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あなたの虜  作者: 七緒湖李
本編
125/161

因果応報

夜になって、コマリは糸が切れたように眠ってしまった。

パウリを護衛官に勧誘したあと、そのまま医薬師塔へ出向いてヴィゴとルーヌを見舞い、それで仕舞いと思いきや、今度は魔法使い塔へ行くと言い出した。


ペッテルとケビに会いたいと言うコマリに、シモンは「後日に」と言ってみたのだが首を振られた。

「鎧の剣で怪我をしてるし、呪いで悪い影響がないとも限らないんでしょ?」

確かにその通りだが、もし彼らが体調を崩したり精神に異常があらわれたのであれば、そこは医師と魔法使いの領域だろう。

自分やコマリでどうにもできない。


「医薬師塔で療養するほどではないって聞いてるけど、本当に元気かどうか自分の目で確かめるの」

シモンが隠さないように、と付け加えられた。

どうやらヴィゴの件が尾を引いているらしい。

コマリはすぐに顔に出るから、隠し事には向いていないと黙っていたのだが、彼女には暗殺者に狙われていることも話さずにいたから、必要とあらば隠し事をする男と思われてしまったようだ。


(事実その通りであるか)

日中のやりとりを思い出していたシモンは、ベッドに眠るコマリの側に腰を下ろした。

熱がないか確かめるため、彼女の額に手を当てる。

話さないでおいたのは、毎日を心安らかに暮らせるようにと気遣ってのことだった。

けれどコマリは存在を無視されていると感じたのかもしれない。


クレメッティに拉致された後、尋ねられるままに全てを話せば、何も知らずに守られているのは嫌だと言われた。

――もう隠し事はしないでほしいの。

いろんな感情がないまぜになった表情と声が脳裏に浮かぶ。

(あのような顔をさせたかったわけではないのだ)

