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第一話

「……はあ、はあ、っ……!」


 肺が焼けるように熱い。

 泥だらけになったドレスの裾が、いばらに引っかかって悲鳴を上げている。

 けれど、足を止めるわけにはいかなかった。


(絶対に、死ねない。こんなところで終わってたまるもんですか!)


 鬱蒼うっそうと茂る「帰らずの森」。

 国境付近に広がるこの樹海は、魔獣が徘徊する危険地帯として知られている。だが、今の私――マリエル・フォン・グランツ公爵令嬢にとっては、背後に迫る「王国の追っ手」よりも、目の前の魔獣のほうが数倍マシだった。


 なぜなら、私はつい数時間前まで、断罪の広間に立たされていたからだ。


『民が飢えに苦しんでいるというのに、貴様は「パンがないならライを食べればいい」などと、ふざけた発言をしたそうだな!』


 元婚約者であるジェラール王太子の、唾を飛ばさんばかりの怒号が耳に残っている。

 周囲の貴族たちからの、冷ややかな視線。

 そして、その隣で「なんて酷いことを……」と涙ぐむふりをしていた聖女リリナ。


 ――違う。私はただ、真実を言っただけなのに。


 セレス王国は今、未曾有の小麦不作にあえいでいる。

 けれど、湿地帯には「ライ」と呼ばれる植物が自生していた。

 前世の記憶を持つ私には、それがどう見ても「お米」にしか見えなかったのだ。


 ただ、この国ではその殻の剥き方も、炊き方も知られていない。硬いまま噛んで「苦い」と吐き捨てるか、家畜の餌にするしかない雑草扱い。

 だから私は提案したのだ。「調理法さえ工夫すれば、立派な主食になります」と。


 それを「家畜の餌を民に食わせろと言うのか」と曲解され、あろうことか「稀代の悪女」として処刑宣告されるなんて。


「……バカ王子め。あいつの頭の中はパン屑でも詰まっているんじゃないの」


 木の根を飛び越えながら、私は悪態をついた。

 公爵家の裏ルートを使ってなんとか王都を脱出したが、頼れる味方はもういない。

 この森を抜ければ、隣国である軍事帝国ガルディアだ。敵国だろうとなんだろうと、処刑台よりは生き延びる確率が高い。


「ぐぅぅ……」


 その時、盛大にお腹の虫が鳴った。

 緊張感が削がれる音に、私は思わず天を仰ぐ。


「……お腹、すいたなあ」


 逃亡生活三日目。口にしたのは木の実と泥水だけ。

 前世、日本の定食屋の娘だった私にとって、食事ができないことは死ぬことと同義だ。


(白いご飯が食べたい……。炊き立ての、湯気が立つ銀シャリ……)


 妄想するだけで涙が出そうだ。

 ふっくらと炊き上がったお米。その甘み。

 ああ、もし捕まって死ぬとしても、最後におにぎりひとつでいいから食べたかった。梅干しなんて贅沢は言わない。塩だけでいいから。


 食欲という名の煩悩に支配され、注意力が散漫になっていたその時だった。


 ガサリ、と前方の茂みが揺れた。


「――そこまでだ」


 空気が凍りついたような、絶対零度の声。

 反射的に足を止めた私の首元に、冷やりとした金属の感触が押し当てられる。


 剣だ。


「ヒッ……」


 視線を上げると、そこには漆黒の鎧をまとった一団がいた。

 王国の騎士ではない。もっと実戦慣れした、鋭い殺気を放つ男たち。その装備には、双頭の竜の紋章――帝国ガルディアの国章が刻まれている。


(嘘……。もう国境を越えていたの!?)


 そして、私の喉元に剣を突きつけている男。

 月明かりに照らされたその姿に、私は息を呑んだ。


 夜の闇を溶かしたような黒髪に、血のように赤い瞳。

 整いすぎているがゆえに彫像のような冷たさを感じさせる美貌。

 

 クロード・ヴァン・ガルディア。

 冷酷無比と恐れられる、敵国の若き皇帝その人だった。


「セレス王国の貴族か。こんな泥まみれで、何をコソコソと嗅ぎ回っている」


 見下ろす瞳に感情はない。

 まるで路傍の石を見るような目だ。

 殺される。直感でそう悟った。


「わ、私は……っ」


「スパイか? まあいい。ここで斬り捨てれば同じことだ」


 クロード皇帝が手首を返そうとする。

 剣先が皮膚を食い破り、つう、と一筋の血が流れた。


 終わった。

 私の人生、二度目もこんなにあっけなく終わるなんて。

 お米……せめてお米を一目見たかった……。


 死を覚悟して目を閉じた、その瞬間。


 ふわり。


 夜風に乗って、ある「匂い」が私の鼻孔をくすぐった。


(……え?)


 それは土の匂いでも、血の匂いでもない。

 もっと香ばしくて、穀物特有の、どこか青臭くも懐かしい香り。

 私はカッと目を見開いた。


「くん、くん……!」


 死の淵にいるとは思えない勢いで、私は鼻を鳴らした。

 間違いない。この匂い、この気配は!


