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あなたの虜  作者: 七緒湖李
本編
120/161

ペーパーナイフ

血だらけの人たちが点々と倒れていた。

壁や天井が壊れ、所どころ赤く染まっているのは、彼らの血飛沫だ。

廊下中に血の臭いが立ち込めている。

死体だけでなく、美術品やそれらを飾る台まで転がっていて走りにくいのか、小鞠を抱えたオロフをはじめ澄人とグンネルは、廊下を走る速度が落ちた。


「ひどい。強力な攻撃魔法でやられたみたいだ。まさかこれ、クレメッティが?」

「さっきシモン君に聞いたけど、パウリはクレメッティがアンティアに会いにくるて言うてたんやて?それ的中してんやわ。侯爵にとったらクレメッティはもう用無しやから、クレメッティを見つけたら消そうとするやろし、やからってクレメッティかて黙って消されるはずもない。こうなるのは当たり前や」

「そうじゃなくて、わたしが言いたいのは、クレメッティの魔法使いとしてのレベルのことを言ってるんだよ。倒れたなかには魔法使いもいるみたいだ。砕けた魔法石が落ちてるし……やっぱり実力を隠してたのか」


「実力だけの差やないと思うで。クレメッティは人を殺すことに躊躇いがなかったんや。対する侯爵側の魔法使いは守り中心で、たぶん人殺しの経験がなかったん違うか。やったら最初から殺す気できてるクレメッティが相手なんは、荷が重いやろ。ええから、あんまり周り見んとき。えげつないわ」

澄人の言葉に従うように、グンネルは口を引き結んで前を見据えた。

「コマリ様は目を閉じていてください」

二人の会話を聞いて走るオロフに、小鞠は言われた。


確かに直視できるような光景ではない。

さっき吐いたはずなのに、また込みあげてきそうで、小鞠は口を押えた。

しかし気力を振り絞って、目は閉じずに魔物との距離を測る。

朧が魔物の目の前を飛び回ってくれていた。

そのせいで足元が疎かになり、廊下の障害に足を取られて思うように走れないようだ。

魔物は牙を向いて朧を威嚇し、鬣の蛇も蠢いて朧を狙っている。

人の血肉を好むはずだが、死体には見向きもしていなかった。

魔物としての嗜好より、獣の本性が逃げるものを追わせているのだろうか。


「魔物は大丈夫。朧が邪魔してるから一気に駆けてこられないみたい」

言いながら小鞠が再び進行方向へ目を向けると、突き当たりに扉の開け放たれた部屋があった。

澄人が「なぁ」と部屋を指す。

「あっこに閉じこもって体制立て直すか?罠を仕掛けるとかどぅや!?」

「それもいいけど、魔物はあの一体だけかな?」

「えぇ!部屋にうじゃうじゃおったらバッドエンド確定やんっ。んじゃ廊下曲がるんか?」

「どっちがいいかなんてわかるわけないよ」

「なんでもいいから、部屋か廊下を曲がるか決めてくれ」

「オロフ君、人任せにせんといて」

「オロフ、人任せにするなっ」

澄人とグンネルの声が重なる。


ちょうど廊下の曲がり角に到達し、小鞠は吸い寄せられるようにそちらへ目が行った。

廊下の奥から剣を携えた男たちが現れたからだ。

「シモン!」

「コマリ!?」

ほぼ同時に発した二人の声を聞いたオロフの反応は素晴らしかった。

利き足を主軸に方向を転じると、シモンたちの元へ風のごとく駆け、あっという間に合流したのだ。

澄人とグンネルが一足遅れで追いつく。


「どうして屋敷に……二体の魔物のうち一体を送還している隙に、残る一体が外へ逃げたから、コマリたちを助けるためトーケルが遅れて後を追ったのだが――入れ違ってしまったのか」

