拾われ者
あれは王宮への出立の日だった。
使用人が出入りする通用口をくぐったところで声がした。
「クレメッティ」
振り返って驚いた。
まさか見送りにきてくださるとは思わなかった。
「アンティア様」
日の光を受けて眩しく煌くかの方は、地上へ降り立った女神そのものだった。
いつも側に居る侍女を背後に残し、ゆっくりと近づいてくる。
そして目の前で立ち止まると微笑んだ。
「いまから発つのね」
「はい」
「もう会えなくなってしまうわね。寂しいこと」
表情が陰るのを見て胸が震えた。
なんともったいない言葉を頂戴したのだろうか。
す、とクレメッティはアンティアの前に跪いた。
「わたしの唯一の救いがアンティア様です。いついかなるときもアンティア様の幸せだけを願い、そのためにはどのような行為も、そして犠牲も厭わぬ所存にございます」
静かにアンティアの手が差し伸べられた。
傷ひとつない美しい手を恭しく取ると、額を近づける。
「ずっと守ってくれるの?どこにいても?」
「この身は永久にアンティア様のもの。お呼びとあらば、世界の果てからでも馳せ参じましょう」
ふふと零れた声にクレメッティは顔をあげた。
「おまえはお父様の子飼いでしょうに。誓う相手を間違えているわ」
そっと離れる手を追って思わず立ち上がっていた。
「侯爵様から受けたご恩は忘れておりません。しかしわたしが何をおいてもお守りするのはアンティア様です。貴女は天が遣わした聖なるお方。人々の導となるために、どうか光り輝く道をお進みください。妨げになるものはわたしが排除いたします。ご安心を」
「光り輝く道の先には何が待っているの?」
「太陽の伴侶となる素晴らしい未来があるのです」
「おまえの話は面白いわね」
冗談でかわされたと思った。
「いえ、わたしは本気で申し上げて――」
「この続きは文にしたためてよこしなさいな」
「え?」
「お父様には定期的に連絡をよこすのでしょう?それはどんな方法で?」
文をしたためろとはつまりアンティア様とつながりをもてるということか?
驚いたクレメッティは、侯爵との連絡の取り方をきちんと説明できたか記憶にない。
それでもアンティアは理解したのか、文を取りに行かせるのはいつも彼女についている、年嵩の侍女にさせるということだった。
「わたくしはおまえの話を聞きたいだけ。おまえの言う太陽の伴侶となるための、光り輝く道が出来上がる話を楽しみにしておくわね」
ああ、夢ではない。
アンティア様の言葉は自分に向けられたものだ。
これはわたくしとおまえだけの秘密よ、と続く言葉に、感動に震える胸を抱えクレメッティは頷いた。
「アンティア様のお言葉は天の意思。逆らうはずがございません」
ゆっくりと瞬いたアンティアの瞳が、しっかりと彼をとらえた。
「王宮は美しいところよ。そんな王宮に住まう未来の王妃に相応しいのは、どういう女性かしら?――おまえはこの答えがわかっているのね」
そしていつものように柔らかな笑顔になると、侍女を伴って去っていく。
謎かけのような言葉を反芻し、クレメッティは遠ざかる背中を見つめた。
「はい。必ずやお望みのものをアンティア様に」
王宮に入り、しばらくあってシモンの愛魂相手が見つかった。
だが相手は異世界の悪魔だった。
すっかり誑かされた王子の目を覚ますことはできないまま、悪魔はカッレラにやってきてしまった。
シモン王子と結ばれるのはアンティア様だ。
正しい道に戻さねばならない。
そう決意してから長く時間が過ぎてしまったが、やっと邪魔な悪魔を始末できるチャンスがおとずれた。
あの悪魔にはこれまで散々梃子摺らされたが、最後になって意趣返しができた。
誰にも気づかれず嬲り殺しにされるのだ。
絶望のままに死ねばいい。
これでアンティア様の妨げになる者はいなくなった。
あとは輝ける道が出来上がるのだ。
「それでおまえはどうなるんだ?悪魔殺しはおまえの正義なだけであって、世間じゃ第一王子の魂の伴侶を殺した立派な犯罪者だ。リクハルドやトーケルに気づかれただけでなく、第一王子にまでバレちまっちゃ、もう明るい場所には出てこれねぇ。もちろんおまえが崇拝する天の御使いたる聖女様も助けちゃくれないぜ。きっと切り捨てられるんだ」
ああパウリ、いったい何を言い出すんだ。
アンティア様が幸せになられるのなら、自分はどうなろうとかまわない。
そう思って今日まで生きてきたではないか。
「そりゃおまえが勝手に思ってたこった。俺はずっとこう思ってたぜ。おまえは最初っからあの聖女様に利用されてるだけじゃねぇの?……てな」
人を馬鹿にしたような笑いが耳につく。
やめろ、聞きたくない。
「本当はおまえも気づいてんだろ?あの女は聖女じゃない。おまえに向けてくる微笑みも優しさも全部計算されたもんだ。おまえ以外の人間にも向けられている。ありゃぁ、相手をてめぇの駒にするための餌だ」
やめろ。
「あの女はおまえに異界の娘を殺せとは言っていない。でもおまえはあの女の言葉はすべて裏を読むよう癖づいてる。含みを持たせ、意味深な言動を繰り返すことで、そうなるようにいつの間にか仕込まれてたんだ。だから今回の文の真意も気づけた」
やめろ。
「あの聖女様は同じ第一王子の后候補だったオルガやマチルダよりも、はるかに強かで腹黒い女だよ」
* * *
「やめろっ!」
大声をあげてクレメッティは飛び起きた。
(夢?)
