私の、中川京香の日常
九月の終わり。
まだ夏の気配がしつこく残っている空気の中で、教室の窓は全開にされていた。風が通るたび、黒板の隅に貼られた文化祭のポスターがぱたぱたと鳴る。来月に迫った行事のせいで、クラス全体は落ち着きなく浮ついた雰囲気に包まれ始めていた。
けれど中川京香にとって、それは遠い世界の音のようにしか感じられなかった。
席は一番後ろの窓際。そこが京香の定位置で、教室の喧騒から一番遠く、視線も集まりにくい場所だった。背中まで伸びた黒髪はただでさえ重たく見えるのに、さらに大きめの黒縁メガネが顔の大部分を覆っている。鏡を見るたびに「暗い」と自分でも思うけれど、髪を切る気力も、眼鏡を変える勇気もないまま二年生の秋を迎えていた。
前方でクラス委員が文化祭の出し物について声を張っていた。
「で、模擬店は食べ物系がいいって人と、劇やりたいって人とで分かれてるんだけど――」
わいわいと笑い声や意見が飛び交う。京香は教科書を広げ、ノートを開き、鉛筆を走らせていた。授業でもないのに。頭に入るわけでもないのに。何かを書いていれば、話し合いに加わらなくていい。見なくていい。呼ばれなければ、このままやり過ごせる。
「中川さんはどう思う?」
委員の声が飛んだ瞬間、心臓がひゅっと縮んだ。ノートに書く手を止める。
顔を上げると、数人の視線が自分に集まっている気がした。
「え……」小さな声が漏れる。喉がからからに乾いている。
「私は……」と、かろうじて続けた。
それ以上の言葉は浮かばなかったし、浮かんだところで口から出すのが難しかった。
「あぁ…うん。じゃあ、他の人の意見で多数決とろっか」
話題はすぐ別の方向へ流れた。助かった、と京香は胸の奥でほっと息をつく。同時に、また何もできなかったという感覚が静かに沈んでいく。
昼休み。
クラスの大半が机を寄せ、友達と弁当を広げている。コンビニ袋をかさかさ言わせる男子、笑い声をあげる女子。いろんな音が飛び交う中、結花は席を立った。
向かうのは図書室。
そこなら静かだし、弁当を広げても誰からも見られない。
図書室のドアを開けると、紙の匂いが漂った。昼休みの利用者はまばらで、司書の先生がカウンターで雑誌をめくっている。京香は窓際の席に腰を下ろした。鞄から取り出したのは母が詰めてくれた白い弁当箱。卵焼きと冷凍食品の唐揚げと、隅に入ったブロッコリー。それを黙々と口に運びながら、本棚に目をやる。
読みたいと思う本があるわけじゃない。ただ、背表紙がずらりと並ぶのを見ていると、少し安心した。自分を責める声も、話しかけてくる声もここにはない。食べ終えた弁当箱を布で包み直し、机に突っ伏す。視界が暗くなり、眠気がじわじわと広がってきた。
「……」
自分の呼吸音だけが聞こえる。
何もしていない時間に罪悪感を抱くこともあるけれど、それ以上に、こうして人から切り離される時間の方が大事だった。
午後の授業。
窓の外ではグラウンドで体育をする別クラスの声が響いている。汗まみれで走り回る彼らを横目に、京香は数学の教科書に視線を落としていた。数字が並ぶ黒板の字は頭の中を素通りする。それでもノートに写し取る作業は止めない。
「書いているふり」をすれば、安心できるからだ。
隣の席の女子がシャーペンを落とした。ころころと床を転がり、結花の足元で止まる。拾って渡そうと身をかがめる。
「ありがと」
小さく礼を言われ、京香は視線を逸らしながらボソッと「うん」と返した。
それで終わり。会話は膨らまず、また沈黙が戻る。
心の中で、ほんの少しの後悔と安堵が交錯する。
こんなふうに、今日も私の一日が過ぎていく。
□
チャイムが鳴り終わると同時に、教室の空気が一気に解放された。
椅子を引く音、机を寄せる音、誰かが大声で笑う声。文化祭の話し合いは続くようで、何人かは黒板の前に残っていた。
