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あなたの虜  作者: 七緒湖李
本編
119/161

魔物

庭木から壁を伝いバルコニーに降り立ったパウリは、窓の鍵が開いていることに気づいて、室内にするりと忍び込んだ。

カーテンをわずかに揺らして踏み入れたそこはアンティアの寝室だ。

仕切られた壁に扉はなく、隣の部屋の明かりが見えた。

人の気配がある。


足音を忍ばせ部屋の様子を窺うと、ソファに半身を横たえるようにして、クッションに身を預けたアンティアが微睡んでいた。

侍女はおらず一人のようだ。

時間的に考えて食事後、くつろいでいるのだろう。

(クレメッティは来ていないのか?)

洞窟のあった森を出てまさか歩いてここまで来るわけもない。


馬を調達するのに手間取って、まだ道中なのかもしれない。

馬でひた走ったとき、それらしい者を追い越してはいないが、背後から迫る一団に気づいて隠れたか。

(いや、追っ手に気づいたらここへは来ないか。……じゃあどこへ?)

ほかにあいつが行きそうな場所の心当たりなんてない。

必ずここへ来る。


迷いを消したパウリは音もなくアンティアに近づいた。

明かりを遮る気配に目を開けたアンティアは、パウリに気づくと優雅に微笑んだ。

「やっと戻ったの?」

体を起こし、上半身を預けていたクッションに肘を乗せて頬杖をつく。

どこか気だるげなのは眠りかけていた名残からだろう。


「王宮からあの子を連れ出した仲間というのはおまえ?シモン様が指揮を執り、必死でおまえたちを探しているらしいわ。王宮側はクレメッティが犯人と思っているようだし、おまえがクレメッティを逃がすよう見せかけて、騒ぎを攪乱してくれたおかげでうちに目が向くこともない。簡単にあの子を始末してしまっては、黒幕はクレメッティではなく他いると怪しまれるところだったわ」

よくやったわねというようにアンティアはパウリを見上げた。

「で、あの子を連れ出したあとはもちろん……?」

言葉を濁しているが言いたいことはわかった。


「クレメッティは生きてる」

パウリのぶっきら棒な物言いにアンティアは何度か瞬いた。

いつもと違って敬語はなく、わずかもニコリとしなければそれは驚くだろうか。

最初の驚きから立ち直って、言葉の意味を解したらしいアンティアは、見る間に表情を強張らせた。


「それは……どういうことかしら」

「あいつは死んでいない。そしておそらくここへ――あんたの元へやってくる」

「どうしてそんなことになっているの?パウリ、おまえ、あの子に何を吹き込んだの!?」

「吹き込めたならよかったが、俺の言ったことは何一つ信じなかった。あいつの心はあんたに支配されている。何年もかけて少しずつそうなるよう仕向けたんだろ?だがどこかでクレメッティも歪みに気づいてる。だからあんたに会っておきたいんだと思う」


きっと安心を得たいのだ。

今までしてきたことは間違いじゃないと。

そしてこれからもアンティアのために尽くせばいいと、そう思いたいために。

アンティアはクレメッティがやってくるということに動揺しているようだ。

唇に拳をあて何事か思案している。

「俺たちは」とパウリが言葉を続けると、視線だけを彼に向けた。

「リキタロで不必要だとされた。それだけのことをしたからだ。生きるためだったなんてのは言い訳にもならない。だけど俺もあいつも無知なガキで、当時の世界が俺たちのすべてだった。そんな愚かなガキを拾ったあんたたちは、気まぐれで飼うことにしたんだ」


「そう……クレメッティのことを思い出していたのに、おまえは隠していたのね。ただ思い違いをしているわ。お父様は善意でおまえたちの世話をしたのよ」

「善意?俺の記憶がないのをいいことに、一緒に河岸に流れ着いた弟の存在を隠していたくせに。クレメッティには兄は死んだと言ったんだ。それは俺たちを孤独にして、ここでしか生きていけないと思わせたかったからだ。ここで生きていくという道しか示したくなかったからだ。実際、俺はそうするしかなかったし、クレメッティもそうだったんだろう」

