踊る愚者
アンティアが屋敷でその男を見かけたのは偶然だった。
まだ若いが度胸もあり、手を汚すことも厭わない。
しかもなかなかに見場がよく、使える男だとアンティアも知っている。
父の部屋へ入っていったため、足音を忍ばせ扉の前に近づくと、侍女が止めるように彼女を呼んだ。
「アンティア様、そのようなことをなさっては――」
「黙って。おまえは中の声が聞こえないところまで下がっていなさい」
侍女を黙らせ耳をすます。
「そうか、やっとか」
父の声だ。
「はい、侯爵様。マチルダ様が本日、王宮へ出向くのを見届けました」
若い男の声に「うむ」と頷くような父の声がする。
「何日もマチルダが動かんから何事かと思っておれば、あの異界の娘が訪問を断っていたとは。たかが駆け出しの王宮魔法使い一人が死んだくらいで、何をそう塞ぐことがある。オルガをうまくけしかけて、マチルダを唆したというのに、時間を置けばマチルダが怖気ずくと案じたわ」
「オルガ様によれば、マチルダ様は王宮魔法使いとのことを、世間に知られるのを恐れているようです。マチルダ様は恋人のことをコマリ様に話しておいでですし、オルガ様はそれを上手く利用して、マチルダ様がコマリ様をお恨みするよう仕向けたとか」
「ほう、あの男好きにしては上出来ではないか。思ったより役に立つのか。いや、それよりも、おまえに良いところを見せようとしたか。――どうだ、オルガはすっかりおまえに夢中であったか?」
「舞踏会以降、皆がオルガ様を敬遠なさっております。おそらく自尊心がズタズタだったのでしょう。ですから、味方だと語ったわたしを簡単に信じたのですよ。あとはうまく導けばいいだけです」
「敬遠とな?……ああ、舞踏会の毒薬騒ぎの件か」
「さようでございます。犯人やも知れぬと噂が立ったせいで、大勢いた取り巻きがすべていなくなったようです」
「所詮はコントゥラ家の権力に群がっていただけか。でなければあのように生意気な娘、誰も相手にせんだろうな」
「侯爵様はもしや誰が犯に――」
男の声に被せるように「さあな」と父が言ったのがわかった。
「誰の仕業かは知らぬが本当に都合の良いことをしてくれた。おかげでコントゥラ家の力を削ぐことができたし、側妃候補から外れて腐っていたからこそ、オルガをああも容易く駒とできたのだ。今日、事が起こればコントゥラ家だけでなく、ミッコラ家も終わりだ。マチルダも側妃候補から消える。あとはアンティアを側妃として立てるための根回しをすれば良い。――オルガもマチルダも、まったく愚かな娘たちよ。己で首を絞めているとも気づかぬとはな」
ククと喉を鳴らしたような父親の笑い声が聞こえた。
ひとしきり笑った後。
「ところでコントゥラ子爵はどうしておる?いまは不抜けていようが、いきなり娘に近づいてきたおまえを、怪しむ頭は残っていよう。あやつはオルガほど簡単ではないぞ」
「ご心配には及びません。わたしは以前よりオルガ様に懸想していた、隣国リキタロの貴族として近づいたのです。コントゥラ子爵が気になるのは、爵位より財力でしょう。カッレラで栄華を望めなくなっただけでなく、このまま落ちぶれてゆくかもしれないのですから。それに隣国の貴族のことを調べるには手間取りますし、実在する貴族の名を語っております。まだわたしが偽者とばれてはいないかと」
ギシ、と椅子の鳴る音がした。
「うむ、マチルダが王宮へ向かったとなれば、もう事は動いておるし、もはやどうにもなるまいか。首尾よく計画が成されれば、長年の目の上の瘤が消える。我がカーパ家の天下だぞ」
「はい、侯爵様」
ここまで話を聞いたアンティアはそっと扉の前を離れ自室に戻った。
「なんてこと……」
思わずもらした呟きに侍女が気遣わしげな目を向けてくる。
「どうかなさったのですか?」
「呼ぶまで下がっていなさい。しばらく一人にして」
ぴしゃりと言ったアンティアの様子に、侍女は戸惑いながらも部屋を出て行った。