さら、とシモンはコマリの前髪をはらう。


熱はないようだがまだ顔色が悪い。

妖精や精霊はコマリの応急処置をしただけのようで、彼女の怪我や青痣が治ったわけではなかった。

休息が必要なのだ。

なのに昨夜はベッドに入ってからも、長い間眠れなかったようだ。

カーパ侯爵の屋敷の惨劇やクレメッティの死だけでなく、人の持つ欲や狂気を目の当たりにしたのだから仕方のないことだろう。


影響は睡眠不足だけにととまらず、今朝も、そして夜も、コマリは食事をあまり口にせず残していた。

「暑いからちょっとバテ気味なの」

こう言って笑うコマリに、シモンは心配ながらも何も言えなかった。

誰もが思いつく、通り一遍なことしか言えない気がしたからだ。

ヴィゴのところで彼を看病するジゼルに会い、友人の存在にずいぶんと気が紛れたように見えたが、それでも憂いは晴れずにいるのだろう。


今日一日くたくたになるまで動き回って、やっとコマリは眠れたのかもしれない。

両親を失い一人で生きていたせいか、コマリは頼ることに慣れていない。

傷を隠すことに長けてしまっているのだと、こういう状況になって実感する。

彼女の頭を撫でていたシモンは呟くように言った。

「もっと頼ってくれて良いのだぞ」

せめて眠りの中では優しい夢が見られるように。

シモンはコマリの額に願いをこめたキスをして、寝室を後にした。

隣室に控えていたエーヴァたち侍女に、何かあればすぐに連絡するよう伝えて執政塔へ向かう。






執務室にはすでに人が集まっていた。

テディにオロフ、王宮魔法使いの三人とスミトとゲイリー。

そして新たに加わったパウリもいる。

彼もまだ安静にしていなければならないはずが、囹圉塔での折り、コマリに聞こえぬよう声を潜め、すぐに自分を使えと言ってきた。

動いているほうがいいのだろうと頷いてテディに彼を任せたが、風呂にでも放り込まれたのか、薄汚れた形から小ざっぱりしたものへと変化していた。


パウリがコマリの護衛官になったことは、ちょうどテディとオロフから皆に伝えられたところだったようだ。

「パウリの紹介はすんだようだな」

執務机についたシモンが尋ねると、テディが「は」と返事をした。

そこへ気の抜けた声が響く。

「いやぁ、きみが小鞠ちゃんの護衛官になるやて、王様とシモン君も粋な計らいしてくれるわあ」

スミトがにこやかな笑顔を浮かべてパウリに近づいた。


「パウリ君、やっけ?ボクはスミト言うねん。これから仲良ぉしてな。あ、オロフ君とトーケル君並みにええ体してんやわ」

ばしばしとパウリの背中を叩いているのはわざとだろう。

左の肩甲骨のあたりに怪我をしていることはスミトも知っているはずだ。

トーケルがうわぁという顔をし、グンネルが「ちょっと」と止めようと声をかけるが、スミトはやめようともしない。


「何とも変わり身の早いことだな」

スミトとは対照的にニコリともしないゲイリーが、辛辣な台詞を吐いて腕を組んだ。

パウリは叩かれて痛んだらしい傷を庇うように、スミトから逃げて背中を丸める。

「痛ぇな。あんたたち二人って、お姫さん付きの魔法使いだったよな。あれか?魔法使い塔で二人をまとめて片づけたことを怒ってるのか?それともあんたたちを撒いたことか?」

「へぇ~ボクらが何者か知ってんのん?カーパ侯爵に、小鞠ちゃんの周りにおるもんは全員調べときって言われてたんかなぁ?で、なんやて?ボクらがきみに対して怒っとるって?嫌やわ~、そないに心狭いように見えるんかなぁ」

言いながらスミトがパウリの肩に手をやった。


顔は笑顔だが、指が食い込むほどの力がこもっている。

「言葉とやってることが全然合ってないだろうが――痛ぇって」

「逃げんといてえな。ボクとしては生意気なクソガキをシメとかなあかんと思わんでもないんよ」

そう言ったスミトの笑顔がニィと黒いものへ変わる。

「シメるって……やっぱりあのときのこと根に持ってるんじゃないか」

瞬間、スミトがパウリに強烈な頭突きを食らわせた。

「ボケが。いつまでも寝ぼけたこと言うとったらドタマかち割んぞ。おまえのことが信用ならんねや。侯爵のとこにおったら我が身が危ない思て、シモン君と小鞠ちゃんにとりいったん違うんか。弟殺して二人の同情と信用を得る。えげつないこと考えたもんや」


シモンをはじめ周りがぎょっとなる中、ゲイリーはさすが友人だけあってスミトの性格を熟知しているのか、驚きもせず二人を眺めている。

額を押さえていたパウリが顔を上げた。

燃えるような怒りが茶色の瞳に浮かんでいる。

「いまなんつった!?そんなくだらない理由で、俺がクレメッティを殺したと?」

「仲間を殺して更なる後ろ盾に取り入る。裏社会じゃよう使う手や。それともまさか、侯爵のとこでまっとうな仕事しとったって言わへんよな?」

「クレメッティを命綱にして助かるくらいなら、俺は自分で命を絶つ」


「だが事実、弟が死んでおまえは生きている。これはどういうことだろうな?」

今度はゲイリーが冷めた口調で言った。

ハ、とパウリは鼻先で笑う。

「あいつを本気で大事に思ってたのなら、後を追って死ねってか?あんたたち本当にお姫さん付き魔法使いか?簡単に死ねなんて言えば、あんたたちこそお姫さんに頭かち割られるぞ。俺の命は勝手に捨てられない。お姫さんのもんになったからな」