パウリはアンティアを見つめたまま言葉を続ける。

「あんたは俺にクレメッティを始末しろと言って笑っただろう。俺がクレメッティを弟と知らずに殺すのを想像して愉快だったんだよな。裏の仕事をしてきた俺から見ても、あんた相当歪んでる」


瞬間、アンティアがパウリを睨みつけた。

「おまえ、わたくしに向かって――」

「あんたじゃないんだよ」 

アンティアの言葉を遮ったパウリの脳裏に、まっすぐに向けられた黒い瞳が浮かぶ。

「一緒にクレメッティのところへ行こう」と言った彼女は、異世界の人間だからこちらの常識では測れないのかもしれない。

だとしても「一緒に」と言われたときは正直驚いた。

よく知りもしない自分を信じるのかと訝って、曇りのない瞳に本気なのだとわかった。


(誰かに無条件に信じられることなんて今までなかった)

胸の奥がむず痒くなるような感覚だった。

落ち着かなくて意心地だって悪いのに、嫌じゃないのだ。

これが嬉しいという感情だと気がついて、そんな気持ちを抱いた自分を隠すため、軽口で誤魔化した。

彼女とはたった数分話しただけだが、自分や自分の周りにいた人間と全く違うとわかった。

健康な心を持った人間なのだろうと。

淑女たりえなくとも、完璧でなくとも、きっとそういう者が王妃にふさわしい。


黙ってしまったパウリを見上げるアンティアが訝るような目を向けてくる。

そこへ突然、遠くでドンと大きな音がした。

「なんの音?」

アンティアが眉を寄せる。

パウリはシモンたちが屋敷に押し入ろうと、魔法で扉を破壊したのだろうと思った。

自分が姿を消したことで引き返してくれることを願ったが、逆に強行策に出たのだろうか。

魔法使い塔で手合せしたときから感じていたが、シモン王子は攻めるタイプらしい。


なんにしてもまだアンティアに、シモンたちの存在を言うべきではないだろう。

パウリは耳を澄まし、シモンの存在を知らせる声が聞こえやしないかと探ったが、何も聞こえなかったため、とぼけるように肩をすくめる。

「わからん。使用人が日頃の恨みを晴らすために、何か壊したんじゃないのか?」

「この屋敷におまえ以外でそんな恩知らずな者はいないわ」

「そうか?けっこう鬱憤が溜まってると思うぞ」

「本当に失礼な男だこと。何かを壊したというより爆発したような音だったでしょう。本当に使用人の反乱だというなら、魔法使いの魔法が原因ではない?」

そこへまた大きな音が響いた。


今度は収まる気配もなく立て続けに音が上がる。

アンティアの言う通り魔法で屋敷を破壊しているかのようだ。

王子が悪戯にそのようなことをするとは思えない。

「クレメッティ?」

もしかしてあいつが現れたのか?

パウリの独り言にアンティアがサッと顔色を変えた。

「まさか本当におまえの言うようにここへ……?」

ドン、ドン、と響く音が移動している。

そしてギャアアァと何人もの悲鳴が上がりはじめた。


断末魔のような叫び声にアンティアは頬を引きつらせ、白い顔は怯えからかさらに白くなった。

丸腰であったパウリは視線を巡らせ、部屋の端にあるライティングビューローにあったペーパーナイフを手にした。

全体に細かな彫りが刻まれている、美術品としての価値が高い品だ。

使い勝手より意匠を重視したそれは、手のひら程の小さいものだがないよりはましだろう。

(どうする?)

クレメッティならアンティアの元へ来るはず。


実際、音がどんどんここに近づいている。

待ち受けるか、それともこっちから攻めるべきか。

(ここにいればあいつはアンティアを傷つけることを恐れて、強力な攻撃魔法は使わないか?) 