はぁと長い息を吐いて右手で顔を覆った。
アンティア様を疑うなどどうかしている。
「寝言ならもう少し小さく言ってくれないか」
聞こえた男の声にクレメッティはハッと顔をあげた。
そして自分が薄暗い洞窟にいると気づく。
「な……どこだ、ここは?」
「王宮に程近い森にある洞窟だ」
再び聞こえた声に今度こそ相手を見た。
天井の岩の裂け目から微かに日が射しているが、明かりは二人から離れた場所を照らしているため、声の主ははっきりとは見えなかった。
それでも目を凝らしてなんとか顔を見ようと試みると、男は微かに笑ったようだ。
「男に熱心な目を向けられても嬉しくない」
「おまえは誰だ?」
「忘れたか?窮地を救ってやっただろう」
クレメッティはその台詞に、魔法使い塔の前であわや捕らえられるというときに、いきなり乱入してきた謎の男のことを思い出した。
「あのときの怪しい男か。腹に痛烈な一撃をもらったことしか覚えていない」
クレメッティの嫌味に、男は今度ははっきりとわかるような笑い声を洩らした。
「それはすまなかった。おとなしく俺に従ってくれるとは思えなくて、ちょっと動けなくしようとしたら失神されたんだ。腹を強打されて失神なんてよっぽど不調だったか?さすがに二日も眠れば痛みももうないだろう?」
「二日?あれから二日も経っているのか!?」
「正確には今晩がきたら丸二日になる。どれだけ具合が悪かったのか知らんが、おまえが熱を出してくれたおかげで下手に動かすこともできなくてな。おかげですっかり足止めをくった。おそらくいまとなっちゃ城下も近隣の町や村も、王宮からの手配書がまわってるだろう。追っ手をまくために森に逃げ込んだが、相手は異世界の魔法使いだったし、地の利がないならなんとかなったかもしれん。どんな魔法を使うかわからないと用心しすぎたかな」
溜め息のあと、男は石壁に身を預けて岩の裂け目を見上げた。
数秒の沈黙があって再び口を開く。
「王宮の兵がこの森を調べている。ここの入口は草や木の枝で隠してあるが、自ら居場所を告げるような大声をあげられたら台無しだ。勘弁してくれ」
「なぜ助けた?誰かの命令か?」
「命令ね。それは誰の命令であってほしいんだ?クレメッティ」
名前を呼ばれて思わず彼を凝視した。
知らない人間に名前を知られているのが気味悪い。
そんなクレメッティの眼差しを男はどう受け取ったのか、くっと喉を鳴らして投げやりに言った。
「おまえ、自分に助けられるだけの価値があるとでも?犬猫のように拾われて、駒となるよう育てられただけだ。いらなくなりゃ簡単に捨てられる。そういう存在だろう、俺たちは」
「俺たちは?」
「俺もおまえと同じで侯爵に拾われたからな」
「同じ境遇であるからわたしを助けたと?それとも侯爵様の命令で、勝手をするわたしを殺しに来たか」
クレメッティはカーパ侯爵より事前の連絡があり、あの日は何が起こっても動くなと指示されていた。
しかしアンティアからは、コマリの守りが手薄になるだろうと言われたのだ。
どちらの言葉に従うかは考えるまでもなかった。
「勝手してる自覚はあったか。それでもおまえは、侯爵より娘のアンティアに従うんだろ?」
男がアンティアを呼び捨てたことに、クレメッティはピクを眉を揺らす。
「すべてはアンティア様をシモン様の正妃にするためだ。それはつまり侯爵様にとっても好都合のはず」
侯爵様に拾われたこの男がそうであるように、本来なら自分も恩義ある侯爵様に従うべきだ。
しかしアンティア様を知って、守るべきはあの方となってしまった。
きっと侯爵様はそのことに気付いたのだ。
だから不興を買って、自分を消すために男は放たれたに違いない。
なのに男が未だ自分を生かしている理由が、クレメッティにはわからなかった。
狙いは何か見極めようと、男のわずかな動き一つまでつぶさに観察する。
「コントゥラ家とミッコラ家の力を一気に削げば、三大貴族の残りとなるカーパ家が怪しまれる。そうは思わなかったか?」
「貴族など足の引っ張り合いが常だ。証拠がなければ王宮側も動けない。そう判断したから侯爵様も、今回の魔物召喚と二家を排除する計画を思いつかれたのではないか?」
