天敵
小鞠は反射的に顔を庇ったが、マチルダの狙いが逸れたのか、かなり外れた場所に指輪が落ちた。
そのあとは一瞬の出来事だった。
宙に魔法陣が浮かび上がったかと思うと、青い煙が渦を巻いて湧き上がり、そこから気味の悪い生物が出てきたのだ。
例えるなら大きな茸に木の根のような足が生えた、強烈な悪臭を放つ化物。
魔法陣が消えると同時に、指輪の魔法石が粉々に砕け散った。
(キノコのお化け?……っていうかすごい臭い)
青黒い傘にブツブツと紫の模様が浮き出ている。
六本ある足から溢れる粘々したものは樹液だろう。
のたのた動く足で、化物はその場を360度ぐるりと回ったあと、目がないはずなのに、一番近くに居た小鞠に違うことなく向かってくる。
「ひっ」
息を呑んだ小鞠は慄き、木の幹に背中をぶつけて、逃げられないとパニックになった。
化物が地面を進むと芝生が枯れて溶け、そこからも表しようがないひどい臭いが立ち上って、吐きそうになる。
ずるりずるりと近づいてくるこれは、自分に害を成すものだ。
そう本能的にわかって小鞠は震え上がった。
化物の動きは速くないが確実に近づいてくる。
ひた、とまた足が前に出た。
が、何かに弾かれ動きを止めた。
もう一度足が出る。
弾かれる。
出る。
弾く。
カチカチと歯を鳴らしていた小鞠は、先ほどまで感じていた、吐き気をもよおす臭いが消えていることに気がついた。
どうしてと思い、左の手首にある腕輪に目を向ける。
もしかして魔法石に施されている魔法が、守ってくれているのだろうか。
化物は近づけない小鞠を諦めたようだ。
足を動かし、その場をまたぐるぐると回ると、今度はマチルダに向かって歩き出しはじめた。
化物が狙いを変えたことを悟ったマチルダは顔色を変え、けれど腰が抜けたらしく立ち上がれずにいる。
「や、ぃやっ……来ないで」
マチルダのドレスに化物が触れ、樹液に布が解けていく。
ぐ、とマチルダが口を押さえた。
小鞠にはもう感じないが、おそらくは鼻を突くすごい臭いなのだろう。
顔を引きつらせたマチルダと目があった。
「……すけて……助けて――いやあ!」
悲鳴交じりの声が上がる。
化物の足がまた一歩動くのが見えた。
「立ってっ!」
小鞠自身、どうして動けたのかわからない。
気づいたときにはマチルダの腕を取って、化物から引き離すように後ろに引っ張っていた。
マチルダが小鞠の結界内に取り込まれたのか、化物が弾かれて、怒るように足を踏みならしている。
「こ、コマリ様」
「お願いだから立って!わたしの力じゃマチルダを抱えて走れない――誰か、オロフっ!オロフ来てっ!!」
うんうんとマチルダの腕を引っ張る小鞠は、庭園の外に向かって大声で呼びかけた。
「何事ですか」とオロフが庭園に飛び込んできて、ぎょっと目を剥いた。
そして風のように駆けてくると、マチルダを肩に担ぎ上げ、小鞠の手を取って一目散に庭園の外に向かって走り出す。
「魔物などいったいどこから現れたのですか!?」
「魔物!?ってあのキノコのお化けのこと?え、えとなんか急に出てきたの」
「誰かが魔物を召喚しないかぎり現れることはないはずですが」
マチルダの指輪から出てきたとは言わないほうがいいと思った。
言えば彼女が罰せられる気がしたからだ。
たぶん、あの指輪には魔法がかけられていたのだ。
ただマチルダの驚き方からして、彼女も魔物が出てくるとは思っていなかったに違いない。
庭園の外に出るとスサンが小鞠に駆け寄ってきた。
「コマリ様、何があったのですか?それにこのひどい臭いはいったい!?」
風に乗って魔物の臭いが流れてきているようだ。
オロフがマチルダを地に下ろしながら、
「中に魔物がいる」
と言ったため周りが顔色を変えた。
「俺が食い止めるから、おまえたちはコマリ様とマチルダ様をお守りして逃げろ。ああいや、ルーヌは魔法使いを呼んできてくれ。魔物相手じゃ剣より魔法が有効だ」
護衛騎士の一人が走り去っていくのを目で追ったオロフが、腰に佩いた剣をすらりと抜き放った。
残った護衛騎士に頼むというように目を向ける。
そのまま庭園へ駆け戻りそうになるのを小鞠は腕を掴んでとめた。
「オロフ、戻っちゃ駄目っ。魔物の体から出てる樹液みたいなので剣は溶けちゃう。魔物が歩いた後の芝生とか、マチルダのドレスが溶けたの」
「ですが魔物が庭園から出てきてしまっては――それにわたしには魔法石があります」