見ればアンティアは悲鳴が上がったことにビクついて、大きく体を震わせていた。

忙しく彷徨わせる眼差しが、吸い寄せられるように寝室へ向けられる。

パウリにはアンティアの思考が透けて見えた。

寝室のどこかに隠れるつもりか。

しかしそこでどん詰まりになるだろう。


そうパウリにはわかりきっていることも、お嬢様として育った彼女には思い至らないらしい。

アンティアが腰を浮かせたのと同時に、ノックもなく部屋の扉が開いた。

パウリは反射的にソファの陰に飛び込んで身を隠す。

一瞬見えたのはアンティア付きの侍女だ。

女のヒステリックな声が室内に響き渡った。

「アンティア様、お逃げくださ――……」

しかし言い終わらぬうちにゴッと風が鳴る。

何かにぶつかるような音と、ぎゃ、とへしゃげた声がした。


それっきり侍女の声は聞こえなくなった。

パウリの耳が、廊下の床を踏む靴音を聞いた。

それはアンティアも同じだったようだ。

室内の緊張が高まる。

パウリはソファの陰から様子を窺った。

開け放たれたままの部屋の入り口に姿を現したのは……。


「……クレメッティ」

アンティアが名前を口にしたのはおそらく無意識だろう。

衣擦れの音からソファに彼女は座り込んでしまったらしい。

身を隠すソファの背もたれに一度視線を向け、自身が隠れているか測ったパウリは、再びクレメッティを覗き見る。

クレメッティは彼女に名を呼ばれることが何よりの喜びとばかりに、唇を持ち上げていた。

その笑みはどこか異様で、パウリには狂人を思わせた。


おそらくクレメッティは、たったいま侍女を殺めたことに罪悪感など感じていない。

彼の瞳に映るのはただアンティアのみ。

クレメッティがゆっくりとアンティアに近づいてきたため、パウリは見つからないよう、より身を低くした。

布が床に滑る音からすると、クレメッティはアンティアの前で膝を折ったのだろう。

パウリは呼吸一つにも細心の注意を払い耳を澄ます。


「お側を離れ申し訳ありませんでした。アンティア様を苦しめた輩はすべて排除いたしました。これからはわたしが側でお守りし、あなたを光り輝く道へお連れします」

 





* * *






室内でカーパ侯爵を見つけたシモンは、脈を確認するテディの隣に屈んだ。

「どうだ?」

「かろうじて脈はありますが、おそらくはもう……」

言葉を濁すのは助からないということだろう。

脈を取っている手と反対の手首は折れ曲がり、右足も膝下から捩じれているのを確かめたシモンは、侯爵が目を開けたことに気づいた。


意識が朦朧としているのか、側にいるのがシモンだとはわかっていないようだ。

ゴフと咳き込むと口の端を血が流れて髭が赤く染まる。

弱々しく手を伸ばし、喘ぐように動いた口が何か言葉を紡いだ。

「………ク…メッテ………」

屋敷のさらに奥から、ぎゃああぁ、という悲鳴が聞こえてきたせいで、全員がハッと顔を上げた。


使用人だろうか。

逃げ惑うような気配と叫び声がした。

パタという音にシモンはカーパ侯爵に向き直った。

伸ばしていたはずの手が床に落ち、侯爵は事切れていた。

侯爵が言いかけたのはクレメッティの名だろう。

侯爵のこのむごい姿はきっと彼の魔法によるものだ。

騒ぎの元を辿っていけば、クレメッティはそこにいるはず。


「――行こう」

立ち上がったシモンに皆が続く。

廊下には死体があった。

この部屋に来るまでにも魔法使いらしい死体があったが、同じ殺され方をしていた。

強い圧力が加わったように潰れていたり、腹が裂かれている。

覗く臓腑に目を背けても、むせ返るような血の匂いがまとわりついた。

どうしてこのようなひどい殺し方ができるのか。


シモンがその部屋の入口に辿り着いたとき、なぜか中に入ることは躊躇われた。

開け放たれたままの扉から中が見える。

女性が好みそうな調度品や部屋の広さから、おそらくは侯爵夫人の私室だろう。

大理石のテーブルやそれに合わせたソファは引っくり返り、部屋を飾っていたのであろう花や装飾品が床に散らばっていた。

カーテンが引き裂かれ、窓の一部は割れて、壁に血飛沫が飛んでいる。


流れる風に乗ってツンと鼻をつく刺激臭をシモンは感じた。

そしてゴリゴリという異様な音にそちらを向いた。

部屋の奥、円卓が転がった向こう側。

煌々と灯る明かり玉が見たくもない光景を照らしている。

折り重なっているのは侍女や下男だろう。

一番下にはドレスのスカートが見えた。

バキと何かをへし折るような音とともに、のぞく足がヒクリと動いた。


人山の上に何かいる。

しかも二体。

唸り声をあげ互いを威嚇し、奪い合うように人を貪っている。

(なんだ、あれは……)

