第七話
ガルディア帝国の皇城、「黒竜宮」。
その巨大な門が重々しい音を立てて開かれた。
セレス王国からの使節団を乗せた馬車が、石畳の上を進んでいく。
窓から外を覗いていたジェラール王太子は、眉間に深い皺を刻んでいた。
「フン……殺風景な城だ。花壇の一つもないとは、やはり野蛮人の住処だな」
隣に座る聖女リリナも、ハンカチで鼻を覆いながら同意する。
「ええ、そうですわね。なんだか空気も乾燥していますし……お肌に悪そうですわ」
彼らは強がっていたが、その表情には隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。
長旅の疲れだけではない。慢性的な栄養不足によるものだ。
ジェラールの頬は少しこけ、リリナの自慢の金髪も以前ほどの艶がない。
馬車が中庭に止まり、扉が開けられる。
降り立ったジェラールは、まず皇帝に対して威厳ある第一声を発しようと胸を張った。
だが。
「――くん?」
挨拶よりも先に、鼻が反応してしまった。
城の中庭に充満している、ある強烈な「匂い」に。
「な、なんだこの匂いは……?」
それは、今まで嗅いだことのない香りだった。
獣脂の臭みとは違う。もっと芳醇で、香ばしく、鼻の奥をくすぐり、胃袋を直接鷲掴みにするような香り。
揚げ油のコクと、醤油と砂糖が焦げたような甘辛い匂い。そして、何か魚介のような奥ゆかしい風味。
グゥゥゥゥ……。
ジェラールの腹が、雷鳴のような音を立てた。
周囲の護衛騎士たちや、リリナまでもが、恥じらいもなくゴクリと喉を鳴らしている。
「殿下、こ、この香りは……一体……」
「知るか! だが……妙に腹が減る匂いだ……」
そこへ、黒い軍服に身を包んだ帝国の騎士団長が現れ、恭しく、しかしどこか冷ややかな態度で礼をした。
「セレス王国の皆様、ようこそおいでくださいました。皇帝陛下がお待ちです」
◇
謁見の間。
玉座に座るクロード皇帝は、氷のような無表情で我々を見下ろしていた。
その圧倒的な威圧感に、ジェラールは一瞬怯んだが、すぐに気を取り直して声を張り上げた。
「久しいな、ガルディア皇帝。我が国からの親書は読んだはずだ」
「ああ。読ませてもらった」
クロードは手元の羊皮紙を無造作に放り投げた。
「食料の支援と、我が国の料理人の引き渡し……だったか?」
「人聞きが悪いな。正しくは『不当に拉致された我が国の貴族令嬢の返還』だ。マリエル・フォン・グランツは、我が国で裁かれるべき罪人なのだからな」
ジェラールは、あたかも正義はこちらにあると言わんばかりの態度だ。
すると、クロードがふっ、と鼻で笑った。
「罪人、か。……おい、入れ」
クロードが指を鳴らす。
謁見の間の脇にある扉が開き、一人の女性が姿を現した。
「失礼いたします、陛下」
艶やかな黒髪を結い上げ、帝国風の洗練されたドレスを身に纏った美女。
肌は血色良く輝き、瞳には強い光が宿っている。
かつて断罪の場で泥まみれになっていた姿とは似ても似つかない。
「マリエル……!」
ジェラールが息を呑む。
やつれていると思っていた。
敵国で酷い扱いを受け、泣きながら許しを乞うてくると思っていたのだ。
それなのに、今の彼女は、王宮にいた頃よりも遥かに美しく、満ち足りて見えた。
「お久しぶりでございます、ジェラール殿下。それにリリナ様も」
マリエルは優雅にカーテシーを行った。その所作には、一分の隙もない。
「貴様……! よくもぬけぬけと! 帝国の犬に成り下がったか!」
「言葉を慎め」
クロードの声が、広間の空気を凍りつかせた。
殺気。物理的な重圧すら感じるほどの怒気が、ジェラールを貫く。
「彼女は余の専属料理人であり、帝国の至宝だ。犬などと愚弄すれば、その舌を切り落とすぞ」
「ひっ……」
