1 六畳一間のアンコール!
六畳一間の部屋は、時間が止まっていた。
昼でもカーテンは閉じられ、薄暗い空間にあるのは、最低限の生活用品と、過去の残骸だけだ。
床に転がる空のペットボトル。
壁に貼られた、剥がれかけのライブポスター。
それは次のツアーを告知するはずだったもので、もう使われることはない。
姉――ユイは、ベッドの上で天井を見ていた。
スマホも触らない。テレビもつけない。
ただ、時間をやり過ごすだけの姿勢で。
「……金、あとどれくらいだっけ」
独り言みたいに呟いて、ため息を吐く。
貯金を切り崩して生きる、完全なニート生活。
昨日も、今日も、明日も、特に予定はない。
その部屋のドアが、ノックもなく開いた。
「姉ちゃん」
僕が声をかけると、姉はちらりとこちらを見ただけだった。
「なに。説教なら帰って」
「違う」
僕は、肩に提げていたバッグを床に置いた。
ずしりと音がする。
「……それ、なに」
「衣装だけど」
姉の視線が、はっきりとバッグに向いた。
その目に、ほんの一瞬だけ光が戻る。
「は?」
僕は黙ってファスナーを開けた。
中から取り出したのは、ステージ用の衣装だった。
照明を浴びることを前提にした、生地とライン。
六畳一間には、まったく似合わない代物。
姉は、しばらく何も言わなかった。
「バカじゃないの」
ようやく出た言葉は、それだった。
「私、もうアイドルじゃないんだけど」
「知ってる」
「じゃあ、なんで」
「もう一回やって」
姉が、ゆっくりと起き上がった。
「……何を」
「アイドル」
姉は鼻で笑った。
「ここで? この部屋で?」
「今はな」
僕はスマホを取り出し、机の上に置いた。
簡易スタンド。安いライト。
さっき、コンビニで揃えた即席の機材。
人気アイドルだった姉にとって屈辱かもしれないけど、今は我慢してもらいたい。
「ネットでやる。ライブだ」
「誰が見るの」
「見るやつは見る」
姉は、僕をまじまじと見た。
その視線には、呆れと困惑と、ほんの少しの期待が混ざっている。
「……おバカな弟よ」
とても低い声だった。
「私はもう追放されたんだよ」
「知ってる」
「もう、戻る場所もない」
「だからこうして作っているわけだ」
沈黙が落ちた。
六畳一間。元トップアイドルと、無謀な弟。
姉はしばらく黙り込み、それから小さく笑った。
「……最悪だ」
そう言って、衣装に手を伸ばす。
「責任取れる?」
「取る」
「途中で逃げたら?」
「逃げない」
姉は立ち上がり、衣装を抱えた。
「着替えるから、出て行って」
◇◇◇
ライトを点けた瞬間、六畳一間の空気が一変した。
白い壁に反射した光は柔らかく、けれど逃げ場がない。天井も床も近く、少し身じろぎするだけで身体が世界にぶつかる。ここは本来、人が生活するための箱であって、歌ったり踊ったりする場所じゃない。
それなのに。
僕はスマホのカメラを姉に向けていた。
配信中の画面が表示されているが、同時接続者数はまだ0人。
そんななか姉は衣装の裾を指で摘み、軽く息を吸った。
六畳一間の空間を支配することくらい、姉にとっては容易かった。
音を立ててはいけないと思って、息を呑むこともできずに、僕はただ呼吸を止めていた。
姉の姿勢が変わる。
背筋が伸び、顎がわずかに上がる。
視線はスマホのレンズを“見る”のではなく、その奥――もっと遠くを捉える。
ここに観客はいない。
椅子も、客席も、ざわめきもない。
あるのは、安いライトと、古いスピーカーと、スマホ一台。
だが姉は、それを一切気にしなかった。
音源が流れる。軽く、薄く、頼りない伴奏だ。
それを合図に、姉の足が一歩、前に出る。
床が軋む。ボロいアパートの床だ。
ライブハウスの頑丈なステージとは違う。
それでも、姉は踏み込む。
歌い出し。
声が、狭い部屋に満ちる。
マイク越しではあるが、声はまっすぐだった。
加工も誤魔化しもない、生の声。
音程は正確で、息の使い方が異様にうまい。
狭い空間だからこそ、声の輪郭がはっきり分かる。
姉は歌いながら、身体を動かす。
大きな振りはできない。腕を広げれば壁に当たる。
だから、動きは最小限だ。
肩、腰、首、視線。
ほんの数センチの差で、印象を変える。
――それができる。
指先が止まり、視線が切られる。
その一瞬の“間”に、意味が生まれる。
スマホの画面に、コメントが流れ始めた。
最初はゆっくり。
「なにこれ」「偶然来た」「かわいい」
姉からはコメントの流れは見えていない。
サビに入る。声量が上がる。
同時に、身体の軸がさらに安定する。
六畳一間が、狭く感じられなくなる。
ここは部屋じゃない。ここはステージだ。
姉は大きく微笑んだ。
微笑みって普通は小さいだろ?
でもアイドルの微笑みは大きいんだ。
コメントの流れが速くなる。
「うま」「本物」「誰?」「大城ユイじゃね?」
姉を知っている人もいる。
踊りが激しくなる。
足を踏み替え、腰を切り、身体を回す。
壁ぎりぎりまで寄り、また中央に戻る。
――上手すぎる。
それは才能という言葉では足りない。
何度も、何度も、何度も、
大勢の視線に晒され続けた人間の動きだ。
息が上がる。だが、歌は乱れない。
乱れたところで、乱れたとは思わせない。
曲の終わり。最後の音が切れる。
一瞬の静寂。
姉は、肩で息をしながら、レンズを見る。
その目は、はっきりと誰かを捉えている。
「……おい。どうだ」
誰に向けた言葉でもない。
それなのに、画面の向こうが一斉に反応する。
コメントが、爆発的に流れる。
「アンコール!」「アンコール!」「アンコール!」
すごい速度のアンコール。
そのアンコールに音はない。
六畳一間に響かない。
「アンコールだってよ」
「最高じゃんね」
次の曲に入る。
止まらない。止まれない。
六畳一間の空間で、
追放された元アイドルが、
たった一台のスマホを前に、
誰よりも視線を集めている。
ここにはステージも、照明も、歓声もない。
それでも。
――アイドルは、ここにいる。




