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あなたの虜  作者: 七緒湖李
本編
136/161

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「シモン様、起きてくださいませ」

聞き覚えのない女の声がしたことでシモンは目を覚ました。

いつの間にか眠っていたらしい。

ソファで横になっていたのかと、シモンは身を起こし額を押さえる。

(なにかとても幸せな夢を見ていたような)

だがどうも気だるく、霞がかったように頭がはっきりとしない。


――シモン。

「シモン様?いかがなさいました?」

一瞬、脳裏に蘇った声と現実の声が重なって、シモンは遅れて顔を上げた。

一人掛けのソファに爽やかな新芽色のドレスに身を包んだ女が座っていた。

彫刻に刻まれた女神のような、触れることを躊躇わせる冒しがたい美貌を持っている。

薄い茶色の髪を頭部でまとめ、同じ色の瞳は自分を見つめていた。

目が合ったとたんシモンは夢から覚めるかのごとく、彼女のことを思い出した。


「ああネリー、なんでもない。少し寝ぼけてしまったようだ」

「ご公務がお忙しくて疲れていらっしゃったのですわ。休養もかねてわたくしと避暑に来たのですけれど、まさか寝ぼけて、そのこともすっかりお忘れになってしまわれましたか?」

「避暑……」

呟くシモンは室内の調度品に目を向け、次いで窓の外を見やる。

王族塔にある見慣れたものとはまた違う調度品。

そして外にはプールがあり、この部屋専用だろうと予想がついた。

泳ぐ者が見えないよう、青葉の茂る垣根で目隠ししてあり、視線をずらせば万年雪をいただく山が望めた。


「あれはザズザ山か?」

「はい」

では裾野に広がる森はフェルトの森か。

覚えのある山や部屋の造りにここがどこか理解した。

「そうか、ムルジッカ湖の保養地に来たのだったな」

「今朝、着いたばかりです。シモン様、いくらお疲れだとしても、わたくしのことはもちろん覚えておいでですよね」

くすくすとネリーが笑うのにつられてシモンも笑った。

腰を上げ、相好を崩している彼女に近づく。


「覚えている。ネリーはわたしの魂の片割れだ」

半分ほどボタンの開いた長袖シャツから覗く胸に手を当て、もう一方の手を肘掛けについて体を支える。

ネリーに顔を寄せた。

「愛魂の流れる先はネリーだと確認するか?」

食い入るようにこちらを見つめてくるネリーに、シモンは誘うような笑みを向ける。

「――かぁっこいい……」

ぽーと自分を見つめるネリーの言葉が耳に届いた。

唇を奪おうと動きかけたはずのシモンは「は?」と眉を寄せる。


(いまのは幻聴か?)

ネリーは落ち着いた大人の女性だ。

淑女の鑑と誰もが口をそろえ、礼儀正しくおよそ砕けた口調で話すようなタイプではない。

聞き間違いかと訝るシモンの視線を感じたのか、彼女はすぐに美しく微笑んだ。

「シモン様に見惚れてしまいましたわ」

「いまのはいつもとずいぶん印象が違ったな。驚いた」

「え、そうですか?あまりにシモン様が素敵で舞い上がっしまいました。なにを口走ってしまったのかしら。お恥ずかしいですわ」

そう言って恥じらう仕草がシモンに邪な想像させる。

この先に進めばどのような姿を見せてくれるのかと。

「あなたも美しい。ネリー、わたしの愛しい――」


バン!