ジェラールが後ずさる。
クロードは殺気を収めると、口元に冷笑を浮かべた。
「まあいい。遠路はるばる来たのだ。腹も減っているだろう? 話は食事の後にしようではないか」
「しょ、食事だと?」
「ああ。我が国が誇る最高の『もてなし』を用意させた。……マリエル」
「はい。準備は整っております」
マリエルが不敵に微笑む。
その笑顔に、ジェラールは得体の知れない不安を感じたが、同時に胃袋からの猛烈な催促には抗えなかった。
◇
案内されたのは、王族用のダイニングルーム。
使節団の一行――ジェラール、リリナ、そして護衛の騎士たち十名ほどが長いテーブルに着席した。
正面の席にはクロード皇帝と、その隣にマリエルが座っている。本来なら料理人が同席するなどあり得ないが、この場の支配者はクロードだ。誰も文句は言えない。
「さて、本日のメニューは」
マリエルが手を叩くと、給仕たちがワゴンを押して入ってきた。
あの匂いだ。
城に入った時に嗅いだ、あの暴力的なまでに食欲をそそる香りが、部屋中に充満する。
「メインディッシュは一品のみ。丼料理です」
一人一人の目の前に、蓋付きの大きな陶器の器が置かれる。
さらに、小皿に入った漬物と、温かいお茶。
「丼……? なんだその下品な器は。コース料理ではないのか?」
ジェラールが不満を漏らすが、視線は器に釘付けだ。
器の蓋の隙間から漏れ出る湯気が、甘辛い香りを運んでくる。
「どうぞ、蓋をお開けください」
マリエルの合図で、全員が一斉に蓋に手をかけた。
パカッ。
瞬間、歓声とも悲鳴ともつかない声が上がった。
「な、なんだこれは……!!」
そこに鎮座していたのは、黄金色の小山だった。
白いご飯の上に、どっしりと横たわる巨大な肉の揚げ物。
それが、とろとろの半熟卵と、琥珀色のタレで綴じられている。
仕上げに散らされた緑色の三つ葉が、彩りのアクセントとなっていた。
「これは『勝つ丼(カツ丼)』。豚肉にパン粉をまぶして揚げた『トンカツ』を、特製の出汁と卵で煮込んだ料理です」
マリエルが説明する。
「カツ……? 揚げた肉を、さらに煮るだと? なんと奇妙な……」
ジェラールはフォークを探したが、テーブルには二本の棒――箸と、木製のスプーンしか置かれていない。
「郷に入っては郷に従え、です。スプーンで豪快にすくって食べてください」
クロードが手本を見せるように、自身の器にスプーンを突き立てた。
サクッ、という衣が切れる音。
持ち上げられたカツからは、湯気と共に肉汁が滲み出ている。
彼はそれを一口で頬張った。
サクッ、ジュワッ。
「……美味い」
短く呟き、すぐにご飯をかきこむ。
その光景が、合図となった。
我慢の限界を迎えていた護衛騎士の一人が、震える手でスプーンを握り、カツ丼に挑んだ。
カプッ。
「んぐっ……!?」
騎士が目を見開く。
「なんだ、これはぁぁ!!」
絶叫が響いた。
「衣が……出汁を吸っているのに、まだサクサク感が残っている! 噛みしめると肉の脂と、甘辛いタレが口の中で爆発するぞ!」
彼はスプーンを止めることなく、下のご飯を掘り起こした。
タレが染みて茶色くなったご飯。それにとろりとした卵が絡みついている。
「この白い穀物……『ゴハン』か! なんてことだ、タレが染みたゴハンだけで、無限に食える! パンなんて比較にならない!」
「う、うめぇ! なんだこの美味さは!」
「卵が甘い! 出汁が、出汁が凄すぎる!」
一人、また一人。
セレス王国の騎士たちが、理性をかなぐり捨ててカツ丼に食らいつき始めた。
カツカツカツと、器にスプーンが当たる音が乱れ飛ぶ。
誰も言葉を発しない。ただひたすらに、目の前の黄金を胃袋に収めることだけに集中している。
「な、なっ……!」
その浅ましい光景に、ジェラールは愕然とした。