「き、貴様、何を……?」


 突然鼻をひくつかせ始めた私に、クロード皇帝がいぶかしげに眉を寄せる。剣先がわずかにブレた。

 その隙を見逃さず、私は視線を匂いの元へと走らせる。


 皇帝の背後。野営地と思しき広場に、麻袋が山積みにされていた。

 その袋の口が少し開いていて、中からこぼれ落ちている粒々。


 楕円形で、淡い黄金色の殻に包まれた、小さな粒。


「あ、あ、あああ……っ!!」


 私の口から、言葉にならない歓喜の声が漏れた。

 恐怖など吹き飛んだ。

 目の前に突きつけられた剣など、もはや爪楊枝ほどの脅威にも感じない。


 私は皇帝の手を払いのける勢いで、その「山」に向かって這いずった。


「おい、動くな!」


 騎士たちが慌てて私を取り押さえようとするが、火事場の馬鹿力とはこのことだ。私は彼らの腕をすり抜け、麻袋の一つにしがみついた。

 震える手で、その中身をすくい上げる。


 殻付きのままの、もみ

 けれど、爪でカリッと殻を割れば、中から出てくるのは透き通るような半透明の粒。


「こ、米だ……! これ、お米ですよね!? しかも粒の形からしてジャポニカ米に近い品種……!」


 頬ずりしたい。いや、むしろ今すぐ生のまま噛み砕きたい。

 狂喜乱舞する私を、帝国兵たちはポカンと口を開けて見ていた。

 まるで狂人を見るような目だ。


「陛下、こいつ……気が触れているのでは?」


 部下の言葉に、クロード皇帝が呆れと警戒の入り混じった顔で近づいてくる。

 彼は私の手の中にあるものを一瞥いちべつし、鼻を鳴らした。


「何を騒いでいるかと思えば……それはただの『家畜の餌』だ」


「……は?」


 私は愛しいお米を握りしめたまま、皇帝を見上げた。

 今、なんて言った?

 この宝石のような穀物を。神が与え給うた最高の食材を。


「か、家畜の……餌……?」


「そうだ。我が国の痩せた土地でも育つ雑草の種だが、人間が食えるような代物ではない。煮ても焼いても泥のような味がするからな。馬ですら嫌々食うレベルだ」


 クロード皇帝は吐き捨てるように言った。

 その顔には、長年の食糧難に対する疲弊と、不味い食事への憎しみが滲んでいた。


 ああ、なんということでしょう。

 この国の人々は、お米の食べ方を知らないのだ。

 脱穀もせず、精米もせず、殻付きのまま煮て食べているに違いない。それでは「泥のような味」がして当然だ。


 もったいない。

 あまりにも、もったいない!

 こんなに大量のお宝を目の前にして、それをゴミ扱いするなんて!


 プツン、と私の中で何かが切れた。

 それは恐怖のリミッターだったかもしれないし、空腹による理性の崩壊だったかもしれない。


 私は立ち上がり、あろうことか敵国の皇帝であるクロードの目の前で、仁王立ちになった。


「訂正してください、皇帝陛下」


「……あ?」


「これは家畜の餌なんかじゃありません。これは……これは、世界で一番美味しい『ごはん』なんです!」


 私の剣幕に、周囲の騎士たちがざわめく。

 皇帝に対して不敬極まりない態度。即座に首をねられても文句は言えない。

 けれど、クロード皇帝は斬りかかる代わりに、興味深そうに目を細めた。


「ほう……。世界で一番、だと?」


「ええ、そうです! あなたたちはこの子のポテンシャルを何一つ分かっていない! 正しい手順で調理すれば、どんな宝石よりも輝き、どんな肉料理よりも食欲をそそる、至高の主食になるんです!」


 私は麻袋を抱きしめ、熱弁を振るった。


「私が証明してみせます。だから……」


 グゥゥゥゥゥ――……。


 その時、今日一番の、地響きのような腹の音が森に響き渡った。

 私の腹の音ではない。

 目の前にいる、冷徹な皇帝陛下の腹の音だった。


 沈黙が落ちる。

 部下の騎士たちが、気まずそうに視線を逸らした。

 クロード皇帝の美しい顔が、わずかに赤らむ。


「……コホン。軍議が長引き、夕食を摂り損ねていただけだ」


「陛下。こちらの女性、どうなさいますか? やはり処刑を……」


 部下が尋ねる。

 私はすかさず、皇帝に向かって叫んだ。


「私に、このお米を炊かせてください!」


「……炊く?」


「はい! お鍋と水と火さえあれば、私がこの『家畜の餌』を、陛下が泣いて喜ぶご馳走に変えてみせます。もし不味かったら、その時は煮るなり焼くなり、好きに処刑してください!」


 それは、人生を賭けた提案だった。

 クロード皇帝は、私の泥だらけの顔と、手に握りしめた米、そして私の瞳の奥にある確固たる自信をじっと見つめた。


 やがて、彼はふっと口元を歪めた。獰猛な捕食者の笑みだ。


「面白い。どのみち我が軍の兵糧は尽きかけている。……その『ご馳走』とやら、余に見せてみろ」


「はい、喜んで!」


 こうして、私の命と胃袋を懸けた、初めての炊飯が始まることになった。

 待っていてください、お米さん。今、最高の状態にしてあげますからね!


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