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「知成。お母さんは昔ここですごい体験をしたことがあるのよ」
まだ小学生の頃、母に連れられてドイツを訪れたことがあった。見るもの全てが新鮮で、気温も空気も慣れ親しんだ日本とはまるで違った。髪の色、瞳の色、言語、食べ物。空の色も水の色もどこか違う気がしたけど、あれは子どもの頃の記憶だからあまりアテにならない。
人が賑わう観光地を周り、最後に連れられてきたのは何の変哲もない川だった。慣れない場所で疲れきっていた自分には良かったが、その辺りは民家もない荒野で、人ふたりが並んで歩くのがやっと小さな橋が架かっているだけ。それもレンガ造りで可愛らしいが、汚れているのでみすぼらしいとも言えた。
その川の前へ行き、母は言った。
「お母さん、ここでお産のお手伝いをしたことがあるの」
「おさん?」
「女の人が赤ちゃんを産む時のお手伝い、ってこと」
母はにっこり微笑む。でもこの辺りに家はないし、もし本当なら川で誰かが赤ちゃんを産んだ、ということになる。
そんな馬鹿なと小学生の自分でも思ったが、母は冗談を言っているようには見えなかった。それ以上深く語ろうともせず、少し屈んで濁った川の水面を眺めている。
母は当時日本の病院に勤める産婦人科医だった。