シモンの麻痺した頭の中で、じわじわと警鐘が鳴りはじめていた。

「た、助けてくれ……っ」

部屋の物陰から血だらけの男がよろけながら走ってくるのが見えた。

爛れた引っ掻き傷がいくつもあって、流れた血で服が真っ赤だった。


手を伸ばしかけたシモンが、あ、と思ったときには、人の山にいたはずの一体が、男の背に飛びかかっていた。

後ろ姿は大きな獅子に見えていたが、蛇の鬣を持ち紫の目が五つもある魔物だった。

口が耳まで裂け、血に濡れた牙が男の首に食い込む……寸前、部屋の扉が勢いよく閉まった。


「シモン、死ぬ気か!」

ゲイリーだった。

室内から耳を劈くような悲鳴が聞こえる。

シモンが扉を見つめていると、ゲイリーは非情に言った。

「諦めろ――今のが魔物というやつだろう?総じて獰猛で残忍ということだが、獲物を嬲り殺しにするあたり本当のようだ。あれとまともにやりあえば、いくらおまえが魔法石で守られていてもそう長くはもたないぞ」

シモンは拳を握って王宮魔法使いを振り返った。


助けられなかったことを悔やむより先に、これ以上魔物の被害を増やさないようにするべきだ。

「おまえたちで対処できるか?」

リクハルドとゲイリーの二人は目を見交わしてから頷いた。

「庭園に魔物が現れてから、送還魔法をもう一度さらい直しました」

「ただ魔物がじっとしてくれていないと狙いがそれます」

「そうか。では囮を使えばいい。わたしとテディとゲイリー、囮役に三人もいれば充分だろう」

そう言ったとたん、ゲイリーを除く全員が猛反対した。


「囮ならばわたしとゲイリーがいたしますっ!」

「そうです。シモン様にそのような危険なことをしていただくわけにはまいりません」

「頼みますから、安全な場所に控えていてください」

「いや――」

シモンが言いかけた言葉は、扉に何かがぶつかる音に掻き消えた。


部屋に閉じ込められた魔物が、廊下にいるシモンたちを狙って、体当たりしているのだ。

オオォと腹に響く不気味な魔物の咆哮が聞こえた。

もめている時間はない。緊迫した空気のなか全員の視線が交わった。






* * *






屋敷からいったん離れましょう、というグンネルにうなずいた小鞠だったが、こみ上げる吐き気を我慢するのはもはや限界だった。

一歩と歩くこともできずに座り込み、「うっ」と胃の中の物を吐き出した。


「コマリ様!?」

「いかがなさったのですか?」

「ちょお小鞠ちゃん?大丈夫か?」

「……ぐ……ぅ……うぇ……」

お茶の時間にエーヴァが気を利かせて持ってきてくれた、栄養たっぷりのスープを飲んでから何も口にしていない。

ほとんど空っぽの胃から吐き出すものがなくなっても、吐き気はおさまらなくて涙が滲んでくる。


グンネルと澄人が背中をさすってくれた。

「ずっとこらえていらっしゃったのですか?」

「ええから我慢せんと全部出してまい……って吐くもんないんか?そら辛いな」

ポロポロと涙をこぼし、咳き込みながら胃液を吐いていた小鞠だったが、しばらくあってグンネルが水を差し出しているのに気づいた。

いつの間にかグンネルの背後に、緑の髪を揺らすモアが立っていた。


「モアに用意してもらいました。さあコマリ様、口の中を漱げばすっきりすると思いますよ」