「永久に守られるわけじゃないでしょう!?シモンだって火事のとき、負荷がかかりすぎて石が砕けちゃったじゃない」
ヒ、と短い悲鳴があがったため、小鞠とオロフは声をあげたマチルダを見た。
彼女は小鞠たちの背後を指差し、真っ青になっている。
振り返ると魔物が庭園を出てくるのが見えた。
アーチの土台に魔物が触れると、まるで飴のように土台が溶けて、アーチ全体がぐらりと傾いだ。
「お放しくださいコマリ様。魔物は人を食らうだけでなく、周りを汚染していくといいます。ここで止めねばなりません」
オロフが魔物を見据えたまま言った。
(どうしよう、このままじゃオロフが怪我を――ううん、もしかしたら……)
小鞠の脳裏にベッドに横たわるヴィゴの姿が浮かんだ。
あんなふうに怪我をして、また誰かいなくなってしまうのは嫌だ。
「コマリ様、ここにいては危険です。逃げましょう」
スサンが切羽詰ったように言うが、小鞠はオロフの腕を掴んだまま動けなかった。
オロフはそんな小鞠の肩を押し、「失礼を」と自分から腕を引き離す。
オロフが剣を握りなおしたそのとき、ゴッ、と突風が皆の脇を吹き抜けた。
風がおさまるのを待って顔をあげた小鞠は、目の前の光景に呆然とする。
魔物を取り囲む鮮やかな光たちに見覚えがあったからだ。
「森喰い?どうしてここに」
呟いたオロフが我に返って駆け出しかけるのを、今度は仲間の騎士が止めた。
「オロフ、見ろ。魔物がおされてる」
警戒色を発してブンブンと飛び回る妖精から、光が膨れ上がり纏まって光球になると、魔物を取りこんだ。
魔物は光の中で足をばたつかせて暴れていたが、徐々に動かなくなり、やがてばたりと倒れてしまう。
そして見る間に干乾びてボロボロと崩れ去った。
「嘘だろ、森喰いが……」
「魔物を倒した」
オロフたち騎士が信じられない様子で顔を見合わせる。
妖精の警戒色が明滅して淡い光に変わった。
宙を泳ぐ速度も、いつものふよふよとしたものに変わり、蛍のように揺れながら小鞠に近づいてくる。
「きゃあぁ、森喰いがっ」
マチルダが悲鳴をあげて手をばたつかせると後退った。
小鞠はスサンに彼女を任せ、魔法石を持たない護衛騎士とともに下がらせた。
そうして小さな妖精に笑顔で手を差し伸べる。
「助けてくれてありがとう」
すると彼らは一斉に胸を張る仕草をした。
その様子が可愛らしくて小鞠は笑ってしまう。
「けど、どうしてここに魔物がいるってわかったの?」
彼女の質問に妖精たちは、今度はぶるぶると身震いをしはじめた。
「寒い?え、違う?震える?」
「コマリ様、気配を感じると言いたいのでは?」
オロフが言ったとたん、彼らがうんと首を縦に振った。
「それでやっつけに来たの?魔物は天敵、とかかな」
小鞠が首を傾げると、妖精が前足でしきりに庭園を指している。
呼ばれている気がしてついていくと、魔物が通ったあとの腐った道を示して、ブーブーと嫌そうに舌を出した。
「そっか、植物が腐って、あなたたちのご飯を台無しにされるからね」
一緒について来ていたオロフが、大地の様子を見て、それ以上近づかないようにと、コマリを制した。
「ここは魔物に汚染されています。リクハルドたち魔法使いなら浄化する方法を知っているかと思いますが、それまでは近づかない方がよろしいかと」
「汚染って、腐敗が少しずつ広がっていくの?」
「魔物が現れなくなって久しいので、わたしもはっきりしたことは知りません。ただ魔物はその存在だけで周りを汚染すると学び舎で習いました。生き物が死に、草木が枯れ、土さえ腐ると」
「なら早く浄化しなきゃ」
二人の会話を聞いていた小さな妖精たちが動いた。
宙を駆って彼らが庭園上空を跳ねると、体に纏う光が尾を引いてキラキラと光のカーテンを織り成す。
「きれい。七色のオーロラみたい」
あまりの美しさに小鞠がうっとりする横で、オロフはオーロラを知らないのか、不気味な光だというようにたじろいでいる。
光の布が揺れて庭園を覆うと、魔物が通った汚染跡に、まるで早送りするように一気に芝生が生えた。
庭園の緑が眩しくきらめきを取り戻し、全ての植物がピンと天に向かって立ち上がる。
ただ、傾いたアーチだけは直らなかった。
「これは森喰いの魔法ですか?」
