プロローグ
「――大丈夫?」
あの日のことを、僕は忘れない。
雪は、めったに降らない町だった。だからこそ、その白さは異様だった。音を吸い込み、匂いさえ奪い去るような、静まり返った世界。
僕は大きな木の根元に倒れていた。
腹部を押さえた手の下から、温かいものが溢れ出していた。指の隙間を縫って、赤い血が雪の上へと落ちる。純白を侵すその色は、やけに鮮やかで、どこか他人事のように綺麗だった。
刺されたのだ、と理解するのに時間はかからなかった。
どうして、という疑問は浮かばなかった。痛みも、もう遠い。代わりに、じわじわと冷たさが体を支配していく。指先から感覚が抜け落ち、世界の輪郭がぼやけていった。
――ああ、僕は死ぬんだ。
幼いながらも、それだけははっきりと分かった。
視界の端が暗く閉じていく。呼吸は浅く、頼りない。もうすぐそこまで、死が歩いてきている。
そのときだった。
「大丈夫?」
声が、降ってきた。
雪よりも柔らかく、けれど確かな温度を持った声。
返事をしようとした。けれど瞼は凍りついたように開かず、唇は動かない。喉の奥で、音にならない声だけが震えた。
それでも、その人は言った。
「分かったよ。もう大丈夫だから、安心して」
どうして分かったのかは分からない。
けれど、確かに通じていた。
次の瞬間、体が光に包まれた。
それは眩しいほどではなく、春の日差しのように穏やかな光だった。凍えていた皮膚に熱が戻る。裂けていた傷口が、内側から縫い合わされるように閉じていく。
血は止まり、痛みは消え、壊れていた何かが、確かに元へと戻っていった。
やがて、瞼が持ち上がる。
初めて、その人の姿を見た。
黒い帽子。黒い外套。雪景色の中で、その姿だけが夜のように際立っている。俗に言う“魔術師”の装いだった。
けれど、芝居じみた滑稽さはなかった。
美しく、華やかで、繊細で、気高い。
そして、ほんの少しだけ――悲しそうな人だった。
「君は、まだ諦めていないよね?」
静かな問い。
僕は必死に喉を震わせた。
「……もちろん、です」
かすれた声が、雪の中に落ちる。
その人は、わずかに目を細めた。
「やっぱりね。多分、行く当てもないでしょう?」
否定はできなかった。
「私の家に来る?」
急激に体力が戻った反動か、強い眠気が押し寄せてくる。世界が再び白く霞む。その中で、僕は首を縦に振った。
「なら、同意は得られたね」
その人は微笑んだ。
「――うちにいらっしゃい」
その言葉を最後に、僕の意識は闇へと沈んだ。
けれどそれは、死ではなかった。
あの日。
雪の中で出会った魔術師。
あれが、僕の人生を変えた最初の日だった。