突然大きな音がした。

ネリーに口づけようとしていたはずのシモンは、とっさに彼女を庇って振り返った。

寝室の扉が大きく開け放たれ、女がよろめきつつ現れる。

彼女は見たこともない意匠の水色の服を着ていた。

首の後ろに布があるのは、雨除けのついた外套と同じで頭に被るフードがあるからだろう。

ならばあのおかしな服は上着なのか。

水色のそれのボタンは閉じられ、女の腿の半分ほどまでを隠している。

しかし裾から下は生足がのぞいていて、何ともあられもない格好だ。

裸体に上着を羽織っただけに思える。


女は壁に手をつき、額を押さえて頭を振る。

肩ほどで揺れる黒髪はどういうわけか濡れているようだ。

『………』

女が何事か声を発したがシモンには聞き取れなかった。

ネリーと二人の部屋にどうして見知らぬ女がいる。

シモンは警戒しつつも彼女を見つめた。

ふらつく女はとても具合が悪そうだ。

「なぜ――」

ネリーの呟きが聞こえたため振り返る。

一驚した様子で女を凝視するその顔につられ、シモンは再び謎の人物を見た。

壁を支えに女がゆっくりを顔をあげる。


「あ……?」

自分でも何を言おうとしたのだろうか。

女の黒い瞳と目が合った瞬間、シモンは魂に衝撃が走った気がした。

彼女のことは見たこともないはずだ。

不思議な肌の色からしてカッレラ王国の者ではないだろうことはわかる。

『シモン』

女がシモンの名を口にした瞬間、彼は思わず胸を押さえた。

どうしたというのだ。

(名を呼ばれただけでなぜこうも鼓動が跳ねるのだ?)

その柔らかな声でもっと名前を呼んでほしいと思うのか。


「そなた、何者だ?どうしてわたしの名を知っている。それに、なぜそのような格好でここにいるのだ?」

シモンの言葉に女の表情が曇った。

目線が動いたため首のあたりを見られたとわかった。

そして彼女は自分の左手を見る。

その時になってシモンは気がついた。

腕を持ち上げたことで袖が下がり、のぞいた女の手首に瘡蓋があったのだ。

よく見れば足にも色の薄くなった痣や瘡蓋がある。


「怪我をしているのか?ああいや、ほとんど治っているようだが、髪も生乾きであるし……もしやどこかから逃げて、ここに迷い込んだのか?」

シモンが彼女に近づこうとしたとたん、後ろから強く腕を掴まれた。

ネリーだ。

「シモン様、近づいてはなりません。あの女は淫魔ですわ」

「淫魔、だと?」

魔法で人間を誘惑し精気を吸い尽くす魔物だ。

「まさか……魔物がどうして?それに怪我など負うだろうか」

「きっと愚かな魔法使いが召喚したのでしょう。よそで悪さを働き淫魔と見破られて、追われたに違いありません。おそらくシモン様の精気を奪って力を得るつもりだったのですわ。現にシモン様は惑わされておいででしたもの」


では先ほどの魂が震えるほどの衝撃や胸の高鳴りは、淫魔の術中にあったためだと?

婚約者のネリーにそう言うのは憚られたが、信じがたいと思う気持ちが顔に表れていたようだ。

見下ろす視線がかち合い、険しい表情のままのネリーに頷かれた。

すると不思議とシモンの疑問が拭い去られてしまう。

「そうか。あれが淫魔であるならば魔物の世界へ送り返さねばなるまい。リクハルドたちを供に連れてきていたはず……?そういえば誰を避暑に同行させたのだったか」

思い出せなくて首をひねるシモンは、淫魔が近づいて来たことでハッと身構えた。


「ネリー、逃げろ」

「いいえ、お側におります」

「だがどのような妖の術を使うやもわからないのだぞ」

「お忘れですかシモン様、わたくしはシモン様の婚約者であると同時に、魔法使いでもありますわ」

すく、とネリーがソファから立ち上がった。

隣に並ぶ彼女をシモンは困惑しつつ見つめた。

(魔法使い?)