小鞠の無事を確認し安堵したはずのシモンの顔が、次の瞬間、一気に強張った。

壁にぶつかるようにして、廊下を曲がった魔物がこちらに向かってきたからだ。

シモンを守るようにテディとリクハルドが立つ。

オロフは肩にあった小鞠を抱え直し、彼ら二人に守られるシモンのさらに背後へ移動した。


朧が鋭い爪で魔物の目を狙って攻撃しているが、鬣の蛇に阻まれてうまくいかないようだ。

魔物がうっとうしげに首を振り前足を振り上げたのを、朧はひらりと躱して天井へ逃げた。

「シモン様、コマリ様を連れてお逃げください。ここはわたしが食い止めます」

覚悟を決めたようにグンネルが魔物に向かって進み出た。

「グンネル!?ならばわたしも――」

グンネルに続こうとするリクハルドの肩を、ゲイリーが掴んで引き止めた。

「魔法石も精霊の守護もないうえ、おまえはトーケルほど戦い慣れしていない。わたしが行く」

「はっ!?ならおまえはまだこの世界の魔法をあまり知らないだろうが」 

反論するリクハルドの背を澄人がポンと叩いた。


「ほんま、リクハルド君は見かけによらず熱いこっちゃなぁ。落ち着きや。人間、適材適所やて言うやろ?リクハルド君は攻めより守りが向いてるタイプやねん。攻撃魔法を受けたとして、ここにおる魔法使いの誰より早ぅ防御できる。知っとる魔法もぎょうさんある。もしクレメッティに魔法で猛攻撃されても、きみならシモン君と小鞠ちゃんを守りきれるんや」

何かを言おうとしていたリクハルドは、葛藤の末、言葉を飲み込んだ。

そして澄人とゲイリーに「グンネルを頼む」と言った。

「了解や。ボクらが表におらんかったら、トーケル君かて屋敷に戻って来るやろし、そうなったら挟み撃ちであっちゅう間に魔物を片付けれるわ。そしたらすぐ後を追うからな。そんなわけでシモン君、ここはボクらに任せて行き。クレメッティを見つけて捕まえや」


シモンの返事を待たずに澄人が魔物に向かっていく。

魔物はグンネルの魔法で阻まれ進めないのか怒り狂っていた。

唸る魔物が苛立って壁を引っ掻くと、腐ったようにボロボロと壁が崩れ大きな爪痕が残る。

樹液で物を溶かした茸の魔物ほどではないが、壁を脆く崩す獣の爪もやはり魔物のそれなのだ。

周囲は汚染され腐敗してゆく。

グンネルの隣に並ぶゲイリーの前に、魔法陣が浮かび上がった。

遅れて並んだ澄人の前にも。


三人から視線を切ったシモンが剣をおさめ、オロフへ手を伸ばす。

「オロフ、さすがにコマリを抱えて走るのは限界だろう。わたしが替わる」

シモンの台詞にコマリがオロフを見れば、額に汗がにじんでいた。

「いえ、大丈夫です」

シモンから逃げるように身を引くオロフに、小鞠が「降りる」と言いかけたが、先にリクハルドが進み出た。

「わたしがコマリ様に魔法をかけます」

リクハルドが何事か呟くと、小鞠は自分の体の重みが消えた気がした。

それどころか宙に浮き上がる感じがしたため、焦ってオロフの肩をつかんだ。


「コマリ様はいま羽のごとく軽くなっておりますから、風に飛ばされませんよう。オロフ、コマリ様を離すな」

「了解した」

よし、とシモンが踵を返す。

「ここに来るまでに廊下があったな。戻るぞ」 

「シモン、そんなっ!三人を置いてくなんて……っ」

「屋敷の惨状を見ただろう。クレメッティは正気ではなかったとコマリは言っていたが――これがあやつの仕業とするなら確かにそうだ。アンティアだけでも保護せねば」

足を止めないシモンに臣たちが従う。

オロフに担がれたままの小鞠は、いま聞いたシモンの言葉を反芻していた。


(アンティアだけでも?)