そうだ、もしかすると……。
クレメッティは気が付いた。
「おそらく侯爵様はこれまで王宮を騒がせた事件は、わたしの仕業であるとお察しのことだろう。だがそれを放っておいたのは、魔物騒ぎの犯人もわたしとするためだったのだ。公爵様からの文は送り返すよう徹底されていたし、ならばもしわたしとカーパ家の繋がりが王宮に知られても、孤児に手を差し伸べただけで事件のことは何も知らないと言い逃れできる。わたしが恩義ある侯爵様のためを思って暴走したせいだと言えるのだ」
思いついたことを話すうち推察は間違っていないような気がした。
話を聞いた男は可笑しそうに笑う。
「そこにおまえを犯人と決定付ける証拠でもありゃ完璧だな」
揶揄するような口調にクレメッティは馬鹿にされた気になった。
「何を白々しい。すべての罪を立証する用意は既にしてあるのだろう?おまえがわたしを自殺に見せかけて殺すことでめでたく事件は解決する――そういう筋書きだったのではないか?だが一足遅く、わたしがシモン様たちに囲まれていたため、殺すことができなかったのだ。あそこでわたしが捕らえられ拷問にかけられれば、侯爵様のことを話すと思って、こうしてわたしを連れ去ったのだろう。違うか?」
とはいえあのままでは捕らえられることは必死だった。
理由はなんであれ王宮から連れ出してくれたことはありがたい。
「えらく自信たっぷりに推理してくれたがな。いくらおまえがひょろっこくても、男一人抱えて王宮から逃げるなんて簡単じゃない。口を割られたくなきゃ、割る前に殺せばいいだけの話だ。あのときの俺なら、闇に潜んだままおまえを殺ることだってできた」
「連れ去ったのには他に理由があるということか?」
「そう怖い顔するな。腹が減ってるから機嫌が悪いのか?だったらこれ」
男が無造作に投げてよこしたものをつい受け取った。
ちょうど手元に飛んできたからだ。
こっちの顔も見えているようだし、夜目が利くのだろう。
手のひらに飛んできたのはクレメッティもよく知るククルという果実だった。
「二日間何も食べてなきゃ苛々もする。食っとけ」
どうしていきなり食べ物の話になるんだ。
男の真意を図れなくて、まじまじと見つめてしてしまった。
「だから男に見つめられても嬉しくないと言ってるだろうが。ククルは栄養価が高いし、ほとんどが水分だ。胃が驚くこともない。森で見つけた貴重な食料だぞ」
クレメッティは手にしたククルを見つめた。
毒を塗ってあるということはないだろう。
そんな事をするくらいならば、もっと前に殺しておけばいい。
クレメッティは爪で簡単にむける皮をむいて、ククルに齧りついた。
柔らかな食感と、口の端を流れるほどの果汁が口いっぱいに広がる。
ククルは旅人が水分と栄養補給に持っていくことが多いが、美味い果物ではない。
果汁にほんのり甘味がある程度なためとても味気ないのだ。
芯を残して食べ終えクレメッティが拭うものを探していると、男がまたなにかを投げてくる。
微妙に湿ったボロ布だった。
「おまえの頭を冷やしてた。乾きかけているがないよりましだろ」
まさか看病をしてくれていたのだろうか。
本当に男の意図がわからない。
「わたしをどうするつもりだ」
男からの返事はなかった。
先ほどから自分の質問は、はぐらかされたりかわされてばかりだ。
無言でいるのも答える気はないということだろう。
害されることはないようだから、ともかくはここから逃げることを考えよう。
指を拭った布をクレメッティは地に放った。
(人避けと目晦ましの魔法を使えばたぶん普通の追っ手からは逃げられる)
厄介なのは同じ魔法使いが相手のときだ。
敏感な者なら相手の魔力を感じ取れる。
城下から外へ抜ける門を見張られたら、そこで捕まってしまうだろう。
「おまえはどうしたい?」
随分とあってから男が言った。
どうやらさっきの会話は続いていたらしい。
「自由になる気は?それともまだアンティアの犬でいるつもりか」
「アンティア様だ。さっきから失礼極まりないぞ」
