繋ぐ手を見つめているようだ。
「強く握りすぎたか?」
痛かったかと力を緩めたら、逆に握り返された。
「オロフは人見知りをしないのですね」
質問したのに違う答えが返ってきた。
「わたし、こんなだから初対面の人にはたいてい避けられるんです。たぶん嫌な思いをさせてるんだと思います。だから誰も親しんで握手なんてしてくれない。職場の姉様――先輩達とだって、打ち解けたのはほんの最近で……」
手を差し出せば握手かと驚いて、違うとわかったら落ち込んだ理由がわかった。
「俺とは話せてるじゃないか」
話をしても一文のみで終わってしまうのかと思っていたが、だんだんと饒舌になってきているのだし。
「え?あ、本当だ。まだお酒に酔ってるのかもしれません」
酔っているとはいえ、人と話をすることができるのだから、慣れれば人見知りはしなくなるのではないのか。
思うオロフはブリッドの話に耳を傾ける。
「今日、初めて先輩達が飲みに誘ってくれたんです。わたしが遊びにも出ないから、社会勉強だって言って。職場仲間との飲み会は憧れでした。嬉しくて、今日のことを残したくて――なのに楽しい時間に何もできないままで、それどころか全部店に忘れてきてしまいました。部屋に戻ってやっと気がついて、慌てて取りに戻ってきたんです」
「いやだから、失くしたものは何なんだ?」
「……………」
無言になってしまったブリッドにオロフは重ねて続ける。
「教えてくれないと探しようがない」
「絵」
「え?」
「絵です」
「ああ、絵か。どんな?」
「………覚えておきたいこととか発見したこととか。絵と文字で残してるんです。人と話すのが苦手だから…せめてそうやって表したくて……」
話すうち、なぜかブリッドの声が小さくなっていく。こういう彼女だからこそ絵は、唯一の自己表現なのかもしれない。
絵と文字と聞いてオロフは思い出すものがあった。
「絵日記みたいなものか」
「絵、日記……?」
「あ、や、イメージがそれしか浮かばなかった。気を悪くしたなら謝る」
「……笑わないのですね」
「ん?もしかして絵を探しているというのは冗談だったのか?というか、この冗談の笑いどころは?」
「本当のことを言っているので、笑わせてはいません」
オロフには彼女が何を言いたいのかさっぱりわからない。部下であるなら、簡潔にはっきり言えと喝も入れられようが、ブリッドは人一倍臆病な娘なのだ。
一喝するわけにもいくまい。
「えーと、俺を笑わせるつもりじゃなかったなら、「笑わない」とは?」
まただんまりと口を噤むブリッドだ。オロフは辛抱強くつきあいながらも、彼女のテンポにじれったさを覚える。
気が短くはないつもりだが、正直もう少し打てば響いてほしい。しばらく待って返事を諦めかけたとき、ブリッドの足が止まった。
先にオロフが一歩進んでしまったせいで、繋いでいた手が離れる。
「……うまく話せないから絵ばかり描いてて……小さい時はそれがもっとひどくて、だからわたしのこと……変わってるって学び舎のみんなが言ってました。そのうちからかう子も出てきて、絵を描くだけで笑われて……それでわたし、人前では絵を描かないようにしようって……もうずっと隠してるから……」
俯くブリッドが絞り出すような声で言った。
「でも飲み会で描くつもりだったんだろう?先輩がいるのに」
「お手洗いに行くふりとかで、一人になってこっそり描くつもりだったんです」
からかわれたことが余程トラウマになっているようだ。しかし、ここまでしてまで描きたかっただなんて、ブリッドは同僚との飲み会をとても楽しみにしていたのだろう。
彼女ほどの人見知りなら、人間関係をこじらせて人嫌いになってもおかしくはない。
だがブリッドは人と関わることに喜びを感じている。
ならばいまこそ変われるチャンスではないだろか。
「ブリッドがいるのはもう学び舎じゃない。周りにいるのはいい大人だ。ならば人の趣味を笑うなんてことはないと思うけどな。もしバカにする奴がいても、堂々としていればいい。絵を仕事にしてる奴だっているんだ。恥じるようなことじゃないだろう?」
「じゃあオロフから見て、わたしはどうですか?変……ですか?」
「俺と普通に話せているし変だとは――」
「ではどんなですか?」
人見知りするはずのブリッドが身を乗り出してきた。えらく食いついてこられて、今度はオロフがわずかにのけ反ってしまう。
しかしこれはいい兆候かもしれない。自分を通じて、他人と接するのが怖いことではないと思ってくれれば、彼女も少しずつ人との距離をつめていけるだろう。
そう思い直してオロフは言葉を探した。
ブリッドと話をしてほんの数分だ。内面的なことはよく知らないため、とりあえずは外見を言うしかないだろう。
「ん……小さい?」
「へ?」
髪がきれいだとか瞳が美しいだとか。女性の喜びそうな台詞はわかる。
だがそれではナンパ男の口説き文句のようだし、オロフには口が裂けても言えない台詞だった。
ならばともかく、見たままを伝えてみるほかない。
ブリッドはオロフが護衛するコマリと身長が同じくらいか、少し大きい。
世間一般に見て決して小さくはないのだが、彼からするとたいていの女性は小さいと映るため、外見的特徴はまず「小さい」となった。
「身長もだが、繋いだ手も小さくて怪我をさせないようにと思ったくらいだ。それに歩幅も違ったな。最初、気がつかなくて悪かった」
「ではオロフがいきなりゆっくり歩くようになったのは……――驚きました。見かけによらず気遣い屋なのですね」
「見かけによらずって……あー、確かに気の付くほうじゃないか。なんだブリッド、慣れれば言いたいことを言うんじゃないか」
はは、とオロフが笑うとブリッドは、あ、と口を押え、オドオドとした態度に逆戻りしてしまった。
「すみません。やっぱりわたし、お酒に酔ってるみたいです。気が大きくなってつい失礼なことを」
「いまのは友人同士の軽口のうちだろ?それよりどこの店で飲んでたんだ?忘れ物に気づいたなら、保管してくれているかもしれない」
オロフが手を繋ぐために右手を差し出すと、ブリッドがさっきよりも素直に手を出した。
「こっちです」
潰さないようにと控えめ力を込めた手のひらを、ぎゅっと強く握られ思わず目を向けた。
しかしどうやらブリッドは絵が気になるようで、視線に気づかずぐいぐいオロフを引っ張っていく。
身長差から彼は、前かがみになりながらついていった。
* * *
結局、夜じゅう探し回って何とか絵を取り戻し、明け方近くにブリッドを商家まで送った。オロフが王宮に戻ったのは空が白む少し前だ。
オロフはテーブルにある小さな絵を見つめる。ブリッドは今日も仕事があると言っていたから、終わってから描いたのだろうか。
もう一度、絵と自分の手を見比べてから席を立った。
壁にくっつけてある机に近づいて、机上に並ぶ書籍に絵を立てかけた。
サーベルベルトを外しながら、クローゼットに方向を転じたオロフから、くあ、と欠伸が漏れる。
今日はもう休むかと、彼は肩に手をあて、コリをほぐすように首をめぐらせた。