こちらを見上げてくるネリーの眼差しとぶつかった。

茶色の瞳がまっすぐにシモンを見つめる。

その双眸を見つめたシモンは何度か瞬いて額に手をやった。

「あ……ああ、そうであったな」


愛魂の導きでネリーとはもう何年も前に出会っている。

彼女のことならなんだって知っているはずだ。

なのに、どうして自分の記憶がおかしいと思ってしまうのだろう。

(まるで塗り替えられているような気がする)

指の間から見えた淫魔が、すぐ側まで迫っていることに気づいて、シモンは再び身構えた。

今は淫魔のことだ。

「元の世界へ送り還しましょう」


「いや待て」

シモンは魔物であるはずの女が、なぜか必至な様子を見せていることが気になった。

『シモン、×××××××』

名前を呼ばれたことはわかる。

しかし続く言葉が理解できなかった。

「何を言っているのだ?どうしてわたしを知っている?」

シモンが問いかけると女は口を閉ざし、ちらとネリーを見た。

危害を加える気かと、威嚇のごとく鋭い眼差しを向けると、女はわずかに目を見張り、そしてとても悲しそうな顔になった。

まるで泣き出しそうに表情が歪んで、それを見たシモンはズキと胸が痛んだ。


「な、泣くな。魔物の世界に還すだけで傷つけたりはしない」

魔物相手になにを狼狽える。

どうして気遣っているのだ。

思っても、非情になりきることはシモンにはできなかった。

「シモン様、魔物に情を持ってはいけませんわ」

見透かしたようにネリーが言う。

「いや、しかしこのように悲しげな顔をされると」

「淫魔の手ですわ。シモン様のお心を惑わし油断させるつもりなのです」


本当にそうだろうか?

(どうして彼女を見ているとこんなにも心乱される)

愛する女性は隣にいるというのに。

「…わ、わたし……名前は、コマリ・サハラ…です」

女が突然自己紹介を始めた。

シモンにもわかる言葉だった。

たどたどしいのはこの世界の言葉に慣れていないせいだろう。

「コマリ・サハラ?それがそなたの名前か?コマリでよいのか?」

淫魔の名前を声に乗せた瞬間、彼女は何度も頷いた。

そしてシモンに向かって嬉しそうに笑う。

彼女の邪気のない笑顔にシモンは声が出なくなるほど魅了された。


(なんと愛らしい)

ドキドキと鼓動が早くなっていくのが自分でもわかった。

ふら、とコマリに向かって歩き出しかけたところで、ネリーが腕をつかんだ。

「シモン様!?なにをなさっておいでです」

「わたしにはコマリが魔物には見えない。それに正直に言おう。彼女を見ていると激しく胸が高鳴るのだ」

「ですからそれは淫魔の術であると――」

いいやと首を振るシモンにネリーの言葉が途切れる。


「わたしはずっと確信めいた思いをもっていた。魂の片割れに会えば惹かれるのを止められないと。愛してやまない存在となるであろうと」

言いながらネリーの手をシモンは解いた。

「ネリー、そなたを見ていてもそのような気持ちは起こらない。わたしの愛魂の相手は彼女――コマリだ。そなたが塗り替えたわたしの記憶を返してくれ」

唇を噛むネリーの瞳いっぱいに涙が浮かんだ。

ぎゅうとドレスのスカートを握りしめる。

「シモン様はわたくしが淫魔だとお思いなのですね」


ネリーを泣かせても、女性を泣かせてしまったことへの後悔だけで、コマリが泣きべそをかいたときほどの焦りや動揺は起こらない。

だからシモンは確信する。

やはりネリーは魂の片割れとは違うのだ。

「淫魔であったならわたしが眠っていたときに精気を奪っていたはずだ。魔物とは違うだろう。なのにそなたは魔法を張り巡らせた城に入れたり、わたしの記憶を操作するほどの魔力を持つ。おそらく普通の人間ではあるまい。もしや、妖精か?」

