#2
彼女は苦痛に顔を歪め、お腹を押さえた。
遅いくる混乱の中、何故か急に頭の一部分が冴え渡った。泉純のかつての言葉が蘇る。
川の近くで出産……。
ふと、柵の向こうの川が目に入った。夜の闇が濃いせいで水面の輝きは視認できない。ただ巨大な穴がぱっくりと口を開けているようだ。
わずかに青ざめたが、いやそんな馬鹿な、と首を振った。
妄想に浸ってる場合じゃない。陣痛なら、すべきことはひとつだ。
「ち、ちょっと待ってくださいね! 救急車……!」
再びスマホを取り出し、119番に電話しようとした。しかしその瞬間、あれ、陣痛で救急車呼んでいいんだっけ、と別の思考が挟まれる。いつだったか、母が何か言っていた。出産までは時間がかかるから、できれば担当医に指示を仰ぐとか、家族に言って車で来てほしいとか……。
けど痛がってる人を前に、どうしても救急車しか思いつかない。番号まで打ち込んだところで、俯いていた彼女が顔を上げた。
「あの、すいません……ここに電話……タクシーがくるので」
彼女のスマートフォンを手渡される。そこには電話番号が表示されており、もう相手には繋がっているようだった。
「あ、もしもし! ええと、すぐにタクシーお願いしたいんですが! はい、陣痛がきてしまったらしくて」
ここ数週間で一番テンパった電話だった。仕事でもここまで必死になにか伝えようとしたことはないかもしれない。
その後は正直何を言ったのか思い出せないけど、何とか住所を伝えて、タクシーが来るのを待った。一分が酷く長く感じた。
ここだけ世界が止まってしまったようだった。どうしようもない焦燥との闘い。彼女の肩を支え、雨にぬれないよう傘を翳す。痛がっている彼女の顔を見たらこっちまで痛くなってくるし、本当に無力感に苛まれた。
「大丈夫です。大丈夫……!」
そんな言葉しか掛けてあげられないけど……ただ、祈った。
どうか彼女を守ってください。
ポケットの中の石を取り出したが、露で滑って手から落としてしまった。小さな石は何回かバウンドし、柵を越えて川の下に落ちてしまった。
けどそれとほぼ同時にタクシーが到着した。運転手のひとが降りてきたときは、もう神様が降臨したのと同じぐらいの感動、安心感があった。女性にとって本当に大変なのはここからだと思うけど。
何とか女性の指定した病院へ辿り着き、運ばれていくところを見守った。今回のことで陣痛タクシーというものがあるのを思い出した。そういえば昔母が、陣痛で救急車が出動すると大変なのよ、とこぼしているのを聞いたことがある。
自分と関わりがないから気付かなかっただけで、色々助かるシステムがあるんだな……怖いけど、勉強になった。
「高羽と申します。病院まで妻を送ってくださって、本当にありがとうございます!」
後から女性の旦那さんもやってきて、御礼を言われた。旦那さんは仕事中で、女性は買い物に出掛けた帰りだったらしい。近所だからひとりでも大丈夫だろう、と思ったら予定日よりずっと早い陣痛に襲われたそうだ。
その日はすぐに帰ったけど、後日改めて女性から連絡がきた。




