#1
あの笑顔は今でも鮮明に思い出せる。幼い自分が生まれて初めて見た、とても美しい笑顔だった……。
この不思議な体験を経て、自分は帰国した。あれだけ高揚した出来事も、記憶と共に掠れ薄れていく。子どもの勘違い、という線が強まるほどには成長した。
小石の姿は変わらない。その後は一度もドイツへ行く機会がなく、目まぐるしい十代を過ごして社会人になった。
悲しいことに、もう稲穂の光景ぐらいしか思い出せない。十五年もの時が流れると、思い出は少なからず美化される。精神がすり減る独り身の生活の中では、それこそ宝石のような眩い体験だった。
「ごめん、和成。……別れてほしいの」
「えっ!!」
そう。なけなしの精神をこそげ落とす、現実生活の中では……いっそ馬鹿馬鹿しいと呆れてしまうほど冗談じみた話の方が輝きを増す。縋りたくなる。
「別れ……って……いやいや、何で!?」
「職場の先輩ですごい素敵な人がいてね……。気付いたら和成より、その人のことばっかり考えるようになってたの。それって誠実じゃないじゃん? だから浮気になる前に別れた方がお互いの為かなって思って」
なるほど。それは一理あ……ねーよ!!
「待ってって、いくらなんでも突然過ぎるだろ……!」
「でも好きになっちゃったんだもん! そもそもさぁ、私達も飲み会で皆に強引に持ち上げられて付き合っただけでしょ! お互い好きで付き合い始めたわけじゃないし!」
あ、それは一理ある。
パニックに陥らないよう、最近研修で教わった落ち着きを取り戻す呼吸法を密かに実施する。
糸原和成は半年前に晴れて新社会人となり、大学卒業前に付き合い始めた彼女とレストランで食事をしていた。その最中だった。
ところが彼女から言い渡された台詞が衝撃的すぎた。納得できるようなできないような、コインのようにひっくり返る話を聞かされ、すっかり絶望の波に飲まれてしまった。