ネリーの返事はない。

しかし否定もしない。


「ネリーとはどこかで会ったのだろうか?それともわたしの記憶が戻ればわかるか?」

「シモン様の婚約者はわたくしです。わたくしが愛魂の相手だとシモン様もおっしゃったじゃないですか。お疑いなら、愛魂が誰に向かって流れるか調べてみればいいですわ」

「わたしが愛魂を出せば、魔法で流れる先を歪めるか、幻を見せるのだろう?だがネリー、どれほど真実を歪められようと魂が呼ぶのだ」

シモンはコマリのもとに歩んで彼女を引き寄せた。

「わたしは何度でもコマリを選ぶ」 

腕に感じる柔らかな抱き心地に、記憶はなくとも覚えがあると感じた。

見上げてくる戸惑った瞳に笑って見せる。

途端に彼女はくしゃりと顔を歪ませた。


「ああ、泣かないでくれ。わたしが愛するのはコマリだ。記憶がなくともそれだけはわかる。誰よりも愛しているぞ、コマリ」

少し濡れた髪に口づける。

涙に潤んだ瞳は黒だとばかり思っていたが、よく見れば濃い茶色で、見つめられるだけでシモンは目がそらせなくなった。

「わたしも……愛してる。シモン、いちばん、愛してる」

ぎこちない話し方でも、一生懸命に気持ちを伝えようとしてくれているのが伝わってくる。


先ほどは知らない言葉を話していたくらいだから、コマリはカッレラ王国の者でないだけでなく、この世界の人間ではないのかもしれない。

ならば今話している言葉は覚えてくれたのだ。

そう思っただけでシモンの胸が喜びで熱くなった。

「わたしもコマリの世界の言葉を覚えねばな。最初に愛の言葉を教えてくれ。コマリに好きだと伝えるために」

そう言ったシモンは、ん?と首を傾げた。

「以前にもこうして愛の言葉を教えてほしいとコマリに頼んだか?ええと、『アー、ア……アイシテル』」


聞いたこともないはずの音を、言葉を、シモンは口にする。

コマリの目が見る間に潤んで、大粒の涙がこぼれた。

『××××、オボエテタ……シモン、オボエテタノネ』

「あ、その言葉もわかるぞ。記憶するという意味だ。それにこのあとに続く言葉があったような――『ヨォクデマシタ』?だろう?」

『ヨクデキマシタ』

泣き笑いの顔になってコマリが頷く。

その嬉しそうな様子があまりにも可愛らしく、シモンは無意識に近い動きでコマリを抱きしめた。


「ああ可愛い」

「シモン様、ダメっ!」

いきなり見えない力にコマリと引き離されていた。

声の主を振り返りシモンは驚愕した。

「な……」

類まれなる美しさを持つ妙齢の女性が、12、3歳の少女に変わっていた。

瞳や髪の色は同じだが纏め髪は、無造作に束ねた縮れ毛になり、なにより身長がかなり低くなっている。

ドレスから地味な娘服に変わっていたが、耳や首につけた飾りはそのまま残っていた。

大人であっても人間の子どもほどの背丈しかなく、貴金属や宝石の細工が得意な種族をシモンは思い出した。


「なるほど、ドワーフであったのか」

シモンの呟きにネリーはハッと自身を見下ろし、偽りの姿が消えたのだと理解したようだ。

狼狽えたはずが、両手を拳に握って自身を奮い立たせ、大きな声でシモンへ言った。

「シモン様はわたしの旦那様になるんです!」

「……――は?」

予想だにしていないことを言われたため、間抜けな声が口から出た。

「だってわたしのこと可愛いって、口説いたじゃないですか。なのにその人にも同じように可愛いって……ううん、もっとずっとべたべたして。シモン様の浮気者ぉ!!」

「ちょ、ちょっと待つのだネリー。そなたのことは覚えがない。ああいや……魔法で記憶が変えられているのだったな――……では、口説いた…のか?」


どう見ても少女にしか見えない。

そして自分には子どもに欲情する性癖はなかったはずだが。

それとももしかすると、先ほどの美女に姿を変えているときに出会ったのかもしれない。

(ではわたしは子どもと知らずに手を出したのか!?)

シモンは愕然として右手で顔を覆う。

いったいいつ?