京香は机にノートをまとめ、静かに鞄へとしまった。人の流れが落ち着くまで待つのがいつもの習慣だ。慌てて立ち上がればぶつかるし、無理に混ざれば声をかけられる。そういう小さな摩擦を避けるためには、ただ「少し遅れる」だけでいい。
窓の外は、夕方の色に変わりつつあった。
教室を出て廊下を歩く。靴音を忍ばせるように。誰かと並んで歩くこともなく、正門を抜けて校舎の外へ。
校庭では部活動の声が響いていた。サッカーボールを蹴る乾いた音、吹奏楽部の管楽器の調子外れな音階。にぎやかさに背を向けて、京香は駅へ向かう道を歩いた。
電車の中。
座席はほとんど埋まっていて、京香は扉近くに立った。手すりを握り、窓に映る自分の姿を見る。黒髪が頬にかかっていて、少し乱れていた。指先で整えながら、ふと目が合うように感じて視線を外す。もちろん、それは自分自身との目の合い方だった。
「……」
小さく息を吐き、鞄から文庫本を取り出す。
けれど活字はすぐにぼやけてしまう。頭に入ってこないままページだけがめくられていく。何を読んでいるのか分からない。それでも「本を読んでいる」という姿勢だけが、他人の視線から守ってくれる気がした。
やがて降車駅に着き、結花は人混みに押されるようにホームへ出た。改札を抜け、夕暮れの街を歩く。
家に着くと、玄関には母の靴が一足。
「ただいま」と声をかけると、台所から鍋の音が返ってきた。
「おかえり。手洗ってきなさい」
「……うん」
短いやり取りだけで階段を上がる。
自室は、六畳の狭い空間。机には教科書とノートが積まれているが、整頓されているわけではない。カーテンを閉め切ると、外の音が一気に遠のく。椅子に座り、机に肘をついて天井を見上げる。
今日も、特に何もなかった。
心の中でつぶやく。けれど、それは悪いことではなかった。目立たず、関わらず、ただ過ぎていく日常。それが自分にとっては一番安心できる形だった。
宿題を開くが、手はなかなか進まない。スマホを手に取り、SNSのタイムラインを眺める。クラスメイトが友達と写った写真や、文化祭の準備について楽しげに書いている投稿が目に入る。
ー自分とは別の世界ー
そう感じて、すぐにアプリを閉じた。
机に突っ伏し、イヤホンを耳に差し込む。流れる音楽は淡々としたインストゥルメンタル。歌詞のない曲は心に余計な言葉を残さない。呼吸が落ち着いていき、瞼が重くなる。
そのまま小さな眠りに沈んだ。
翌朝。
目覚ましの音に体を起こす。窓を開けると冷たい風が流れ込んできた。秋が近づいている。
制服に着替え、髪を梳かす。鏡に映る自分の姿に、少しだけ目を細める。どう見ても「地味」だし「暗い」。でも、それを変える努力をする気にはならなかった。
朝食をとり、母に軽く会釈して家を出る。通学路には同じ制服の生徒たちがちらほら見える。彼らは友達と並んで話しながら歩いている。その声を背中で聞きながら、京香は少し距離を置いて歩いた。
学校に着くと、昇降口で靴を履き替える。廊下の掲示板には「文化祭まであと29日」と書かれたカウントダウンポスターが貼られている。数字が赤マジックで大きく丸を描かれていて、いやに目立つ。
あと一か月。
その言葉に特別な意味を見いだすことはできなかった。
教室に入り、席に座り、鞄から教科書を出す。周囲の会話は自然と耳に入る。模擬店の候補、衣装の相談、部活の発表。誰もが楽しげに文化祭を話題にしていた。
京香はノートを開き、鉛筆を走らせる。授業前の静かな準備のように。
何も聞いていないふりをして。
何も考えていないように見せながら。
これでいい。
自分にそう言い聞かせるように、京香は視線を落とした。
□
十月に入ると、教室の空気は一段と騒がしくなった。