「コマリのもの?」

「ああ。捨てるならもらうと言われた」

ゲイリーがスミトと目を見交わしたあと、シモンへ視線を向けてきた。

説明しろというような鋭い目つきと、パウリのどうにかしてくれ的な眼差しを受けて、シモンは考えるように宙を見上げた。


疑うことに慣れたスミトとゲイリーには、根拠もなくパウリを信じろと言っても無理だろう。

それにシモンとてパウリを完全に信用したわけじゃない。

だが本人を目の前に正直に言えるわけもないし、なにより本音を悟らせることもない。

「パウリはコマリに口説かれて、あっけなく落ちたのだ」

シモンのとぼけた返答に、囹圉塔でのやり取りを聞いていたテディとオロフを除く全員が、一斉にパウリを見た。


「なんや!きみも小鞠ちゃんに誑かされた口かいな。早う言いや~。ほんまあの子、天然たらしやなぁ」

「コマリが気に入ったのなら仕方がない。認めてやろう」

「な……なんだいきなり」

スミトとゲイリーの変わり様にパウリが戸惑っている。

そこへグンネルがくすくす笑いながら割って入った。

「わたしはグンネル・ベイロン。王宮魔法使いだ。ねぇもしかしてきみさ。処刑しろとか殺せとか死ぬとか、コマリ様の前で言ったんじゃないの?」

「毒をくれりゃ自分で幕を引くって言ったけど」


とたんにトーケルがハハと笑った。

「なるほどな。だからコマリ様がお怒りになる禁句を知ってたわけか。怒鳴られたろ」

「あー、そこまでじゃなかった。けど命に代えても守るって忠誠を誓おうとしたら、すごい勢いで嫌がられた。異世界人だからか考え方が変わってんのか?」

「コマリ様は慈しみの心が誰よりも深い、お優しい方なのだ。おまえの常識で推し量れると思うな」 

話に割り込んだリクハルドがずいとパウリの前に歩み出て、鼻先に指を突き付けながら、威嚇するかのごとく詰め寄った。

「いいか。忠誠を誓ったのなら励め、日々研鑽を怠るな。何を置いてもお守りしろ。そして最期のときまで忠実なる臣でいるのだ」


「ぅおーいリクハルド、ちょっと落ち着け。――こいつシモン様とコマリ様のこととなると人が変わるってぇかな……悪気はないんだ」

「ああ、テディと同類?」

パウリの言葉に、リクハルドをフォローしていたトーケルが苦笑を浮かべ、返事を避けるように自己紹介をした。

まだ言い足りない様子のリクハルドも、トーケルに宥められ渋々倣う。


シモンはテディが壁に立てかけていた剣を手にするのに気付いた。

そのまま彼はパウリの背後にそっと近づく。

シモンが、あ、と思ったときには、テディが手にしていた剣のグリップで、パウリの後頭部を突いた。

ゴツという音と直後に「痛ぇ!」と声が上がる。

「なれなれしくわたしを呼び捨てにするな。そして簡単に後ろをとられるな」

「ここにいる全員は警戒しなくていいんだろうが。呼び捨てが嫌って、じゃあテディ様とでも呼べってか?」

「それも気持ち悪い」

「はぁ?じゃあなに、テディさん?まさか君付けとか言うなよ。そっちのが気持ち悪いぞ。くそ、頭がジンジンする」


頭をさすりつつのパウリをしばらく見つめていたテディだが。

「呼び捨てで我慢しよう」