「俺はおまえのようにアンティアを天の使者だなんて思えないんでな」
「なぜおまえがその話を知っている」
アンティア様本人にしか話したことはないのに。
「そりゃあ俺がおまえの知らないアンティアを知ってるからだ。見た目とは裏腹に随分といい性格をしたお嬢様だぞ」
クレメッティは目覚める前に見ていた夢を思い出した。
――あの女は聖女じゃない。おまえに向けてくる微笑みも優しさも全部計算されたもんだ。
――オルガやマチルダよりも、はるかに強かで腹黒い女だよ。
脳裏に蘇るパウリの声に男の声が重なる。
「おまえもいい加減気づけ。いいように利用されてるだけ――っぅ!」
いきなり男の背が岩肌に押しつけられた。
突き出た岩に背中をぶつけたのか、わずかに表情が歪む。
「黙れっ、アンティア様を侮辱することは許さない」
誰が相手であろうと――そう、それが例えパウリであってもだ。
(聞いているか、パウリ)
クレメッティのギラリとした目が男を見据える。
「きさまはあの方の何を知っているというんだ。アンティア様は天が遣わした使者なのだ。人々を導くための聖女となるあの方のお役に立てることがわたしの喜び」
「ぐ……」
男が喉に手をやり苦しげにもがく。
(パウリ、おまえもこんなふうにのた打ち回らせてやろうか)
男は息ができないのか、空気を吸い込もうとする顔が赤く染まっていく。
「マゾの気は俺にはねぇよ」
洞窟に響くクレメッティの声の調子が突然変わった。
「それよりあの男、死んじまうぞ」
同時に魔法が解け、男がゴホゴホと咳き込む。
「おい、あんた。あんまクレメッティを怒らせんなよ」
男は石壁に身を預け、大きく喘いで息を整えていたが、ニヤニヤとしたクレメッティを見て、意味が分からないような顔をした。
「クレメッティはおまえだろう?」
「ここんとこずっと同じこと言ってる気がするが……俺はクレメッティの兄貴だ」
「兄貴?」
「そ、パウリっつうの」
男の沈黙は混乱しているからだろう。
「……一人の人間に二つの人格が存在しているのか。いったいいつからだ?」
「さぁねえ。気がついたときから俺とクレメッティは一心同体だ。表と裏のようにな」
「そんな状態になったのは、パウリが死んだとわかったときからじゃないのか?」
にやけていたはずのクレメッティの目が細められ、探るようなものに変わって男を注視した。
「おまえ、どこまで俺のことを知ってんだ?」
そんなクレメッティを、逆に男がじっと見つめる。
「あ?なんだよ?」
優に数十秒、時間をおいてから男は口を開いた。
「クレメッティのことは侯爵から聞いている。魔法の腕はいいが体が弱く力を存分に発揮できない。侯爵一家が別荘に出かけた際、河岸に流れ着いたらしい幼いクレメッティを助けたそうだ。パウリのことはクレメッティ本人が侯爵に話したんだ。自分と一緒に流れ着いてはいなかったかと」
「へぇ、あの髭ジジイ、あんたにはそんなことまで話してんのか。俺たち同じ拾われ者同士のはずが随分と扱いが違うじゃねぇの」
「確かに違うな。侯爵はおまえに魔力があるとわかったとたん、衣食住だけでなく魔法使いを指導者につけその才能を伸ばした。かたや俺はまずい飯と擦り切れた服、そして物置の片隅が寝床だった」
「おいおい、嘘つくなよ。第一王子とやりあったときの動きは素人じゃなかったじゃねぇか。あんたも師匠をつけてもらったんだろ?」
「俺は侯爵が裏の仕事を任せてた奴に自分から頼んだんだ。侯爵のところにいたら、一生しがない使いっぱしりかと思ってな。俺の弟子入り志願は侯爵にばれて、仕置きされるかと思ったが、どういうわけか許された。あれはおそらく気まぐれと、うまくいけば使い勝手の良い駒が手に入ると思ったんだろう」
「ってことは、あんたこそ髭ジジイの犬じゃねえの。人のことを「犬」呼ばわりしてたくせに」
「俺にはやることがある。そのためなら犬の真似ぐらいしてやるさ」
男が立ち上がった。
あまり広くない洞窟の天井に、ギリギリ頭がつかないといった感じだ。
猫のように足音をさせず近づいた彼がまっすぐにこちらを見下ろした。