「シモン?ネリー、…どうしたの?ち、ち……ちあ、違う…体」 

コマリの声にシモンは彼女を見た。

どうやらネリーの姿が変わったのを不思議に思っているようだ。


「ああ、ネリーはドワーフなのだ」

「どわーぶ?」

「ドワーフ。妖精の仲間だ」

「どわぁ……ドワーフ、ようせい?」

頷くシモンは、ネリーが顔を引きつらせたことに気付いた。

足音も荒々しく近づいた彼女は、コマリをキッと睨み付ける。

「あなたに名前を呼び捨てにされたくない。邪魔だからどっか行って!」

ネリーが腕を持ち上げた。

コマリに魔法を使う気だとシモンはとっさに手をつかむ。


「コマリに何をするのだ!」

「どうせわたしの魔法はこの人にはきかないんだもん。眠らせたはずなのに起きてきちゃうし!きっと守護獣様の護印のせいだっ」

シモンの手を振り払い、癇癪を起こして叫ぶネリーは子どもそのものだ。

落ち着けと言いたかったが、彼女の台詞に聞き流してはいけない言葉が多々あった。

「守護獣?護印?ネリー、なんだそれは。コマリはなにかに護られているのか?」

「コマリ、コマリ、コマリ。シモン様ってこの人のことばっかり!せっかく忘れさせたのにどうして一目見て好きになっちゃうの?それにさっきはとこだって一緒に――」

「床?」


シモンはついコマリを見てしまった。

彼女のこの上着を羽織っただけの姿は、肌を合わせた後だったからか。

(ああ、なんということだ。至福の時間であっただろうに何一つ覚えていない)

なによりもコマリの裸体を思い浮かべることもできない。

「ネリー、わたしの記憶を返してくれ」

「いやっ」

「コマリとの記憶だけでいい」

「絶対いや!シモン様はわたしの旦那様になるの。この人のことは忘れて」

「無理だ」

シモンが即答すると、ネリーは怒りに顔を真っ赤にして声を張り上げた。


「だったらシモン様をこの人と釣り合わないくらいの子どもにするもん。それで誰にも邪魔されない場所でわたしが育てて、わたしを好きにさせて結婚するもんっ」

ネリーがパチンと指を鳴らした。

その瞬間、シモンは息が詰まるような錯覚を覚えた。

ぎし、と骨が軋んだ痛みに自身を抱きしめる。

自分の手が、足が、見る間に縮んでいくのが分かった。

『シモンっ!!』

コマリが悲鳴のような声をあげた。


「シモン様との仲を邪魔しないでっ」

「駄目だっ、コマリ!」

しかし自分が叫んだはずの名前を、シモンは直後にわからなくなった。

(コマリ…とは誰のことだ?)

