第三話
ガルディア帝国の帝都は、黒鉄の城壁に囲まれた軍事都市だった。
華やかで牧歌的なセレス王国とは対照的に、街ゆく人々は皆、厳格で質実剛健な雰囲気を纏っている。
そんな威圧感たっぷりの「魔王城」こと皇帝宮殿に連行された私、マリエル。
本来なら地下牢に放り込まれて震えるところだが、通されたのは予想外の場所だった。
「ここが……帝国の厨房?」
案内された先は、広大だが殺風景な石造りの部屋だった。
巨大なカマドが並び、屈強な男たちが無言で調理作業を行っている。美味しい匂いは……あまりしない。焦げ臭さと、獣脂の匂い、そして茹で過ぎた野菜の青臭さが漂っているだけだ。
「陛下からの命令だ。『この女に好きなように料理をさせろ』とのことだ」
案内役の近衛騎士が告げると、厨房を仕切っていたスキンヘッドの料理長が、包丁を持ったままギロリと私を睨んだ。
「あん? 敵国の捕虜に飯を作らせるだと? 俺たちの料理が不満だと言うのか!」
ごもっともな怒りである。
だが、私は怯まずに一歩踏み出した。
「不満があるわけではありません。ただ、私は『お米』を食べたいだけなんです。皆さんの邪魔はしませんから、片隅のコンロと、そこの『家畜の餌』袋を使わせてくれませんか?」
私が壁際に積まれた麻袋(米)を指差すと、料理長は鼻で笑った。
「好きにしろ。どうせあんな鳥の餌、誰も食わねえよ」
許可は下りた。
私は心の中でガッツポーズをする。
さて、第2ラウンドの開始だ。
まずは前回同様、お米を精米して炊飯の準備をする。
けれど、今日はそれだけじゃない。
白いご飯には、絶対に欠かせない「相棒」が必要だ。
(ご飯があるなら、汁物が欲しい……!)
私は厨房内をキョロキョロと見回した。
野菜はある。根菜類や葉物は豊富だ。
問題は調味料だ。塩はある。香草もある。だが、私が求めているのはもっとこう、魂を揺さぶる「コク」なのだ。
ふと、厨房の奥にある棚に目が止まった。
埃を被った、古びた木樽が置かれている。
「あの、あれは何ですか?」
「あ? ああ、あれか。数年前に東方の島国から献上された豆の塩漬けだが……腐っちまってな。茶色くドロドロになって異臭がするから、捨てようと思ってたところだ」
腐って、茶色くドロドロ。異臭。
そのキーワードに、私の直感が警鐘ならぬ「歓喜の鐘」を鳴らした。
「み、見てもいいですか!?」
私は小走りで樽に駆け寄り、重い蓋を持ち上げた。
ぷうん、と漂う独特の発酵臭。
料理長たちは顔をしかめたが、私にとってはアロマテラピーにも等しい香りだった。
「これ……お味噌じゃない!」
指ですくって舐めてみる。
塩辛い中に、濃厚な大豆の旨味とコク。熟成が進んで色が濃くなっているが、立派な赤味噌だ。
腐ってなどいない。むしろ最高の発酵状態にある。
「神様、ありがとう……! これがあれば勝てる!」
「おいおい、そんな腐った豆を食う気か? 腹壊しても知らねえぞ」
引きつる料理長を無視して、私はさらに探索を続けた。
棚の隅に、カチカチに干からびた魚の干物を発見。
これも「硬すぎて歯が立たないから出汁殻……じゃなくて、ただの装飾品扱い」されていたが、私には宝の山だ。
「よし、メニューは決まったわ」
私は腕まくりをして、カマドの前に立った。
今日の献立は、『銀シャリおにぎり』と『具だくさん味噌汁』だ。
◇
「……食欲がない」
執務室にて、皇帝クロードは重い溜息をついた。
机の上には、未決裁の書類が山積みになっている。
昼食の時間だが、運ばれてきた料理を見るだけで憂鬱になった。
パサパサの黒パン。
塩茹でしただけの味気ない野菜。
固く焼き締めた肉。
栄養摂取のためだけに咀嚼して飲み込む作業。それは拷問に近い。
昨夜食べた、あの「塩むすび」の衝撃が忘れられないのだ。
口の中でほどける米粒。広がる甘み。
あれは夢だったのだろうか。
「陛下、昼食をお持ちしました」
扉がノックされ、侍従が入ってくる。
どうせまた、あの味気ないパンだろう。クロードは書類から目を離さずに手を振った。
「そこに置いておけ。後で食べる」
「いえ、本日は……例の捕虜の娘が作ったものが届いております」
「――!」
クロードの手が止まった。
バッと顔を上げると、侍従の後ろから、ワゴンを押したマリエルが入ってきた。
白いエプロンをつけ、誇らしげな顔をしている。
「お待たせいたしました、陛下! 本日のランチセットです」
ワゴンからテーブルに移されたのは、二つの皿。
一つは、昨夜と同じ、白く輝く三角の塊――おにぎり。
そしてもう一つは、湯気を立てる木椀に入った、茶色く濁ったスープだった。
「……なんだ、この茶色い水は」