言いながら後頭部を突いた剣をパウリに押し付けた。

「おまえの剣だ。握りや重量など、不具合があれば職人塔に行って調整するか、別のものを選んでくれ」

剣を受け取ったパウリがテディからシモンへ眼差しを移した。

「抜いても?」

「かまわないぞ」

シモンの返事にパウリは鞘から剣を抜き放つ。


何度か空を斬る姿に、オロフがへぇとばかりに腰に手を当てた。

手合せしたいと顔に書いてあるのがわかって、シモンはパウリの腕は自分の見込み違いではなかったと思った。

パウリは剣を鞘へ戻してテディへ向き直った。

「なんか手にしっくりくる。これ、あんたが選んだのか?」

「あんた」と言われたところで、パウリをじろと見据えたテディは、わずかに顔を傾けオロフに視線を投げた。


「オロフだ」

「どうやら戦い方は素早さを重視してるようだと聞いたからな。剣はそこそこの重量にしないと、動きが鈍るかと思ったんだ」

「さすが王宮騎士……ていうより、あんたが武器選びのセンスあるのか」

「俺は呼び捨てでかまわないぞ」

オロフが朗らかに笑って告げると、パウリは肩を竦めてみせた。

全員と一通りの会話は終わったか。

そう判断したシモンは皆に目を向ける。

気配を察したのか視線が集まった。


「――朝議で決まったことを皆に伝える」

朝議ではコマリの暗殺計画に関する事案が最初に話し合われた。

下手をすると未来の王妃が死んでいたのかもしれないのだ。

未遂に終わったとはいえ、由々しき事態を招く原因を作った罪人は、厳しく罰せねばならないと重臣たちは言った。 

オルガは平民に落とされ離島の神祀殿へ送られる。

生涯を祈り暮せということだ。

舞踏会の件で彼女を監視していなければいけなかったコントゥラ子爵も、その責任を怠ったとして爵位は剥奪、夫人とまだ幼い嫡男を連れ辺境へ移り住むことになる。


マチルダは平民にこそ落とされはしなかったが、今後、一切の公の場へ出ることを禁じられた。

コントゥラ子爵がいい見せしめとなり、ミッコラ伯爵は娘を厳重に見張ることだろう。

そしてアンティアだが――。

シモンがアンティアの名を口にしたところで、執務室の扉がノックされた。

頷くシモンを確認したテディが扉を開けると、下級衛兵が緊張した面持ちで入ってくる。


「シモン様、たったいま囹圉塔より、カーパ侯爵家のアンティアが息を引き取ったとの連絡がありました」

室内に衝撃が走った。

「なっ……!?どういうことだ。昨夜から眠り続けているのではなかったのか」

アンティアはクレメッティの魔法で気絶したまま目を覚まさないため、見張りを徹底させ回復を待っていた。

それがなぜ突然、死んだと報告されるのか。

「詳しいことはわかりませんが、夕刻一度目を覚まし、その後、意識障害を起こしてそのまま死亡したと――後ほど医師が執政塔に報告に来るとのことです」


下級衛兵を下がらせ、シモンは両手を組んで顎にあてた。

アンティアはクレメッティに魔法で壁に叩きつけられた。

口から血を流してはいたが、それは背をぶつけた衝撃に口の中を切っただけだ。

他に目に見える怪我はなかったため油断していた。

(あのとき脳に損傷を受けていたのか)