「貴様ら、騎士の誇りを忘れたか! こんな……こんな家畜の餌を使った料理など……!」
彼は怒りで顔を真っ赤にし、自分のカツ丼を睨みつけた。
だが、体は正直だ。
口の中に唾液が溢れて止まらない。
揚げたての豚肉の脂の匂い。カツオと昆布の出汁の香り。それが空腹の胃壁を刺激し、脳髄を揺さぶる。
「殿下……」
隣から、甘い声が聞こえた。
見れば、聖女リリナがスプーンを手に、うっとりとした表情でカツ丼を見つめている。
「リリナ? まさか君まで……」
「だって、だってお城のパンは硬くて不味いんですもの! それに、この匂い……私、我慢できません!」
リリナは裏切った。
彼女は大きく口を開け、カツとご飯を同時に放り込んだ。
「んん~っ!! 美味しいぃぃぃ!!」
聖女らしからぬ奇声を上げ、彼女は恍惚の表情で頬を押さえた。
「甘い! お醤油とお砂糖のバランスが最高です! お肉も柔らかくて、卵がとろとろで……私、こんな美味しいもの初めて食べましたわ!」
「リ、リリナ!?」
「殿下も早く食べたほうがよろしくてよ? 冷めないうちに!」
リリナはもうジェラールのことなど見ていなかった。彼女の世界は今、カツ丼を中心に回っている。
「くっ、おのれ……!」
孤立無援。
ジェラールは屈辱に震えた。
マリエルが、涼しい顔でこちらを見ている。
「食べないのですか? 美味しいですよ」とでも言いたげな目だ。
食べるものか。
これを食べたら、負けだ。
王太子としての威厳が、マリエルを追放した判断が間違いだったと認めることになる。
ジェラールは手を伸ばし――器を払いのけようとした。
「こんな下賎な料理、余の口に合うわけが……」
しかし、その手は空を切った。
ガシッ。
クロード皇帝が、素早い動きでジェラールの器を取り上げていたのだ。
「食べぬなら、結構」
クロードは冷たく言い放った。
「食に対する敬意を持たぬ者に、食べる資格はない。……マリエル、このカツ丼はどうする?」
マリエルは悲しげに、しかし毅然と言った。
「手をつけていないのなら、外で警備をしている帝国の兵士にあげてください。彼らなら、喜んで食べてくれるでしょうから」
「うむ。そうしよう」
クロードが合図をすると、侍従がジェラールの目の前からカツ丼を撤去していった。
遠ざかっていく黄金色。漂う残り香。
「あ……」
ジェラールの口から、間抜けな声が漏れた。
取り上げられて初めて気づく。
自分がどれほど、それを食べたかったかということに。
周囲では、騎士たちやリリナが、「おかわり!」と叫んでいる。
彼らは満腹と幸福感に包まれ、至福の表情を浮かべている。
ただ一人、ジェラールだけが、空っぽのテーブルの前で、飢えと孤独に震えていた。
「さて」
自分の分のカツ丼を綺麗に平らげたクロードが、口元を拭ってジェラールに向き直った。
その瞳は、獲物を追い詰めた猛獣のように鋭かった。
「腹も満ちたところで、本題に入ろうか、セレス王太子殿下」
クロードの声には、カツ丼の温かさとは正反対の、絶対零度の冷徹さが宿っていた。
「貴国の要求は全て拒否する。マリエルも渡さんし、米も渡さん。……それどころか」
クロードはテーブルに肘をつき、楽しげに笑った。
「貴国が生き残る道は、もはや我が国に頭を下げ、慈悲を乞う以外にないということを、理解できているか?」
ジェラールは言葉が出なかった。
カツ丼の匂いに包まれながら、彼は自分が致命的な敗北を喫したことを、本能で悟り始めていた。
「勝負ありね」
マリエルが小さく呟く。
その言葉の意味は、『カツ(勝つ)』丼とかけた勝利宣言だったのか、それとも愚かな元婚約者への引導だったのか。
ただ一つ確かなのは、この夜のカツ丼の味を、セレス王国の使者たちは一生忘れないだろうということだけだった。




