#3
昨日彼女にフラれたこと。お気に入りのペンを失くしたこと。苦手な顧客の接待を任されたこと。給料日が遠いこと。
コンディションは最悪だ。憂鬱の材料ばかり荷台に積まれていく。人生っておかしくないか。イージーモードの奴なんて本当に存在するのか。もしいるとしたら……そいつは才覚があるというより、自分の駄目な部分に気付いてないだけじゃないか。
知らない方が得することも多い。猪突猛進型の奴は失敗しても振り返らない、だから傷付かない。
いっそ大馬鹿になりたかった。そうすればこんなうじうじ悩まないで、目の前のことだけに集中できたはずだ。
物怖じせず自信いっぱい。輝いている同期を見ると、何だこいつ、と思う。何を食って生きてきたらそんな前向きになれるんだ。なんて……また僻みっぽい愚痴ばかり。毎日疲れた顔してる、と言ってドン引きしていた彼女の言葉も頷くことができた。
彼女にフラれた、ぐらいのことで、「何で生まれてきたんだろう」と考えるのは病気だろうか。
そこまで遡る必要はないと頭では分かっている。
母に言ったら雷が二発は落ちる。誰が腹痛めて産んでやったと思ってんの! と怒鳴り散らすだろう。ちなみに、誰も産んでくれなんて言ってない、という暇はない。
母は元助産師だから、生命の誕生に何度も立ち会ってきた。そして産まれた直後に息を引き取った赤ん坊も見ている。だからこそ命の尊さを知っている。
母は自分の仕事に誇りを持っていて、自分もそんな母を誇りに思っている。とは言え命の責任をとる勇気はなかったので、医療業界ではなく食品メーカーの商社に入った。これだって必死に就活して勝ち取った職種だから誇りを持たなければいけない。
文句を言ってる暇があるなら少しでも仕事を片付けて早く帰れる努力をしよう。
何事も全力であたるのは疲れるが、時間が経つのはいつもより早かった気がする。ふらふらしつつ、最寄り駅から徒歩で帰宅することが増えた。
これは健康の為だ。それに夜風にあたりながら川の音を聴くのは心地いい。一日のあれこれがリセットされる。
たまに川沿いで出逢った女性のことを思い出しもしたが、あれ以降は一度も会わなかった。時ばかり流れ……再び、地響きをたてる出来事が訪れる。
それは本当に突然だった。
「聞いてない! ……俺は帰るぞ、ちとせ」
「ちょっとちょっと、待ってよ! もうすぐ来ちゃうんだから!」
ある日、別れたばかりのちとせから予定が空いてるか連絡がきた。
まだ傷は癒えてないし、無視してやっても良かったが、最後の情から約束の居酒屋へ会いに行った。すると告げられた内容は予想の斜め上をいくもので。
「私の知り合いで心理カウンセラーの人がいるの。別にお金とかはとらないから、軽く悩みを聞いてもらってよ。本当に良い人だから心配しないで」
「俺が鬱かなんかだと思ってんのか? ていうか、新たな悩みをつくったのはお前だろ!」
「そういうわけじゃないよ。ただ私は、……私じゃ和成の力になれないって思ったから」
店内の一角で軽い口論が勃発しようとしていた、その時だった。
「あの、こんばんは」
自分達が居るテーブル席の前に立った女性がいた。
ちとせは彼女を認めると安心したように顔を緩ませ、元村さん! と立ち上がった。彼女が件のカウンセラーのようだ。
「久しぶり、ちとせちゃん。……それと初めまして。元村と申します」
モデルのような長身に、整った顔立ち。清澄な高い声。
腰まで届く長い髪は艶やかで、初対面の人間なら誰もが一度は凝視してしまいそうだ。ひと言で言って、秀麗。ちとせとの口論も忘れ、見惚れてしまった。