クロードは眉をひそめた。
見た目は泥水のようだ。香りも、今まで嗅いだことのない独特の匂いがする。
「『お味噌汁』です。毒なんて入ってませんから、騙されたと思って一口どうぞ」
マリエルが自信満々に勧める。
クロードはおにぎりがあることに安堵しつつ、まずはその謎のスープを手に取った。
温かい。器から伝わる熱が、冷え切った指先を温める。
意を決して、一口啜る。
ズズッ。
「――――ッ」
その瞬間。
クロードの全身から力が抜けた。
なんだ、これは。
口に含んだ瞬間、強烈な旨味が舌を包み込んだ。
塩気があるのに、尖っていない。まろやかで、奥深く、どこか懐かしい。
干し魚から取ったという黄金色の出汁と、熟成された豆味噌のコクが複雑に絡み合い、五臓六腑に染み渡っていくようだ。
「……あぁ……」
無意識に、感嘆の吐息が漏れた。
肩の凝りがほぐれ、眉間の皺が消えていく。
「具は、この国の特産であるカブと葉野菜、それにキノコをたっぷり入れました」
言われて椀の中を見れば、くたくたに煮込まれた野菜たちが顔を出す。
汁を吸って茶色く染まったカブを齧る。
ジュワッ、と熱い汁が溢れ出し、野菜の甘みと味噌の塩気が口の中で弾けた。
「美味い……。なんだこのスープは。パンのスープとはまるで違う。飲むだけで、体が芯から癒やされていくようだ……」
「ふふっ、そこにおにぎりを合わせてみてください。飛びますよ?」
マリエルに促され、クロードはおにぎりを手に取った。
一口齧る。お米の甘みが広がる。
まだ口の中に米があるうちに、味噌汁を追うように啜る。
「!!!!」
衝撃が走った。
単体でも美味しい二つが、口の中で出会った瞬間、爆発的な化学反応を起こしたのだ。
米の淡白な甘みを、味噌の塩気と出汁の旨味が受け止める。
そして味噌汁の後味を、米が優しく洗い流し、次の一口を誘う。
無限ループだ。
止まらない。
カプッ、ズズッ。ハフハフ。
普段は音を立てて食事をすることなどない皇帝が、一心不乱に「三角」と「お椀」を往復させている。
「……んぐ、ぷはっ」
気づけば、皿も椀も空っぽになっていた。
クロードは呆然と空の器を見つめ、それから自分のお腹に手を当てた。
温かい。
胃袋が満たされただけではない。何か、心に空いていた穴までふさがれたような、圧倒的な充足感。
「いかがでしたか?」
マリエルが小首を傾げて覗き込んでくる。
その表情は、「美味しいって言うに決まってる」という確信に満ちていて、少し憎らしいほどだ。
クロードは口元をナプキンで拭い、居住まいを正した。
そして、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「マリエル」
「はい」
「お前を、牢屋に入れるわけにはいかなくなった」
「えっ、解放してくださるんですか?」
「いや、違う」
クロードは立ち上がり、マリエルの目の前まで歩み寄った。
長い影が彼女を覆う。
彼は真剣な眼差しで、まるで国家の重大な決断を下すかのように告げた。
「お前は今日から、余の『専属料理人』だ。余の許可なく厨房から出ることも、他の男に料理を作ることも禁ずる」
「え……それって、軟禁では?」
「好待遇の軟禁だ。食材は好きなだけ使っていい。給金も弾もう。だから――」
クロードは、マリエルの小さな手を両手で包み込んだ。
冷徹な皇帝の手は、驚くほど熱かった。
「明日も、明後日も、その先もずっと……余のために、この味噌汁を作ってくれ」
「……えっと、それはプロポーズの常套句か何かですか?」
マリエルがツッコミを入れるが、クロードは真顔だ。
「余は本気だ。この味がなくては、もう生きていけない体になってしまった」
赤い瞳が、熱っぽく潤んでいる。
それは恋の熱か、それとも単なる食欲の暴走か。
(この人、顔はいいのに中身が残念なタイプだ……!)
マリエルは確信した。
しかし、悪い話ではない。
処刑を免れ、好きに料理ができる環境。しかも「お米」は食べ放題。
「……わかりました。お受けします、陛下」
「うむ! では早速だが、夕食は何だ? 余としては、あの『焼きおにぎり』というのも気になっているのだが」
「気が早いですよ! まだお昼です!」
嬉しそうに尻尾を振る大型犬の幻影が見える皇帝陛下。
こうして、悪役令嬢マリエルの「帝国餌付け生活」が幕を開けたのだった。
一方、厨房では――。
マリエルの残した味噌汁の残りを飲んだ料理長たちが、
「なんじゃこりゃあぁぁ! 腐った豆が化けたぞおおお!」
「パンだ! パンを浸しても美味いぞ!」
と、新たな味覚の扉を開いて大騒ぎになっていたのだが、それはまた別の話である。