アンティアはそれすら気づかないように、テーブルへ目を向け考え込んでいた。
* * *
執政塔の客室へ向かう小鞠が、階段でよろけたところをオロフが支えた。
窓から差し込む日差しに白い石階段が鈍く煌き、天井までを明るく照らす。
オロフに腹を抱えこまれ、ぷらんと足が浮いていた小鞠は、階段へ降ろしてもらうと、照れたように笑った。
「ありがとうオロフ。助けてくれなかったら顔面を階段に打ち付けて、鼻血を噴いてたところだった」
「いえ。それより何かに躓かれたのですか?」
「ううん、ちょっと腰が――」
いやに真剣な顔をしていたオロフが、「腰?」と表情を変えた。
(あっ、わたしの馬鹿)
あの雷の日から、まるで箍が外れてしまったかのように、シモンは小鞠を求めてくるようになった。
小鞠も拒むことはせず、むしろ同じように求めていた気がする。
事故のことを考えて塞ぐ気持ちを、思い出す懐かしい人たちを、一時でも忘れたかったのかもしれない。
シモンは小鞠のそんな気持ちをわかっているようだった。
優しく包み込んで甘く蕩けさせ、一つになって溶け合うのではと思うほどぐちゃぐちゃにする。
禁欲前に、彼のお願いをきく約束をしたと、恥ずかしいこともさせられたが、かえってそれが興奮を煽るのだということも、彼女は知ってしまった。
肌を合わせればシモンに散々鳴かされる。
小鞠はとっくに彼色に染め上げられていて、昨夜などは自分から彼を欲しがってしまった。
いつも数え切れないほどの口づけと愛撫で、時間をかけてトロトロにされるが、昨日はそうやってゆっくりと昂らせられると、物足りないようなじれったさを覚えた。
シモンも小鞠が焦れているのをわかっていながら、いま一歩で緩めてしまう。
もどかしくて、体を疼かせる熱に抗えず言ってしまった。
――シモン……もっと……。
甘えてねだるような声が自分のものだと遅れて気がついた。
小鞠の初おねだりに大喜びしたシモンは、それまでの優しさから一転して、エロさ全開のオスになってしまった。
「コマリ様?」
昨夜のことを思い出していた彼女は、オロフの声に我に返り、赤くなりながら首を振る。
「うん、ええと、ちょっと踏み外しただけよ。それよりなに?怖い顔して」
「いえ、以前も似たようなことがありましたので」
「ああ、駅の階段で落っこちかけたっけ」
とたんにエーヴァたち侍女が顔色をなくした。
「コマリ様、そのようなことを笑ってお話にならないでください。もっとご注意くださいませんと」
侍女たちはヴィゴのことで落ち込んだ様子を見せなかった。
けれどサデがいないことを寂しがっているのがわかった。
そして軽傷だったクレメッティが、元気になったと教えられたとき、一緒になって喜んでいたのを見て、本当は自分と同じくらい事故のことを気にしていたのだと感じた。
なのに彼女らはいつもどおり振る舞ってくれていたのだ。
見習おうと思った。
「はぁい、気をつけます。ほらマチルダが待ってるし早く行こう」
小鞠の笑顔につられて周りも笑う。
執政塔に移り、小鞠が客室に入ると、マチルダはいつものようにソファに座って待っていた。
「コマリ様にはご機嫌麗しく。お久しぶりです」
「こんにちは、マチルダ。ずっと訪問を断っていてごめんなさい。ここの所、ちょっと体調が優れなかったから」
王宮で起こった事故のことを言えるはずもなく誤魔化すと、いいえとマチルダは相槌を返すだけだった。
いつも面にある、清らかな微笑みが今日は浮かんでいない。
何か様子がおかしい気がしてマチルダを見つめれば、避けるように顔を背けられた。
「もう少ししたらエーヴァがお茶を持ってくると思うから。あ、それから今日はジゼルは来られないのよ。ドレスのお仕事の方が忙しいみたいで、わたしもしばらく会っていないの。また三人でお茶会をしたいのだけど」
「はい。いえ、あの」