頭蓋内でじわじわと出血していたのだろう。

ならば医師でも救うのは困難だ。


生死には人の力は及ばないが、なんと呆気なく逝くのか。

「あいつの執念かもな」

ぽつ、とパウリが漏らした言葉にシモンは顔を上げた。

シモンの視線に気づいたパウリは、話しかけられるのを拒むように顔を背けた。

昨日の今日だ。

パウリ自身まだ整理はつかないだろうし、クレメッティのことには触れてほしくないのだろう。

そう感じシモンは黙って彼に向けた眼差しを逸らした。


これがクレメッティの執念だと言うなら、もうそれは呪いではないだろうか。

彼の心を歪め壊したアンティアは、罪深き行いに対する報いを受けた。

「因果応報やな」

「なんだ、それは?」

聞いたことがない言い回しにスミトを見れば、彼はああと腕を組んだ。

「ボクの生まれた国で言うねん。前世や過去の善悪の行為が元で、現在のええこと悪いことの結果があるって意味や」

「罪を犯せば報いがあると?」 

「せや。……きっつい言葉やで」

独白のように言ったスミトだったが、少しあって我に返ったのか、いつもの気の抜ける笑顔を浮かべた。


「ええと、なんや後味の悪いことやけど、ともかく事件は片付いた。やろ?シモン君」

アンティアにはどのみち未来はなかった。

人心を惑わすのが得意な彼女を誰もが危険と判断し、狭く光のない独居房で生涯を過ごすことと決まっていた。

どれほど気丈なものでも、暗闇と孤独に耐えかねていずれは発狂する。

一思いに死ねる処刑より重い罰だという者がいるくらいだ。

シモンは気持ちを切り替えるように大きく息を吸い込む。


「皆の活躍によりコマリは守られた。感謝してもしきれない――ありがとう」

感謝の言葉を口にした。

テディとオロフは、シモンが日本で使っていたことを知るため、そこまで驚いた様子は見せなかった。

二人は誇らしげに頷き、トーケルとグンネルも一拍遅れて胸を張った。

だがリクハルドは四人とは違い、ぶるぶると震えだす。

「もったいないお言葉です」

目に涙まで浮かべているのは、どうやら感激しているらしい。


パウリはそんな彼が理解できないのか、

「主が臣下に対して礼を言うことなんて確かにないだろうが、泣くほどのことか?」

と首を傾げている。

スミトは礼を言われ慣れていないのか困ったような顔で頬を掻き、ゲイリーは変わらず無表情でいるだけだ。

事件は確かに終わった。

けれど傷ついた者たちにとっては終わりにはならない。

乗り越えるための日々が続くのだ。


(それはコマリにも……)

コマリは朝議について尋ねてこなかった。

決定に従うつもりなのだろう。

昨夜、父であるアルヴァー王と話したことで、感情的に物事を決めてはいけないと感じたからか。

マチルダとオルガのことやアンティアのことを伝えたら、今以上に気落ちしはしないだろうか。

尋ねてこないのならと黙っていることもできる。

(いや、いずれは耳に入るか)

ならば自分の口からコマリに話そう。


しかし話したあとが恐ろしくもある。

コマリの笑顔が失われないだろうか。

心が蝕まれてしまわないだろうか。

シモンは顎に当てていた手を解いた。

「テディ、わたしの予定を調整して、明日一日空けることはできるか?」

「一日でございますか?」

「無理か?」

「はい。城下の点検と補修のことで、職人頭たちと今後の方針をまとめる会議がございます。事件のほうにかかりきりでずっと先送りにしておりましたし、これでは補修工事は滞ってしまいます。明日の会議は取りやめるわけにはまいりません」