「わからないけど、この子たちって森が荒れたり、反対に育ちすぎたりしないように、いい状態してくれるんでしょ?だったら精気を奪うだけじゃなくて、元気にすることもできるんじゃない?」
光の帯がすぅっと消えたあと、妖精がよれよれとしていたため、小鞠はびっくりした。
腹の奥から発する光も弱々しく、消えかけの豆電球のようだ。
「みんな、大丈夫?」
彼らは小鞠に頷いたが、別れの挨拶をする元気もないのか、そのまま庭園を離れて宙へ飛んでいく。
「庭園を元に戻すために持てる力の全てを出し切ったのでしょう。別の場所へ精気を食べに行くのでは?」
「今度、お礼にキュラをたくさん持っていこう。ね、オロフ」
「はい――それよりコマリ様、先ほどの魔物はマチルダ様が召喚したのですね」
腰を曲げて何かを拾うオロフに図星を指されて、小鞠はつい言葉に詰まった。
「な、に言ってるの?急に出てきたんだってば」
「魔物は突然ふってわいたりしません。先ほど申し上げたように人が召喚するのです。そしてこれが、マチルダ様が魔物を召喚した証拠です」
オロフが右手を開くと、金の指輪があった。
「宝石としても使える魔法石ですが、貴族が身につけているのであれば、たいていは何か魔法がかけられていることが多いです。これまでコマリ様をお尋ねになるマチルダ様は、魔法石を身につけていたことはありませんでした。なのに今日に限って指輪をはめていたので覚えています。もちろん庭園に来るまでのマチルダ様の指にもありました。けれど先ほど外へお運びしたときには指輪はありませんでした。そして消えた指輪がここに落ちていたら……」
「指輪が大きくて指から抜けちゃったんじゃないかしら」
苦しい言い訳をしてみたが、彼はあっさりと首を振った。
「指輪から魔法石が消えているのは、魔法が発動したからに他なりません。そしてそれがなにを意味するか、わたしでもわかります。召喚魔法を石に施しておいて、指輪を外せば魔法が発動するようにでもなっていたのでしょう。明らかにコマリ様に害を成すことを目的に行われたことです。なぜ庇うのですか?」
嘘をつき通すことができなくなって、小鞠はオロフから目をそらした。
「マチルダの様子が変だったし、魔物が出てきたときはすごく驚いていたの。きっと誰かに騙されているんだわ。ちゃんと話をすればマチルダもわかってくれると思うの。だから大ごとにしないで――」
「残念だが見過ごすことはできないぞ、コマリ」
聞き慣れた声にギクとしてそちらを向いた。
傾くアーチをくぐったシモンが、厳しい顔をして近づいてくる。
後ろにテディとリクハルドが続いた。
「シモン、どうしてここに」
「コマリが執政塔から出ると、ドリスより報告を受けたエーヴァが、わたしに知らせに来たのだ。その際、マチルダの様子がいつもと違っておかしいとも聞いた」
シモンの手が伸び、小鞠はグイと引き寄せられた。
大きな手が頬を撫でてくる。
「魔物に襲われたところを森喰いに助けられたと聞いたが、どこにも怪我はないか?」
「大丈夫。わたしよりマチルダが魔物に……ドレスのスカートが溶けてたから」
「大事無い。庭園から溢れた七色の光がマチルダを清めていた。森喰いが庭園を浄化してくれたのだな。小さな妖精であるのに、このようなこともできるとは」
ぐるりと周りを見回すシモンに、あのね、と小鞠は声をかけた。
なんとかこの場を丸く収めようと試みる。
「マチルダは何か誤解をしてるみたいなの。それを解けば――」
「誤解とは?」
嘘を許さぬ瞳に誤魔化すこともできず、仕方なく本当のことを話した。
「わたしがマチルダを陥れるって、なぜか思い込んでて――オルガのこともわたしが陥れたって誤解をしているようなの」
「そうか。ではその誤解はどこから生まれたのかつきとめねばな」
シモンはオロフの手にある指輪に目をやり、不快そうに眉根を寄せた。
いつもの穏やかな雰囲気は微塵もなく、触れれば滅せられる炎のような怒気を感じる。
「魔物を召喚などと。愚か者が」
シモンが怒ったところは以前にも見たことがあるが、今日は小鞠ですら宥めることができないのではと思うほどに怖かった。
「あ、あの、みんな無事だったんだし、そんなに怒らないで……ね?」
「カッレラでは魔の類を召喚するのは大罪だ。魔物の多くは人の血肉を好むと言えば、事の重大さがわかるだろう?なによりこれはコマリを狙ってのことだ。けして許さん」
シモンは近臣たちに目を向けた。
それを受けてテディ、オロフ、リクハルドが彼を注視する。