黒板の端には「文化祭まであと20日」「あと10日」と日ごとに書き換えられる数字。机の上には画用紙やペン、色とりどりの折り紙。普段ならノートや教科書しか置かれない教室が、まるで別の部屋のように雑然としていった。
京香のクラスは最終的に「模擬店」に決まった。焼きそばを売ることになり、役割分担もざっくりと振られた。
京香は装飾班。教室を屋台風に飾るための看板やポスター作りが担当だった。
最初に割り振られたとき、胸の奥が少しざわついた。
絵を描くのは得意ではない。人前で何かをするのも苦手だ。
でも、「嫌です」と言えるほどの勇気もない。
結局、班分けの中で余った隙間のように「じゃあ中川さんは装飾で」と決まったのだった。
放課後、教室に残って作業する日が続いた。
班ごとに机を寄せて、ポスターを描いたり材料を切ったり。賑やかな声が飛び交う中、京香は画用紙の端を黙々と切っていた。はさみの音だけが自分の世界のリズムだった。
「そっち終わった?」「こっち手伝ってー!」
誰かの声が飛んでくるたび、心臓が一瞬縮こまる。
「……うん」
小さく返事をして、頼まれた作業をこなす。文字をなぞったり、色を塗ったり。器用でも早くもないが、最低限の役割は果たす。
周囲の会話には加わらない。
けれど、笑い声や冗談が耳に入るたび、自分がそこにいないことを意識してしまう。――それでも、無理に入るよりは楽だった。
「中川さん、これ塗ってくれる?」
同じ班の女子が色鉛筆を差し出した。
「……うん」
受け取り、黙々と作業を続ける。返事は小さな声。目は合わせない。
それで十分だった。
一週間が過ぎ、教室は少しずつ“出し物の形”を帯び始めた。
窓には提灯風の飾りが吊るされ、黒板の周りには赤や黄色の紙が貼られていく。見慣れた空間が変わっていくのを、京香はどこか現実感なく眺めていた。
作業の合間に机に突っ伏すと、目を閉じた視界の裏側でざわざわと声が響く。
「やば、時間足りなくない?」「もう一回材料買わないと」
焦りや笑いが入り混じる声。
きっと、自分がいなくても進んでいく。
そんな考えが頭をよぎる。
けれど同時に、ほんのわずかに「この騒がしさに取り残される感覚」もあった。自分はただ作業をするだけ。輪の外にいるのは分かっている。それでも、この場所に座っている以上、全くの無関係ではいられなかった。
文化祭前の最後の一週間。
準備は追い込みに入り、放課後の残留はほとんど強制になった。教室だけでなく体育館や中庭もざわつき、学校全体が祭り前夜の熱に浮かされているようだった。
京香もまた机に向かい、ポスターの最後の仕上げをしていた。
大きな筆で「焼きそば」と太字に書かれた紙をなぞる。手元に集中すれば、周囲の喧騒は少し遠くなる。筆の先が紙を擦る音だけが耳に残る。
「……できた」
小さな声が漏れる。自分にしか聞こえないほどの音量。完成した看板を見つめると、達成感というよりも「やっと終わった」という安堵の方が強かった。
片づけをして帰ろうとしたとき、窓の外はもう暗かった。グラウンドの照明に照らされた部活動の声が、夜気の中で響いていた。
鞄を肩に掛けて校舎を出る。冷たい風が頬に触れた瞬間、体の力が抜けるように感じた。
文化祭前日。
教室はすっかり模擬店仕様に変わっていた。机が壁際に寄せられ、通路が広く取られている。飾り付けられた紙や提灯がぶら下がり、どこか落ち着かない雰囲気だった。
クラスメイトたちは「明日頑張ろうな!」と声を掛け合い、記念写真を撮ったりしている。
京香はその輪の少し外側に立ち、教科書をしまって鞄を閉じていた。
明日はきっと、もっと騒がしい。
そう思うだけで、心臓がどきどきした。
自分がどんな役割を果たすかも、正直あまり分かっていない。言われたことをやる。それだけだ。
けれど、それでいい。
それ以上を望んだことはないし、望んだところでできる気もしない。
「……」
窓から差し込む夕方の光に照らされながら、京香は一度だけ深呼吸をした。