ここまでにあった死体の数はどれだけあっただろう。

そしてシモンは屋敷の奥でどれだけの犠牲者を見たのか。

「ねえ、カーパ侯爵や侯爵夫人は?」

「……アンティアがいなくなればカーパ家の直系は絶える」

言明を避けるシモンに何も言えなくなった。

進む部屋はすぐに分かった。

侍女が息絶えていて、流れた血を踏んだのであろう靴跡が続いていたからだ。


「あそこか」

シモンが躊躇うことなく進んでいく。

突き当たった廊下の壁に赤い染みと、床には侍女らしき女性が倒れていた。

すごい勢いで壁に叩きつけられたように、半身が潰れている。

顔をそむけた小鞠に気づいたシモンは、開いたままの扉から少し離れた場所で足をとめた。

リクハルドに魔法で死体を見えなくするよう小声で言い、オロフには小鞠とともにここにいるよう指示する。

頷いたオロフは小鞠をそっと床におろした。

リクハルドが魔法を解いてくれたのか、ちゃんと床に足がつき体の重みも感じる。


シモンは部屋に入るつもりだ。

そんなの絶対危ない。

小鞠が引き留めるようにシモンの服を引っ張ると、彼は厳しかった表情をやわらげて顔を近づけた。

「大丈夫だ。王子であるわたしにいきなり攻撃はしないだろう。それに魔法石も身に着けている」

魔法石にか施された防御魔法は人の手によるものだ。

だから絶対じゃない。

もし中にクレメッティがいたなら、捕まることを恐れて反撃をしてくるかもしれない。

そして追い詰められた人間は、何をするかわかったものではないのだ。

不安から泣きそうになってシモンを見上げていると、彼は更に小鞠に近づいて耳に囁いた。


「怪我をしては閨でコマリを可愛がれなくなるだろう?」

「じゃあ無事に戻って可愛がって」

軽口は小鞠の気持ちを和ませようとしてのことだろう。

だからきっと彼女の返答はシモンの予想と違ったに違いない。

案の定、彼は目を見張って、そして次に嬉しげに顔を綻ばせた。

「これは何という殺し文句だろうな」

「笑ってないで――」

ちょうどそこへ、室内から大きな音がした。

臣たちが小鞠とシモンを守るように囲む。


開け放った扉から話し声が聞こえた。

なにか言い争っている。

「パウリと……クレメッティだな」

見えない室内を見つめ呟くシモンは、すぐに小鞠に向き直って頭を撫でた。

「お願いは必ず守る。それよりも心配なのはコマリのほうだ。感情に任せて猛進するところがあるからな。ここでおとなしくしていてくれないのではないかと気が気でないぞ、わたしは。囹圉塔でパウリの前に姿を見せたときのように、部屋に飛び込んではこないか?」

ん?と覗き込まれ、小鞠はうぅと口籠った。

青い瞳がからかうように笑んでいる。


「シモンが危なくなったら助けに入る」

動いてしまう理由として考える事柄を告げると、シモンは可笑しそうな含み笑いを漏らした。

「では危なくなる前に逃げねばな。――オロフ、コマリを頼む」

「承知いたしました」

シモンがテディとリクハルドを伴い部屋に消えていく。

見えなくなるとまた不安が胸を占めたが、側でオロフが大きく頷いてくれた。

シモンたちは大丈夫だと笑顔が言ってくれている。

うん、きっと大丈夫。

けれどやっぱり中の状況が気になった。


さっきパウリとクレメッティの声だけでなく、女性の声もしていた。

おそらくアンティアだ。

小鞠は壁に背を貼り付け、開いた扉にじりじりと寄っていった。

その姿にオロフが苦笑ともつかない様子になりながら、同じように足音を忍ばせる。

息をひそめる小鞠は室内の話し声に耳を澄ました。






* * *






「排除した?」

気の抜けたアンティアの声が聞こえたのは、随分と経ってからだった。

ソファの後ろに隠れるパウリは、なるべく体を縮めて気配を消しながら二人の会話を聞いた。

「はい。欲望のままにアンティア様を蹂躙した者はもちろんのこと、傍観していた者も同じだけの罪を負うべきです。ですからわたしが一掃いたしました。アンティア様に苦しみを強いる者はもうおりません」

