目覚め
目を覚ましたとき、最初に感じたのは匂いだった。
乾いた薪の香りと、どこか甘く焦げた薬草の匂い。それが混ざり合い、鼻の奥をくすぐる。
次に、音。
ぱちり、ぱちり、と規則的に弾ける火の音。遠くで、風が窓を撫でている。
そして、温かさ。
毛布に包まれている。柔らかく、けれど重みのある布。指先を動かすと、ちゃんと感覚があった。
生きている。
ゆっくりと目を開ける。
天井は高く、濃い色の梁がむき出しになっていた。古い木造の家らしい。けれど埃っぽさはなく、むしろ整いすぎているほど整っている。
体を起こすと、そこは広い一室だった。
壁一面を覆う本棚。革装丁の分厚い本から、見たことのない文字で書かれた巻物まで、ぎっしりと詰まっている。背表紙の金の箔押しが、暖炉の火を受けて鈍く光っていた。
天井からは乾燥させた薬草や、奇妙な形の鉱石が吊るされている。窓辺には透明な瓶が並び、青や紫の液体が静かに揺れていた。
どれも現実離れしているのに、不思議と調和している。
部屋の中央には大きな机。黒い木でできていて、表面には細かな紋様が彫り込まれている。その上には開きかけの本と、羽根ペンと、まだ乾ききっていないインク。
「起きた?」
声は、暖炉のそばから聞こえた。
あの人だ。
黒い帽子は脱いでいたが、長い黒髪が肩に流れている。火の明かりに照らされ、その横顔は静かに揺らいでいた。
「ここが……」
「私の家。正確には、私が管理している場所、かな」
その人は立ち上がり、こちらへ歩いてくる。足音は驚くほど静かだった。
「痛みは?」
腹部に手を当てる。傷はない。服だけが裂けている。
「……ありません」
「そう。なら成功だね」
成功。
その言葉の響きに、わずかな寒気を覚える。
改めて部屋を見渡す。壁の一角だけ、他と違う場所があった。黒い布で覆われた扉。そこから、かすかな冷気が漏れている気がする。
視線に気づいたのか、その人はわずかに笑った。
「あそこは今は気にしなくていいよ」
今は。
その含みのある言い方に、胸の奥がざわめく。
「君の部屋は上だ。しばらくはここで暮らしてもらう。衣食住は保証しよう」
「どうして……」
助けたのか。
どうして僕なのか。
問いは最後まで形にならなかった。
その人は、ほんの少しだけ目を細める。
「諦めていなかったから」
それだけだった。
暖炉の火が揺れる。
外では、まだ雪が降っているのだろうか。ここは町外れの森の奥だと、あとで知ることになる。普通の人間は辿り着けない場所。地図にも載っていない家。
けれどあの日、僕は確かに辿り着いた。
――いや、拾われたのだ。
「名前は?」
不意に問われる。
そういえば、まだ名乗っていなかった。
僕が答えると、その人は小さく頷いた。
「私は――」
名を告げるその声は、どこか遠いものを思い出すようだった。
「魔術師だよ。今はそれで十分」
そう言って、柔らかく微笑む。
その微笑みは温かいのに、どこか決定的な距離を感じさせた。
暖炉の火が、ぱちりと弾ける。
その音が、やけに大きく響いた。
この家は温かい。安全だ。
けれど同時に、何かを隠している。
僕はまだ知らない。
この家に足を踏み入れたことが、
救いなのか、それとも――別の何かなのかを。