「そうか……そうだったな」

「ですが会議後の予定なら調整もできましょう。午後からはご自由になさっていただけるよう、手配いたします。いっそ明後日もお休みになられては?」

テディがすました顔でこう言うのをシモンは笑顔になって聞いた。

「おまえがそんなことを言うなんて、休みの後が怖いな」

「少々ご公務が過密になる程度でございます」

できた側近だが主を主を思わぬ発言をときおりする。

彼なりの親しみのこめた態度だ。


「では皆も明日はわたしにつきあってくれ」

シモンがこう言うと、皆がそれぞれに目を見かわしたり、よくわからないというような顔をした。

テディが落ち着き払った様子で尋ねてくる。

「つきあうとはどちらに?」

「楽しいことだ」

シモンの返事に今度こそ全員が首を傾げた。





シモンが部屋に戻ると侍女長のエーヴァだけが部屋に残っていた。

コマリを一人にするなと言い置いていたためだ。

どことなく室内がいつもにも増して煌めいて見えるのは、彼女が時間を持て余し掃除をしていたからだろう。

シモンが戻ったため慌てて背中に雑巾を隠したが、エプロンの腰紐に挟んでいるらしい羽根叩きが脇からちらちらと見えている。


「お戻りはもう少し遅くなるかと――お見苦しいものを御覧に入れて申し訳ございません。すぐに片付けます」

「ああ、よい。いつもエーヴァたちのおかげで快適に過ごせているのだ。ありがとう」

エーヴァは目を真ん丸にしたあと、いいえと微笑んだ。

コマリの前ではよく見せる、親しみのこもった笑顔だった。

「コマリ様と魂が対でいらっしゃるからでしょうか。シモン様はコマリ様と本当によく似ていらっしゃいます」

「似ている?もちろん姿のことではないな。性格……が似ているか?」

まさかコマリほどわかりやすいとは思わないが。

そんな思いが声に滲んでいたらしい。


口元をほころばせたエーヴァは笑顔のまま口を開いた。

「もっと根本的なところです。シモン様、ご存知ですか?王族塔と執政塔の使用人と衛兵には、もうコマリ様のおかしな噂に惑わされる者はおりません。それに本日午後より、王宮魔法使いたちの間にもコマリ様の人気は急上昇なのだとか。もしかすると医薬師塔でも同じ現象が起きているかもしれません。理由はお分かりですか?」

「昼間の怪我人の見舞いと濡れ衣の謝罪か?」

「はい」

「他の塔のことであるのに情報が早いな。いったいどこからだ」

「ドリスは魔法使いのマーヤと仲がいいですから。そのマーヤはヴィゴ、ペッテル、ケビと同期です」


マーヤとは確かトーケルに淡い想いを抱いていた娘か。

コマリがクレメッティに騙されていなくなったとき、マーヤの情報がなければ、ああまで早くコマリを見つけられなかった。

「王族の方を助けたり、危険な任務をこなしたりした者は、後日王様より褒美をいただくこともありますが、王族の方が自ら相手の元へ出向くことはございません。わたしは運よくこうしてシモン様とコマリ様のお側におりますが、それまでは王族の方々は雲の上、ずっと遠くの存在でした。きっとカッレラのほとんどの者たちは皆、以前のわたしと同じように思っているでしょう。ですがコマリ様は雲を飛び越えて来てくださるのです。それがわたしたちにはもったいなくも嬉しいことなのです」


「雲の上?それは人の身に余りあるたいそうな高見であるな。わたしもエーヴァも同じ、ただの人でしかないだろうに。それともわたしを含めコマリ以外の王族の者は、いつのまにか驕っていたのか」

そのように民の目に映っているとしたら問題だ。

シモンが考えるそぶりを見せたとたん、エーヴァは青くなって否定した。

「違います。そのようなことは決して。王族の方々は、わたしたちの目には王国の象徴として映っているということです。コマリ様の侍女としてこちらに参ってから、シモン様がどれほどわたしたち民のことを考えてくださっているか知りました。感謝の気持ちでいっぱいです」


「怒ったのではない。そう畏まるな。コマリはエーヴァたちにとって親しみやすい人物であると、そう申したかったのだろう?」

シモンが表情を和らげると、エーヴァもほっとしたように頷いた。

「コマリ様は以前、庭師小屋の事故のときに、とても素早く対応をなさいました。医薬師塔までコマリ様自ら医師を呼びにも行かれましたし、あのときのことを目撃した者は、実はコマリ様は噂とは違う人物ではと思っていたようです。それにコマリ様がカッレラにいらしてから、少しずつではありますがコマリ様はお優しい方であるとの、良い噂も広まりだしていました。ですからコマリ様を知らない者は、悪い噂と良い噂、どちらの噂を信じてよいのかと思っていたのでしょう。きっと今日のことで一気に悪い噂は払拭されるはずです。いまに王宮を飛び越えて王国中にコマリ様のお人柄が伝わります」