胸の奥にたまっていたものを吐き出すように。
そして静かに席を立った。
教室のざわめきはまだ続いていた。
けれどその音を背中に受けながら、京香は廊下を歩いていった。
明日も、きっと自分は自分のままだ。
そう思いながら。
□
朝、校門をくぐった瞬間から、普段の学校とは違う匂いがした。
ソースの甘い香り、ポップコーンの香ばしい匂い。風に混じって鼻をくすぐる。いつもの静かな校舎が、今日は人であふれていた。色とりどりのポスターが壁に貼られ、廊下には呼び込みの声が飛び交う。
ー非日常ー
そう呼ぶにはあまりに騒がしい。京香は鞄を抱え直し、早足で教室へ向かった。
教室はすでに模擬店の準備でごった返していた。
エプロンを着けたクラスメイトたちが鉄板を拭いたり、ソースや具材を確認したり。男子は冗談を言い合いながらキャベツを刻み、女子は飾り付けを微調整している。
京香の役割は「呼ばれたら手伝う」。曖昧で、小さな仕事だった。だから、教室の隅で看板の補強をしたり、紙コップを整えたりして過ごす。誰かに声を掛けられれば「……うん」と小さく返事をし、言われた通りのことをする。
それで一日が流れていった。
昼前になると、校舎中に人があふれてきた。外部の来場者、生徒の家族や友達。廊下には人の波ができ、どこも熱気でむんむんとしている。教室の中も同じで、焼きそばを焼く鉄板の前に行列ができ、声を張り上げて呼び込みをする姿が目立った。
京香は隅で紙皿を補充し続ける。単調で、誰にも気づかれない作業。
それで十分。
汗が額ににじむが、不思議と嫌ではなかった。
午後。
少しだけ時間が空き、京香は校舎内を歩いた。体育館ではダンス部が公演をしていて、歓声が響いていた。廊下の角では友達同士が写真を撮り合っている。
彼女は人混みを避けながら歩き、図書室の前まで来て足を止めた。ドアは閉まっていて、中に入れる様子はない。今日はここも祭りの一部なのだ。
少しだけ残念に思い、再び教室へ戻った。
夕方、模擬店は終了した。
鉄板を片づけ、机を元の位置に戻す。壁に貼った飾りを外し、ガムテープの跡を剥がす。騒がしかった一日が、ゆっくりと終わりに近づいていった。
「お疲れー!」「打ち上げ行こうぜ!」
教室のあちこちで声が上がる。文化祭が終わり、片付けもひと段落して、皆が一気に解放感に包まれていた。
「駅前のファミレスどう?」「全員で行こうよ!」
気づけば、行き先は自然と決まっていた。担任も「事故だけは起こすなよー」と軽く釘を刺しただけで、後は生徒に任せている。
「全員」で。
その言葉に、京香は小さく息を吐いた。帰るという選択肢は、今日は許されない。
夕暮れ時の駅前。ファミレスの大きな看板が光っている。
二十数人のクラスメイトがぞろぞろと入店していく姿は、店員すら一瞬たじろがせるほどだった。
「いらっしゃいませー!」
元気な声に迎えられ、長いテーブル席をいくつもつなげての大集団。メニューを広げ、あちこちで盛り上がる。
京香は一番端の席に腰を下ろした。メニューを眺めるふりをしながら、実際はすぐに決めていた。
「……ミートソーススパゲッティで」
店員にボソッと告げ、視線を落とす。
隣の席では「ハンバーグにしよっかなー」「お前さっき焼きそば五皿分食ったろ!」と賑やかな声。
テーブルの中央で笑い声が絶え間なく飛び交う。
メニューを閉じて膝に置き、京香は息を吐いた。あとは料理が届くのを待つだけ
そう思ったとき、隣の席から小さな声がした。
「ねえ、中川さん」
京香はびくりと肩を揺らした。
声の主は、同じクラスの近藤美香。普段は友達に囲まれて笑っている姿ばかり目にしてきた子だ。まさか自分に話しかけてくるとは思っていなかった。
「……なに?」
かろうじて声を絞り出す。
彼女は少しだけ身を乗り出して、柔らかく笑った。