視界がどんどん低くなる。

そして揺らいでいく。

意識が霞んでいくなかでシモンは誰かに強く引き寄せられた。

わかったのはそこまでだった。






* * *






「失礼いたします」

金のノブを引いて扉を開け放ち、オロフは真っ先に室内へ入った。

あとにテディ、パウリ、トーケル、リクハルド、それにスミトとゲイリーが続く。

プールから直接駆けてきたため全員水着姿のままだ。上

着を羽織っているがきっちりボタンをしめているのは、リクハルドくらいだ。

ソファに主たちの姿はなかった。

寝室に続く扉が開いていた。

オロフは大股で部屋を横切り寝室へ入る。

乱れた寝具はそのままに、ここにも仕える二人の姿はなかった。

ベッドの周りに濡れた水着や靴が散らばっている。


この城の部屋の基本的なつくりは王宮の王族塔と同じだ。

オロフは浴室の扉を押し開ける。

「オロフ、シモン様とコマリ様がいらっしゃったら――」

テディの声にオロフは扉を目いっぱい開けて振り返った。

「人の気配があるか?」

テディが顔色を変え、パウリも危機的状況を感じたらしく、オロフの開けた扉の奥へ進んだ。

浴室までを確認して出てくるとその場にいる全員に聞こえるよう言った。

「もぬけの殻だ」


「なぁ、オロフが感じていた気配は本当に人じゃないのか?」

トーケルが半信半疑という様子で鳶色の瞳を向けてくる。

オロフは頷いた。

「さっきモアやスミトの精霊と会って思った。俺が感じた気配は彼らに似ている」

「だが彼らなら人に気配を感じさせたりするだろうか?」

リクハルドが考えるように腕を組む。

おかしいと言いたげだ。

「どういう意味だ?」

オロフが質問すると、リクハルドはトーケルと視線を見交わしてから答えた。


「精霊や妖精が人よりはるかに強力な魔力を持っているのは知っているだろう?彼らなら魔法で気配を絶つくらいわけない」

「昨日の夜、パーティでモアがシモン様を隠してたろ。オロフ、おまえ近くにいらしたシモン様の気配を感じたか?」

トーケルに首を振ったオロフは、二人の説明に新たな疑問がわいた。

「ではわざと俺に気配を感じさせたのか?」

それに返事をしたのはスミトだった。

「ちゃうと思うで。オロフ君は五感がやたら鋭いんやろ。まるで野生の動物みたいにな。やからボクらに感じへん気配までわかってまうんよ」

ゲイリーと二人、寝室内を探っていたスミトが、そう言いながらベッドの側で立ち上がった。


「おまえたちさっきから何を……ん?スミト、何を手にしている」

「ベッドの下に落ちとった」

オロフの言葉を受けてスミトが手を開いた。

掌に腕輪と首飾りがあって、オロフは目を見開く。

テディも同時に息を呑んでいたが、

「それは、シモン様とコマリ様の魔法石か?」

言いながらスミトに近づいた。

リクハルドとトーケルまでも走り寄って、それぞれに首飾りと腕輪を手にする。

「シモン様の魔法石に間違いない。魔法はかかったままだ」

「こっちはコマリ様のだ。俺のかけた魔法もそのまま。シモン様の首飾りと同じだな」


クローゼットを見ていたゲイリーが皆のところへ歩いてきた。

「荷物は荒らされたりしていないし、部屋の美術品も無事のようだ。室内に争った形跡もない。シモンとコマリだけが、煙のように忽然と消えたということか」

ゲイリーも、いつもの無表情から厳しい顔つきに代わっていた。

【澄人様】

突然、何もない空間に人が現れた。

白と朱色の奇妙な衣装を身に纏い、黒く長い帽子を被る女の髪はピンク色で、一目で人外の者とわかった。

スミトの精霊は二体いる。

スミトは「式」と言ったりするし、オロフ自身、「式」と「精霊」は少し違うと感じでいた。


オロフが彼女を見るのはこれで二度目だ。

以前見たのは日本にいた頃。

あの時は夜ではっきりと見えなかったが、まだ若い娘のようだ。

もう一体の男の「式」のような獣じみた瞳をしていないが、髪と同じピンクの瞳は人ではありえない色だろう。

確か金棒を振り回していたように思う。

見るからに細いあの体で、どうやればああも見事に獲物を扱えるのか。

普段はジゼルを護衛しているはずだ。

「玉響?どないしてん。まさか、ジゼルになんかあったんか!?」

慌てた様子でスミトは「式」の娘に尋ねた。


女性陣はあのようなきわどい水着姿で城内を歩くわけにもいかず、プール側の部屋で着替えている。

主たちの次は女性たちが狙われたかと、オロフが思いかけたとき。

視線を集めたタマユラは首を振った。

【ジゼル様は無事です。わたしはご報告があってまいりました】

「報告?なんや?」

【モアがシモン様と小鞠様は精霊の森にいると教えてくれました】