「では先ほどからの屋敷の騒ぎはやっぱりおまえが――」

「アンティア様、今は話をしている場合ではありません。魔物を召喚いたしましたので、屋敷の者を食い尽くしたらここへやってきてしまいます。その前に逃げなくては」


魔物と聞いたパウリは愕然とした。

魔物に対抗できるのは、魔法使いと神官ぐらいだという。

ただ神官は直接の攻撃力をもたない。

護力とやらで魔物と対峙する魔法使いを守るのだと、パウリは聞いたことがあった。

(じゃあ魔物とまともにやり合えるのは魔法使いだけか?)

カーパ家にもお抱え魔法使いはいたはずだが、クレメッティがこの場にいるということは、魔物と交戦中、もしくはすでに殺されてしまったのではないか?

なんにしても屋敷の魔法使いがこの場に来ることはないと思ったほうがいい。


(つぅかシモン王子たちがここに来てるんだぞ)

クレメッティはアンティアをシモン王子の后にと思っているのだから、アンティアだけでなく王子のことも魔物の危険にさらすつもりはないはず。

なのに魔物を召喚したということは、彼は王子がここへ来ていることを知らないのだ。

「……魔物を召喚したですって?」

やっと発したのであろうアンティアの声は震えていた。

「待ちなさい、おまえ――お父様やお母様は……どうしたの?」

「彼らはアンティア様の妨げにしかなりません」


「それはおまえが決めることではないわっ。お父様とお母様は無事なの!?答えなさい、クレメッティ」

高ぶるアンティアの声とは裏腹に、クレメッティの落ち着き払っていた。

「天の意思を人に伝える役目を担うアンティア様がわからぬことを、唯の人であるわたしが知るはずもありません。魔物に喰われるならば、それだけの人間ということです。天が生きるべき者としなかったのですから。ああ、アンティア様は天の遣わした使者ですから、魔物に害されるはずもありませんでした」

パウリにはいまだ屋敷で上がる悲鳴が聞こえている。

そしてそれは女性の声が多い。

声の遠さからしても、方向からしても、おそらく侯爵夫人の部屋だろう。

魔物は侯爵夫人たちを襲っている。

アンティアも耳に届く悲鳴に最悪の想像をしてしまったようだ。


「あ……あぁ、なんてこと……なんてことなの?これではわたくしは……わたくしの計画は――……」

「アンティア様、どうかなさいましたか?」

不思議そうなクレメッティの問いかけにアンティアは声を荒げた。

「両親と屋敷の者を魔物に食い殺され、わたくし一人生き残ったところでなんだというの!?好奇の目を向けられこそすれ、これまでのように侯爵家の娘と扱われるはずがないでしょう!?魔物を使ってでも滅ぼしたいと、それほどの恨みを侯爵家は買っていたのだろうと……誰もがそう思うわ。わたくしは不吉な娘と烙印を押されたも同然となる。これではシモン様の元へ嫁ぐなんて……王家に入ることなんてできるはずが……」

わなわなと震える声が途絶える。

クッションを握りしめたような、布の音が聞こえた。


「なぜ嘆かれるのですか?シモン様を惑わせていた悪魔はわたしが始末しました。きっとすぐにシモン様は悪魔の幻術から目を覚まされ、アンティア様を后に迎え入れられることでしょう」

「馬鹿をおっしゃいっ!カッレラ王国の貴族として、最高の地位と財力を持つカーパ侯爵家の名があればこそ、誰もがわたくしがシモン様の后となるにふさわしいと思うのよ」

「いいえ、カッレラの王族は愛魂が導く相手を伴侶とするのです」

「わたくしはシモン様の愛魂相手ではないわっ!シモン様の魂の伴侶たるあの娘がいなくなったなら、王宮はあの娘が見つかる前まで、王国の有力貴族の娘をシモン様の后としようとしていたように、今度もまた同じことをするでしょう。でももうカーパ家はその資格が――」