木の器に入った水を軽く持ち上げるグンネルの後ろで、モアも両手でどうぞという仕草をした。

何度か口を漱いで、冷たい水を飲み干す。

すると不思議なことに、すぐに器が水でいっぱいになった。

こくこくと飲むとまたいっぱいになる。

精霊の魔法なのかなんなのか、水を飲んだだけなのに、胸のむかつきが治まっていく。

「不思議なお水。気持ち悪かったのが治っちゃった。それに筋肉痛も楽になったみたい。ありがとう、モア。もう充分よ」

モアが微笑んで頷くと、器ごと水が消えた。


直後にそのモアが、何かに気づいたように屋敷を見た。

つられたように小鞠たちも屋敷を見つめる。 

突然、屋敷から悲鳴が聞こえた。

先ほど激しく聞こえていた爆発のような音はしなくなっていたが、叫び声は増えていく。

何事かと思わず立ち上がった小鞠だったが、視界がぐらつくのを感じた。

精霊の水でも、失った体力までは回復できないのだろう。

目が眩んでいることに気づいたオロフに両肩を支えられる。


「コマリ様、やはりまだ体調が優れぬようですし、すぐにここから離れたほうがよろしいかと思います」

「でも中の様子が変よ。シモンたちは?」

「小鞠ちゃん、心配せんでも大丈夫やて。シモン君は充分強いし、他のみんなかて――」

「っえ!?」

澄人の声に被さって、グンネルが鋭く声を上げた。

ただならぬ様子だ。


「どうしたの?」

「モアによれば屋敷のほうで異様な気配がすると。おそらく魔物が現れたのだろうと言っています」

コマリたちにはモアの声は聞こえないが、グンネルは会話ができるらしい。

小さな妖精たちがそうだったが、精霊であるモアも近くに魔物がいると察知できるようだ。

「魔物!?」

王宮の庭園で見た、あんな異形の生物がまた?

魔物には剣が通用しないんじゃないだろうか。

だったらいくらシモンが強くとも、最悪のことだって起こらないとは限らない。


小鞠が屋敷に駆け出しかけるのを、彼女を支えていたオロフが引き寄せた。

「なりません、コマリ様」

「だって……――モア、現れた魔物がどんなのかわかる?シモンたちは無事?グンネル、魔法で簡単に魔物はやっつけられるの?魔法石の守護はどのくらいもつ!?」

「落ち着いてください、コマリ様。リクハルドとトーケルがシモン様のお側についています。二人はわたしが知る魔法使いの中でも特に優秀です。魔物などすぐに帰還魔法で元の世界に還すでしょう」

矢継ぎ早な質問をした小鞠に言い聞かすように、グンネルがしっかりを目を合わせて言った。


本当に大丈夫だろうか。

思った矢先、「ぎゃあああ」という男の叫び声が聞こえて、小鞠はビクと身を竦ませた。

そこへ今度はガシャンとガラスが割れる音がした。

最初それに気づいたのは四人の誰でもなく、精霊であるモアだった。

「なに、モア?」

グンネルの声に小鞠たちもモアを見て、精霊の指す方を見た。

屋敷の陰から現れた生物が、小鞠たち人間の気配に気づいたようにこちらを向いた。

月明かりを受けて紫に輝く目は五つ。

裂けたような大きな口は、人の腕を咥えていた。


「ひっ」

小鞠の唇からひきつった声が漏れる。

ばき、と音がして、魔物が骨ごと腕を食べはじめるのを、呆然と見つめた。

千切れた腕の先が地面に落ちる。

あれは本当に人の腕だろうか?