「中川さんって、文化祭のとき、ずっと真面目に準備してたでしょ。ああいうの、すごいなって思ってたんだ」
心臓が早く打ち始める。
そんなふうに見られていたとは思いもしなかった。自分はただ言われたことを最低限こなしていただけなのに。
「……いや、私は別に」
視線をテーブルに落とし、か細い声で返す。
彼女は気を悪くする様子もなく、さらに続けた。
「今日もさ、全員で打ち上げできてよかったよね。中川さんも来てくれて、なんか嬉しいな」
「……うん」
言葉は短い。それ以上は出てこない。
けれど、彼女の笑顔は崩れなかった。
ただそれだけの会話。数秒で終わったやり取り。
それなのに京香の胸の奥は、不思議な熱でいっぱいになっていた。
料理が運ばれてきて、ざわめきが再び広がる。
京香はフォークを手に取り、黙々とスパゲッティを口に運びながら、隣の席の温かな気配を意識していた。
□
玄関のドアを閉めると、家の中はしんと静まり返っていた。
クラスメイトたちの笑い声や店のざわめきは一瞬で遠のき、耳に届くのは自分の足音だけになる。
鞄を部屋の隅に置き、制服のままベッドに腰を下ろした。
机の上には昼のうちに出していた教科書がそのまま開かれている。手を伸ばして閉じると、紙の音がやけに大きく響いた。
文化祭。
準備の日々も、本番も、そして打ち上げも、全部が自分にとっては「騒がしい時間」だった。
けれど、思い返すと
その騒がしさの中で、確かに自分もそこにいたのだと思える。
枕元に置いてあったメガネを外し、長い髪を指で軽く梳いた。
視界がぼやけて、天井の灯りが柔らかく滲む。
「……ふう」
小さく息を吐き、ベッドに横になる。
瞼を閉じると、ファミレスでの光景がうっすらと浮かんできた。
賑やかな声の断片。
そして、美香さんがかけてきたあの短い言葉。
「今日は一緒に来てくれてありがと。なんか、ちょっと嬉しかった。」
ほんの数秒のやり取り。
それでも、不思議なほど心に残っている。
自分は明日もきっと変わらない。
教室では隅の席に座り、声をかけられればボソボソと返すだけ。
それでも
今日の夜のことは、胸の奥で小さく灯りのように残っている気がした。
やがて意識が薄れていく。
静かな部屋の中、心臓の鼓動と、窓の外の遠い車の音が交互に響いていた。
その音に包まれながら、中川京香は眠りに落ちていった。
明日からも、変わらない日常の中へ。
□
翌朝。
目覚ましの音で起きた京香は、いつもと同じ動作で顔を洗い、制服に袖を通した。
長い髪を後ろに流し、眼鏡をかけると、鏡に映る自分は昨日と何も変わらない。
学校に着くと、教室の中はまだ文化祭の余韻で少し賑やかだった。
「昨日の打ち上げ、ポテト頼みすぎてやばかったよな」
「カラオケ行った組、めっちゃ盛り上がったらしいよ」
そんな声があちこちから飛んでくる。
京香は自分の席に座り、カバンからノートと筆箱を取り出す。
机の上を整える手つきは、誰に見られることもなく、ただ自分のためだけに。
「おはよー」
近くで交わされる声。笑い声。
そのすぐ横で、京香は静かに教科書を開いた。
黒板に先生の字が並び始めると、ペンを走らせる。
インクの音だけが、自分の世界を確かめるように耳に残った。
昨日のことを思い返す。
文化祭の喧騒。
ファミレスでの賑やかさ。
美香さんの笑顔。
けれど、それはもう“昨日のこと”だ。
今日はただの授業の一日。
昼休みになればパンを買い、放課後になれば教室を出て家へ帰る。
変わらない日常。
それが京香にとっては、何よりも落ち着く居場所だった。
窓の外には、文化祭の飾りつけを外す生徒たちの姿が見えた。
笑い声を背に、京香はノートに視線を落とす。
インクの線が増えていくそのページは、昨日の余韻を塗りつぶすように、淡々と埋まっていった。
そうして私はまたいつも通りの生活をする。