「アンティア様こそがシモン様の魂の片割れです」

アンティアの言葉を遮り、クレメッティがきっぱりと言う。


「なにを――」

今度は、ぎゃあああという男の叫び声が、アンティアの言葉を遮っていた。

命が尽きる断末魔だった。

その声の主がシモン王子たちの誰でもないことをパウリは祈る。

屋敷に魔物がいると知れば逃げているだろうが、一人の怪我もなければいい。

コマリだけでなくシモンや、そして二人の周りにいる臣下たちに至るまで、パウリがこれまで接することがなかった明るい世界の住人だった。

垣間見ただけで眩しさにあてられてしまうほど。

もし彼らと違う出会い方をしていれば……いや自分がカッレラに生まれていれば――。

そう思ったパウリは口の端を歪ませ、手にしたペーパーナイフに視線を落とす。


いつかクレメッティを侯爵家から解放するとずっと思っていた。

子どものころ願ったように、カッレラで二人、生きていくことはとっくに諦めたが、弟だけでも幸せになって欲しかった。

けれどクレメッティがアンティアを心の支えとしてしまったと気づいて、「いつか」は訪れないのではないかと思うようになった。

「異界のあの悪魔がシモン様の愛魂の導く先を歪めていたのです。本来ならばシモン様の愛魂はアンティア様を求めていたでしょう」

こう話すクレメッティの言葉に澱みはない。

本心から言っているからだ。


ペーパーナイフを握るパウリの手に力がこもった。

今日まで自分を誤魔化してきたが、いまが覚悟を決める時なのだ。

なぜならクレメティはもう――。


「狂ってやがる」


小さく吐き捨てたパウリは、隠れていたソファの陰から躍り出た。

跪いていたクレメッティがハッと顔を上げたせいで、自分と同じ色をした瞳と視線が合う。

飛びかかった勢いから、もろともに床に転がり、ソファにあったアンティアが悲鳴を上げた。

パウリは下敷きにしたクレメッティから身を起こす。

目を閉じてピクリとも動かないクレメッティに、アンティアが怖々とした様子で言った。

「殺したの?」

床に座り込んだパウリは、返事の代わりにペーパーナイフを投げ捨てた。

アンティアが銀のそれに目を走らせるのがわかった。


ペーパーナイフはどこも血に濡れていない。

クレメッティが倒れたままなのは、ひっくり返った拍子に頭をぶつけて脳震盪を起こしただけだ。

現に呼吸しているため胸が上下している。

(俺も甘い)

クレメッティと目が合った瞬間、幼い頃の彼が重なって覚悟は消え失せた。

獲物を握る手が動かなかった。

溜息が漏れたと同時に肋骨の辺りが痛んだため、パウリは眉根を寄せた。

洞窟でクレメッティの魔法を受けたところだ。

クレメッティと一緒に転がったとき、突き出された彼の手が肋骨に触れ、倒れた衝撃が直に掌から伝わった。

罅が入っていたように思うが、きっと今ので悪化したのだろう。


ズキズキと痛む胸を押さえたパウリは、ペーパーナイフを見つめたままのアンティアに言った。

「アンティア、今のうちにここから逃げろ」

「え?」

「クレメッティが目を覚ます前に消えろと言ってるんだ。見たろ、いまのこいつは普通じゃない。あんたをシモン王子の后にするためなら何でもする。あんた自身がどれだけ無理だと言っても聞き入れないだろう。手足をへし折ってでも王子の前に連れていく」