信じられないものを見たせいで、頭が現実拒否を起こしていた。


「ヤバイ、こっちロックオンされてもぅたやん」

「馬なら逃げきれるかもしれない」

「コマリ様は馬に乗れないよ」

「っちゅうか馬に乗るのにもたついてたら、そこで終わりやろ」

どうして三人は冷静に話ができるんだろう。

噛み合わない小鞠の歯がカチカチとなる。

「に、逃げ……逃げっ――!」

逃げなきゃと声を張り上げようとした小鞠の口を、澄人が素早く押さえた。


「パニックになってんやろうけど大きな声はあかんで。刺激したら一気に襲ってくるかもしれん。わかるな?」

「は、はい――すみません」

「よっしゃ、ええ子や。そんな硬くならんと。はい、深呼吸」

微笑む澄人に促されてスーハーと何度か深呼吸を繰り返すうち、震えがおさまってきた。

こういうとき、彼のほわんとした笑顔は人を落ち着かせる。

「もう平気です」

頷く澄人はオロフとグンネルへ視線を戻した。


「やっぱり馬で逃げるんは無理や。小鞠ちゃん乗せるのに手間取ると思うで」

「ならわたしが魔法であいつを排除する」

グンネルが言った途端、モアが大きく首を振った。

「グンネルの魔法が発動するまで、俺が魔物の注意を引きつけよう。スミトは隙を見てコマリ様を逃がしてくれ」

オロフがグンネルに任せろとばかりに頷き、腰の剣を引き抜く。

モアはグンネルの前に回って、ブンブンと首を振り続けていた。


「二人とも勇敢なことやけど、そないな無茶するより皆で侯爵の屋敷に逃げようや。たぶんあの魔物はボクらの後追ってくるやろし、屋敷の中やったらどこかに閉じ込めてどうにか対処できんちゃう?一番あかんのは、下手に攻撃して逃がしてまうことやで。侯爵家の敷地を出て、よそに行ってしもたら、そこでまた犠牲者が出てまう」

「あ、そうか……そうだね」

「確かに仕留め損ねたら被害が広がるな」

モアが澄人に感謝するような顔をして、空気に溶けて消えた。


緑の玉に戻ってはいないため、グンネルを守るつもりなのだろう。

「長話はここらで終わりや。そろそろこっち来よんで――朧」

名を呼ばれた朧が宙に現れる。

「魔物の妨害頼むわ。悪鬼の類と同じやと思てかかり。玉響をジゼルにつけとるせいで、おまえばっかりしんどい思いさせるな」

【いいえ】

魔物に黄色の瞳を向ける朧に、小鞠は「待って」と声をかけた。


「いつもありがとう、朧。でも無理しないで危なくなったら逃げて。魔物の体液はなんでも溶かしちゃうかもしれないから、噛みつかれないようにね。気をつけて」

小鞠が言うと朧の無表情が微かに和らいで、返事はないまま梟に姿を変えた。

ふわりと高く舞い上がる。

「あの朧が珍しく人に関心持ったんはなんでやーて思たけど。なるほどなぁ。小鞠ちゃん、式神まで誑かしよんねんな。天然たらして怖いわぁ」


「誑か……?そんなことしてません。ていうか天然たらしなんて変な呼び方しないでください」

「はは、調子戻ったやん。びくびく怖がっとったらいつもの1/10も動けへんで。それでなくても体調悪いんやろ?せやからいまはオロフ君に担いでもらい」

「気分もよくなったし自分で走ります」

「いえ、コマリ様。わたしもそのほうが確実に魔物から逃げ切れると思います」

「そこまで足、遅くないもん……」

オロフに鈍間と言われたようで拗ねた口ぶりになっていると、笑いながら澄人が慰めてくれる。


「誰も小鞠ちゃんの足が遅いなんて言うてへんよ。本調子やないんやから、いつもの実力を出せへんやろて言うてんの」

剣を鞘におさめたオロフが、失礼いたしますと小鞠を肩に担ぎあげた。

そして三人は、合図もなく屋敷に向かって走り出した。

がくんと視界が揺れた小鞠が、オロフの肩に手をかけて顔を持ち上げると、魔物が後を追うよう走りだしたところだった。


朧が魔物の顔の前に滑空し、進行を邪魔するも足止めはできていない。

屋敷前にいた馬たちは、魔物に驚いて散り散りに走り去っていったが、魔物は馬に目もくれなかった。

そういえば魔物は人の血肉を好むらしい。

思い出した小鞠の背筋がゾッと冷えた。

「追ってきてる!」

小鞠が叫ぶ。


「追って来てもらわんと困るっちゅうねん。どっか窓のない部屋あらへんか!?さっきのガラスの割れた音からして、たぶんあいつ、窓破って出てきたやろ?」

吹き抜けのエントランスから螺旋状に階上へ続く階段を、一気に駆け上がりながら澄人が隣を走るオロフに言った。

「窓のない部屋があるかなんて知るか。グンネルは?」

「わたしだって知らないよ。ていうかどうして上に行くんだい!?」

「ガラスの割れた音は上のほうから聞こえたやろ。シモン君らもそっちにおるん違うかと思て」

「二階はたぶんプライベートゾーンだよ。生活空間だからそこに魔物がいたとなるとカーパ侯爵たちが――……ちょっと、あれ」


グンネルの声音が変わったため、小鞠は振り返って進行方向へ顔を向けた。

皆より高い位置に顔があるため二階の廊下がよく見える。

そして見えたせいで息を呑んだ。




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