「コマリの話からすると、マチルダが首謀者とは思えない。きっと陰から糸を引いている者がいるはずだ。黒幕を必ず見つけだせ」
シモンは小鞠の肩を抱いて歩き出した。
庭園を出たところで、マチルダが護衛騎士に腕をつかまれ捕らえられていたため、小鞠は驚いてシモンを見上げた。
「シモン、どういうこと!?」
「見過ごすことはできないと言ったはずだ。いくらコマリの願いでもきけぬ」
怒りに底光りしている青い瞳がマチルダを見据える。
マチルダは竦みあがって、すがるように小鞠を見た。
「コマリ様、わたくしは魔物が出てくるとは知りませんでした。本当です。オルガ様も牽制するだけだと」
マチルダの言葉にシモンがピクと眉を寄せた。
「オルガか。舞踏会での件でおとなしくなるかと思っていたが、懲りなかったとみえる。いつのまにやらそなたたちは繋がっていたか。で、牽制と言ったか?それは何に対してだ。コマリがそなたを陥れると、馬鹿げたことを申しているようだが、そのようなことをコマリが行う意味があるか?」
「も、もしものときわたくしやオルガ様が、シモン様の側妃となるのを防ぐために……」
「わたしは側妃を娶る気はないとはっきり言ったはずだが?」
声に凄みが増したのは、マチルダの弁明に更なる怒りを感じたからだろう。
声音の変化に気づいたマチルダは、ビクつきながらも言葉を紡いだ。
「うか、伺っております。で、ですが……わたくしもコマリ様に秘密を話されたと思い、気が動転しておりましたので、れ、冷静な判断ができなく、て――」
「ほう」
尻すぼみで声が小さくなる彼女は、恐ろしさのあまりシモンを見ることができないようだ。
真っ青になってガタガタと震えている。
張り詰めた空気に耐え切れなくなって、小鞠は間に割って入った。
「マチルダ、そのことなんだけど――シモンに話してしまって、……あの、本当にごめんなさい」
弾かれたようにマチルダが小鞠を見た。
「コマリ様が話した相手はシモン様……?だけなのですか?」
「?……ええそうよ」
「ではオルガ様は、どうして知っていたの?」
彼女を観察するように目を眇めていたシモンが冷ややかに言った。
「マチルダよ、そなたを真に陥れたのはオルガではないのか?」
シモンの言葉に混乱したらしいマチルダは、視線を彷徨わせていたが、何かに思い当たったのか、再び小鞠に尋ねてきた。
「わたくしの想う方が誰であるか、コマリ様はお調べになっていたりは……」
「いいえ、調べていないわ」
きっぱり言い切る小鞠の返事に、マチルダは喘ぐように唇を震わせて、震える手で口元を押さえた。
円らな瞳から涙が溢れだす。
「ぁ、あ、あぁあ……わたくしはなんてことを――お許しください、コマリ様……お許しください」
「その先は詮議房で明らかにするが良い。連れて行け」
シモンが無情にも騎士団の男に命じた。
「シモン様!もう二度とこのようなことはいたしません。ですから……!――コマリ様、お助けくださいっ、コマリ様、どうかっ」
悲痛な叫びをあげるマチルダに近づこうとした小鞠を、間に割って入ったシモンが背中で止めた。
「行ってはだめだ」
「コマリ様ぁ」と離れていくマチルダの声が耳に残る。
小鞠はシモンの服を握り締め背に額を押し付けた。
魔物のせいで、誰か人が死んでいたかもしれない。
知らなかった、騙された、では済まされない。
マチルダを庇うのは違うのだ。
シモンが正しい。
けれど――。
どん、と小鞠はシモンの背中を叩いた。
脳裏にマチルダと過ごした楽しい時間が蘇ってくる。
仲良しの友達と言われて嬉しかった。
そうなれたらいいと思っていた。
こんなことがなければきっと友達でいられたのに。
マチルダは、指輪に戒めの魔法が施されていると、はっきりと言って小鞠に投げつけてきた。
裏切られたと思い込んでいたにせよ、怒りに任せて制裁を加えようとしたのだ。
あのとき小鞠は確かに、マチルダに狂気を見た。
そして恐ろしく思った。
(――でも……だからってわたし……)
マチルダを見捨てたんだ。
そんな思いが胸に浮かんだ。
言葉にならない思いをぶつけるように、どんどんとシモンを叩くしかできない。
「う、うぁあー」
嗚咽を漏らす小鞠を、シモンが胸に抱きしめた。
どれだけ拳をぶつけても彼は何も言わず、辛抱強く耐えていてくれた。
涙は長い時間枯れることはなかった。