「なんなの、それ……嘘でしょう?確かに昔から少し危ういところがある子だったけれど、そんなことって……クレメッティがわたくしを傷つけるはずがないわ」

「危うい子どもだとわかっていながら、真綿で首を絞めるようにして、歪めていったのはあんたたちだ。もう昔のクレメッティじゃない――狂ってるんだ」


パウリはアンティアに告げながらも、再度、自分に言い聞かせていた。

クレメッティは狂っていると。

「わたくし一人でどこへ逃げろというの?屋敷には魔物がいるのよ。おまえがわたくしを守りなさい」

「俺には約束があるんだ」

「約束?」

手を伸ばせば届く距離にペーパーナイフはある。

あれをクレメッティの胸に突き立てれば、二度と黒髪の姫に近づくことはない。

約束は守れるのだ。

黙ったままパウリが釘付けになっているペーパーナイフに、アンティアも再び視線を注ぐ。

そしていきなり、彼女がそれを掴み取った。

両手を高く上げて、逆手に持つペーパーナイフをクレメッティめがけて振り下ろす。


「なにをする気だっ」

アンティアが渾身の力を込めた腕を、パウリはとっさに掴んでいた。

「離しなさい。このままじゃクレメッティはずっとわたくしに付き纏うのでしょう!?計画を――わたくしの未来を台無しにしたのだから、当然報いを受けるべきだわ」

「あんたは何も悪くないってのか!?言っとくがすべてをクレメッティのせいにはできないぞ。カーパ侯爵が陰でクレメッティを操っていたと、王宮側ももう気づいている」

「お父様は魔物に殺されたのでしょう?お父様だけじゃない、お母様も、屋敷中の人間が魔物に襲われている。その魔物を召喚したのがクレメッティよ!カーパ家はクレメッティに脅されて、彼に従っていただけ。クレメッティは野心家で、わたくしをシモン様の后にして、陰から王宮を支配する気でいたの。そんなクレメッティを諭したお父様に逆上し、彼は屋敷に魔物を放った。わたくしはそう王宮に証言するわっ」


「クレメッティがこうなった原因はあんたの存在が大きい。敬愛ではなく自分を崇拝させて、思い通りにこいつを操っていたんだ。シモン王子の后になるという、大それた望みのためにな。侯爵より誰より、あんたが一番の野心家だ」

もみあったところで結局は、男であるパウリの力のほうがアンティアより強い。

ペーパーナイフを握る手を無理やり広げ、獲物を取り上げると彼女を突き飛ばした。

クレメッティを背に守るパウリをアンティアが睨みつけてくる。

パウリはペーパーナイフを、彼女から遠ざけるため背後に投げ捨てた。


「もう行け。あんたがどういう女だろうが、過去のこいつに生きる希望を与えたことに変わりない。あんたのために生きてきたこいつを殺そうとするなんて、そんな残酷なことをしないでやってくれ。せめてこいつの前でだけは聖なる使者のままで……」

「それは本当のわたくしではないわっ!」

アンティアが叫んだ。

「淑やかなカーパ家ご令嬢。慎ましくたおやかなレディ。それは誰のこと!?わたくし!?はっ、そんな賛辞に騙される者たちのなんと多いことかしら。それは周りが作り上げたわたくしよ。お父様が、いいえ、お父様だけじゃない、お母様が、貴族たちが、それに使用人たちですら――カーパ侯爵の娘はこうあるべきと、虚像の淑女をわたくしに押しつけてきたわ。わたくしはそれを演じされられたのよ」

紫暗色の瞳は怒りに満ちていた。


ずっと内にため込んでいたものが弾けたように、彼女はまくしたてる。

「皆がわたくしにだけ望むのはおかしいわ。わたくしだって望んでいいはずでしょう?だから決めたのよ。淑女を演じる代わりに好きに生きようと。利用できものは利用する。使用人やわたくしに近づく貴族たちはいい練習台になったわ。人心を操るなんてコツをつかめば簡単なことだった。男なら自尊心を満たして、女なら共感させて、あとはちょっと優しくしてやれば、みんな勝手にわたくしの言うことをきくのだもの。そのうちに気がついたの。王国の母になれば国をも操れる。それはなんて魅力的な遊びかしらって」