思い切ったように顔をあげたマチルダの唇が、何かを言いかけて動いた。
しかし声は出ないまま、また俯いてしまう。
「どうしたの?何か心配事?それでわたしに会いたいって連絡をくれてたのね」
「ち、違います。そうではなくてお話が……」
「話?」
「はい、大事なお話ですからどうか二人きりに」
「いまも二人よ。ここでは駄目なの?」
「部屋の外に侍女や護衛がいます。もしも聞かれたり、話の途中で邪魔されたくありません。ですから塔から出て、できれば人払いを」
最初小鞠は眉を寄せたが、マチルダの必死な様子によほどのことだろうと、結局は頷いた。
何か思い詰めているようだし、ここは言う通りにするほうが、彼女も安心して「大事な話」とやらもできるだろう。
先日より訪問伺いをされているため、今日のマチルダの訪問のことは、既にシモンも知っている。
彼はヴィゴとクレメッティを襲った犯人のことを懸念して、訪問を受けないで欲しかったようだが、小鞠が願うと、護衛をつけることと客室で過ごすという条件で許してくれた。
だから塔を出るのはシモンとの約束を破ってしまうことになるが、思い詰めたマチルダが気にかかって、放っておけなかった。
「じゃあ涼みがてら、王族塔の側にある庭園に行こっか。泉があるのよ」
頷くマチルダを伴って部屋を出ると、廊下で待っていたオロフが進み出た。
「マチルダ様はもうお帰りですか?」
「いいえ、これから庭園に行こうと思って」
「庭園ですか?しかし塔の外へいらっしゃるのは――」
「庭園の泉に涼みにいくの。子どもの頃、暑い日によく遊んだってシモンに聞いたのよ。泉の水がとても気持ちいいんだって」
思案顔になるオロフを置いて、小鞠はマチルダに「行きましょう」と促す。
マチルダの願いどおり二人きりになるには、強引に押し切るしかない。
慌ててオロフと2名の護衛騎士が追ってくるのがわかった。
ドリスがスサンに何事かを言って離れたのは、エーヴァに庭園へ行くと知らせにいったのだろう。
それとも水遊びで濡れた手足を拭く布を取りに行ったのかもしれない。
王族塔から庭園まではそう遠くない。
なので王族塔の隣にある執政塔からも近かった。
庭園は元々王族が外で茶会を開くために作られたらしい。
小鞠からすれば王族塔に充分な広さを持つ中庭があるのに、なぜわざわざ庭園まで造ったのかよくわからなかった。
庭園のことを話してくれたシモンに疑問をぶつければ、
「外での茶会は中庭ではなく庭園でするのが普通だろう?」
と、首を傾げられて答えは得られなかった。
きっとこの世界の庭園とは、外でのお茶会専用の贅沢な庭をいうのだろう。
ほどなくして庭園に着いた小鞠は、入口で足をとめ背後を振り返った。
「皆はここで待っていて。呼ぶまで来ないでね」
「は?いや、ですがコマリ様」
渋るオロフに首を振る。
「女の子同士のお話をするのに、周りに騎士が立ってちゃ盛り上がらないでしょ。スサンもここにいるのよ。内緒話だから」
従者たちに背を向けてマチルダと二人、蔦が絡まるアーチのトンネルを抜け庭園に入った。
カッレラ王国に来てすぐ、花が咲き乱れる時期にここへ来たが、緑溢れる夏の時期も青葉が清々しい。
庭園の中ほどに滾々と清水が湧き出る泉があり、清涼な水音が暑さをやわらげてくれている気がする。
色とりどりの玉石を敷いた浅い水路を見つけ、ここが幼いシモンが遊んだところだろうと小鞠は近づいた。
人工的に土を掘り下げ、腰を降ろして水路に足を浸せるようになっている。
春に来たときは花びらが流れていて、深さはわからなかったのだ。
「マチルダ、ここで足をつけるのだと思うわ」
いそいそと靴を脱ぐ小鞠にマチルダがぎょっとした。
「こ、コマリ様?本気でこのようなところに入るのですか?」
「え、だめ?」
「ドレスが濡れてしまいます」
「こうやって捲くっちゃえばいいじゃない」
スカートをぐいと持ち上げると彼女は絶句してしまった。