その瞬間、テディが声を上げた。

「フェルトの森に!?そんなまさか……なんということだ」

リクハルドとトーケル、それにパウリが眉を寄せている。

彼らは魔法石を持たないためタマユラの言葉がわからないのだ。


「おい、誰か通訳をしてくれ」

しかしパウリの声も、オロフの耳を素通りしていた。

彼もタマユラが告げた話に衝撃を受けていたからだ。

ザズザ山とムルジッカ湖の間にあるフェルトの森――別名、精霊の森。

広大な森の木の大半がボジェクで占められ、多くの精霊が住んでいる。

とはカッレラ王国の者なら誰もが知っていることだ。

ここで育つ植物は他の土地で育った植物より強い。

それは精霊の気で満ちているためだといわれている。


カッレラではフェルトの森の木や草花をさまざまな物に変え利用していた。

樹木で家を建てれば何百年と壊れず、家具を作っても同じで傷もつきにくい。

薬草から得た薬は効き目が抜群で、花や種から作る香料は少量で一日じゅう香るほどだ。

しかしむやみやたらとそれらを作り出せるわけではなかった。

森はそこに住む精霊たちにとって、家そのものなのだ。

だから人はグンネルのような精霊憑きを介して、精霊たちの許しを得てから木々や草花を持ち帰る。

一年を通しても決して多くない量だ。

そんなわけでフェルトの森から材料を仕入れて作り得た品は、何もかもが貴重であるとされていた。


「邪悪な心を持ちて森に入れば出ることは叶わず、迷い込めば惑い朽ち果てる。生きて出てきたとて安堵してはならない。それはもはや以前と同じ者ではないのだ」

オロフが諳んじたのは、カッレラの民が学び舎で習う、フェルトの森についての一節だ。

決して森を侵すなと子どもの頃から教わるくらい、人間が安易に近づいてはならない地が、精霊の森なのだ。

異世界人であるスミトとゲイリーは、一節を知らないようで顔を見合わせている。

「それ、前に聞いたことがあるような……」

パウリが思い出せない様子で首を傾げた。

隣国のリキタロ生まれで、カッレラの学び舎に通っていなかったであろうパウリも、ピンとこないようだ。


しかしリクハルドとトーケルは察したらしい。

見る間に顔色を失くしていく。

「フェルトの森て精霊がたくさんおるって聞いてたくらいやけど、なんやえらい物騒な森なん?そこにシモン君と小鞠ちゃんがいてるて、ごっつピンチちゃうの」

「オロフの感じた人外の気配とは、その森の精霊ではないのか?理由はわからないが、彼らがコマリとシモンの二人を連れ去ったのかもしれない」

ゲイリーの推察に皆が彼を見る。誰も何も言わないが、まさかという思いがそれぞれの顔に表れていた。

しばらくあってスミトが思い出したように口を開いた。


「そういや小鞠ちゃんて、森喰いっていうちっこい妖精になつかれとるんやっけな。それで精霊にも興味持たれたとかないか?」

「ならばどうしてシモン様まで連れていくんだ?」

スミトに疑問をぶつけたトーケルにリクハルドが考えもって答える。

「コマリ様を助けようとしたせいで、一緒に連れていかれたのでは?」

そこへテディの冷えた声が響いた。

切れ長な瞼の奥、薄緑の瞳に危うい光が浮かんでいる。

「犯人や消えた理由などどうでもいい。フェルトの森にお二人がいるのなら迎えにあがるまでだ。幸いこちらにはグンネルという精霊憑きがいる」

言い捨て、足早に寝室を出ていく。


(やばい、キレた)

オロフは反射的にテディを追った。

「待て、テディ。グンネルを連れていたとしても、無作法な振る舞いをすればおまえも無事では済まないぞ」

「心配しなくとも頭は冷えている。ただここでじっとしていられないだけだ」

部屋を出て走り出すテディに並走したオロフは軽く息を吐いた。

「おまえ、このままグンネルのところへ行くつもりか?」

着替え中の女性の部屋へ飛び込みそうな勢いだ。

「いいや、わたしたちの着替えが先だ」

怒りに衝動的な行動に出ているのかと思いきや、意外にもまともな返事をされ、まじまじとテディを見てしまった。

テディがなんだとばかりにこちらを見返してくる。


「思ったより冷静だったな」

「そう言ったぞ」

冷たい瞳が睨むように細められる。

不機嫌面のテディにオロフは「ああ」と視線を前に戻した。

テディのこの苛立ちは、自責の念からくるもののように見えた。

オロフもまた苦い思いを噛みしめる。

ここ数日、人ならざる者の気配を感じていたのに、気の緩みからシモンとコマリの二人を拐かされてしまった。

(なんという失態だ)

お二人とも、どうか御無事で――。

駆ける彼らの足音が重なる。


  

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