話すエーヴァの顔が嬉しそうに笑んだ。

後ろへ回していた手がいつのまにか、雑巾ごと胸の前で握り合わさっている。

コマリと顔を合わした当初エーヴァは、コマリとの常識の違いにかなり戸惑っていたように見えた。

それでも他の侍女三人をよくまとめ、務めを果たす努力をしていたように思う。

いつ頃からエーヴァの中でコマリは主であるだけではなくなっていったのか。

「コマリが大好きなのだな、エーヴァは」

シモンがからかうように言うと、彼女は面食らった顔をした。

が、すぐに破顔する。


「はい」

迷いのない返事に、シモンは我が事のように嬉しく思った。

エーヴァは雑巾を握っていることに気づいたらしく、慌てて手を背中に回した。

背中に隠した羽毛叩きが揺れているので、叩きと同じく雑巾も無理やり、エプロン紐に押し込んでいるらしい。

「ならばコマリの支えとなってくれ。たとえこの先王宮を去ることがあっても、何事かあればコマリの力になってはくれないか?」

「シモン様、わたしは以前コマリ様に忠誠を誓いました。どのようなことがあっても誓いを破ることはございません」

「忠誠の儀を行ったのか?」

「わたしが口頭で申し上げただけですし、正式なものではありません。コマリ様は「ありがとう」とおっしゃっておりました」


その時のことを思い出したらしく、エーヴァがくすくすと笑う。

囹圉塔で簡略的なパウリの忠誠の儀を行った際、そう言えばよかった、などとコマリがおかしなことを言っていたが。

(なるほど、そういうことだったか)

シモンは寝室の扉を振り返った。

「コマリはあれから眠ったままか?」

「一度様子を窺わせていただきましたが、おやすみのようでした」

朝議での決定やアンティアのことは、明日以降に話すしかないだろう。

思いながらも、コマリの悲しむ顔を見なくて済んだことに安堵している自分がいた。


あの、とエーヴァが声をかけてきたため、シモンは再び彼女に向き直る。

「わたしが口を挟むことではないのでしょうが……」

シモンの視線を受けて一瞬言いよどむが、彼女は思い直したように言葉を続けた。

「コマリ様はもう安全なのですか?コマリ様の知る誰かがまた、コマリ様を傷つけるようなことはありませんか?味方の顔をして裏切るようなことは――……本来コマリ様は笑顔の素敵なお可愛らしい方です。ですが笑顔が曇る出来事ばかりが続いて、いまは食事も喉を通らないほどお疲れになっているご様子。それなのにわたしたちの前でまで明るく振舞おうとなさるのです。わたしはコマリ様が心配でなりません」


「今後コマリが傷つくことはないと言えぬ。わたしといることでむしろ増えるかもしれない。だからこそわたしはなにがあってもコマリを守ると決めている。味方を増やしたいと思う。その一人にエーヴァも加わってくれると心強い」

シモンを見上げていたエーヴァは決意を秘めた顔になった。

「わたしがお役に立てるのでしたら喜んで」

「エーヴァや他の侍女たちのおかげで、コマリも随分と心を慰められているだろう。きっと時がたてば元気になる。コマリは優しいだけではなく、勇ましくも強い女性なのだから。エーヴァも知っていよう?」

「そうですね。自分を狙う敵の元へ出向くなど、わたしには恐ろしくてできません。気丈なお方です」


今度は二人して寝室を見つめる。

互いに言葉にして願っているのだ。

コマリはこのくらいで折れはしないと。

「そういえば、シモン様も少し食欲が落ちていらっしゃるようですが大丈夫ですか?」

思い出したように言われてシモンは苦笑を浮かべた。

彼女にとって気にかけるべき一番は、コマリであるようだ。

「侯爵家で少し見慣れぬものを見たせいだ。大事ない」

「見慣れぬもの?」

「聞かないほうが良いぞ。ああ、コマリももしかすると昨日のアレのせいで、食欲がわかぬのかもしれないな」


人の臓物やちぎれた手足など戦場でもなければそうそう目にしない。

シモンは脳裏に浮かんだむごい光景を振り払うように話題を変えた。

「明日、午後より仕事を休む」

「まぁ、それはコマリ様もお喜びになるでしょう」

「もとよりコマリのためだ」

シモンは己の思いつきから大きく話が膨らんだ明日の計画を、エーヴァにも打ち明けた。





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