この世界じゃ、足を見せるのはそんなにはしたないのだろうか。
まあいいやとばかりに小鞠は水路に入った。
冷たい水が足首を撫でていく。
「わー気持ちいい。マチルダもやってみれば?」
「いえ、わたくしは……。あ、あのそれよりコマリ様」
「ああうん。大事な話って言ってたわよね」
水遊びをしてマチルダの気持ちをほぐしてからと思ったが、よっぽどの話らしい。
小鞠は水路から上がって裸足のまま芝生を歩き、木陰に移動すると腰を降ろした。
マチルダはなぜか離れた場所に座る。
よそよそしい態度をとられているせいか、それが心の距離に思えてへこんたが、めげずにマチルダに笑顔をむける。
「ちゃんと聞くから話して。何かあったんでしょう?」
「なにかというようなことは――」
「でもさっきからずっと思い詰めた顔をしているわ」
マチルダが視線を泳がせた。
膝で握り締めた手の指に、きらりと金の指輪が光っていた。
嵌めこんだ石に星が流れている。
「あ、魔法石の指輪ね」
「え?あ」
わたしの腕輪も、と言い掛けた小鞠は、マチルダが指輪を隠すように押さえたため、言葉を飲み込んだ。
本当にどうしたんだろう。
「そ、その……魔法石は異世界にもあるのですか?」
「こんなにきれいで不思議な石はわたしの世界にはないわ。ほらわたしの腕輪。この魔法石のおかげでマチルダと言葉が通じてるのよ」
マチルダから話しかけてきたため、取っ掛かりにしようとしたが無理だった。
そうですか、との言葉のあとに沈黙が流れる。
こうなったらマチルダが話をしたくなるまで待とう。
時間がかかるだろうと腹を決めて、小鞠は視線をめぐらせ庭園を眺めた。
そよそよと頬を撫でる風が、他より冷たく感じるのは、泉があるおかげだろうか。
足が乾いたため、小鞠が靴を履いていると、
「コマリ様」
と、マチルダがぽそりと話しかけてきた。
「なあに?」
「わたくしに慕う方がいることを誰かに話しましたか?」
思いもよらなかった質問に意表をつかれた。
そしてシモンに話してしまったとうろたえる。
「え……っと、あ、あのそんな気はなかったんだけど、シモ――」
「やっぱり話していたのですね」
言葉尻に被せるように言ったマチルダの目に、涙が盛り上がったため小鞠は驚いた。
「秘密にしてくださると信じてお話しましたのに。優しい方だと、これからも仲良くしたいと思って……なのに、なんてひどい……」
「マチルダ、ごめん。わたし――」
「謝罪の言葉でわたくしを丸め込むおつもりですか?簡単に秘密を打ち明けた愚か者ならば、また騙されると?」
「騙すって……なにを言ってるの?また?」
「とぼけないでください!わたくしの秘密を握ったと笑っていたくせに。オルガ様の次はわたくしを陥れる気でしょう」
「オルガ?どうして急に彼女がでてくるの?」
「どんな手を使うのですか?わたくしが王宮魔法使いと恋仲だと、貴族たちに言いふらしますか?」
「えっ!?王宮魔法使いが恋人なの?」
驚く小鞠に、マチルダは苛立った様子で声を荒らげた。
「白々しい。身分の違う彼とのことを広めて、わたくしの伯爵家の娘としての将来を潰すつもりでしょう?オルガ様の未来を潰したように」
怒りの浮かぶ瞳に、ギっと見据えられて一瞬言葉が出なかった。
なにを言ってるのさっぱりわからない。
マチルダを陥れるだなんてどうしてそんな事を思ったのだろう。
彼女の恋人が王宮魔法使いだということも、いま初めて知ったというのに。
「待って、マチルダ。何か誤解をしているわ」
「そうはさせるものですか」
聞く耳を持たないマチルダが、魔法石をはめ込んだ指輪を小鞠に見せ付けた。
ぎらぎらとした眼差しに狂気が見えた気がした。
「この指輪には心に巣食う悪を戒める魔法がかけられています。なにも疚しいことがないと言うのなら、恐れることはないですよね」
彼女は指輪を引き抜くと小鞠に投げつけた。