「そんなことが、正妃を望んだ理由か?」

「何か言いたげね」


アンティアがどれだけ腐っているか改めてわかっただけだ。

正直に言うつもりなどないが。

「……俺はあんたに自尊心を満たしてもらったことはないぞ」

「おまえはわたくし自身で愉しませたはずよ」

アンティアの唇に濡れた舌がのぞいたとき、パウリはどうしようもないほどの嫌悪を彼女に感じた。

好き者だった母親が不意に思い出された。

「あんたにとって俺は情夫ってところか。その役はクレメッティにさせてやりゃよかったんだ」

そうすればクレメッティもアンティアを崇拝することはなかっただろう。

クレメッティの名が出たためか、アンティアは一瞬、彼へ視線を移した。


「クレメッティ――……彼は誰よりカーパ家の未来を考えてくれているのでしょう。ところで魔物はどうなったのかしら?」

呟くように言って、扉へ視線を向ける。

先ほどと一転して、急にクレメッティを擁護するのはどういうことだ。

奇妙に思いながらパウリは問いかけた。

「逃げないのか?」

「人の生死は天がさだめるのだわ。この窮地を生き延びたなら、それは天が生きよと言っているのでしょう。屋敷の魔法使いたちが魔物を退けられればいいのだけれど」

今度はまるで神官のような物言いだ。


訝しんで眉を寄せたパウリは、ふいに背中に衝撃を受けて目を見開いた。

ジワリとした痛みが広がり、顔を顰めながら振り返ると、茶色の髪が目に入った。

「クレメッティ――おまえ、目を覚まして……」

「天が死を与えるのはアンティア様にではなく、きさまにだ」

クレメッティが意識を取り戻したため、アンティアは彼の望む聖女を演じたのだとパウリは理解した。

下手に刺激しては、自分も侍女と同じ目に合うと考えたのだろう。

ペーパーナイフを捩じられて、パウリはうめき声をあげた。


心臓を狙ったのだろうが、素人で狙いが逸れたようだ。

肩甲骨の辺りを刺されたため、最初骨に当たりそう深い傷を負わされてはいない。

パウリはクレメッティの頭に手をやって、力任せに引きはがした。

どぉと体ごと倒れこんだクレメッティが落したペーパーナイフを奪い、切っ先を向けて素早く距離をとる。

アンティアは乱闘を懸念してか後ろに這いずり、ソファに背中をぶつけて「ひ」と悲鳴を上げた。

「アンティア様の幸せを脅かす者は排除する」

クレメッティに憎しみのこもった目で見据えられ、パウリは負けないほどの鋭い眼力で彼を睨み返した。


「だったらちゃんと刺せ。浅い上に急所を外しやがって……こんなんで死ぬか。言っとくが俺はおまえを守ってたんだぞ。おまえの大好きなアンティアが何をしようとしてたか教えてやる。この女はおまえを――」

「お黙りなさい、パウリ!」

アンティアの鋭い声が飛ぶ。

「クレメッティ、この男がいくら兄だからといって、その言葉に耳を傾けては駄目よ。おまえを殺して、わたくしを自分のものにするつもりなの。屋敷に魔物を放ち、お父様を襲ってくれて好都合だと言っていたもの」

アンティアの口から飛び出すでまかせに、パウリは唖然とする。


「アンティア、どこまで小賢しい真似を……」

「兄?まさか本当にこいつが――?」

が、クレメッティが呟くのを耳にして、彼へ向き直った。

そこへ、凛としたよく通る声がした。

「探していた者たちすべてがここに揃っているようだ」

室内に人が入ってきたことで、もともと部屋にいたパウリたちは、吸い寄せられるように視線を向けた。


あかり玉の光を受けて煌めく濃い金髪。

意志の強さを秘めた青い瞳が印象的なその人物は、この国の第一王子、シモン=エルバスティその人だった。




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