旅館
「奪うという感覚はよく分からないが、そういうことになるな」
「やった……!」
ガッツポーズを取る仄香がおかしかったのか、志波はフッと笑った。
志波に笑ってもらえたのが嬉しくて、仄香は有頂天になった。しばらく眠れない日々を過ごしていた分、お弁当を食べ終わった後は何だか気が緩んでしまい、志波の肩に頭を預けて寝てしまった。
一時間ほど経った頃、志波に揺らされて目が覚めた。
ハッ……と意識を取り戻した仄香は、寝てしまったことを全力で謝りながら新幹線を出る。
駅の向こうに豊かな緑に囲まれた山々が見えた。駅周辺は老舗の土産物店や和菓子屋が並んでいる。
人が集まる場所に長居するのは何が起こるか分からず危険な気がして、湯気の立ちのぼる温泉饅頭の店に寄った後、早々に旅館へ向かった。
旅館へと続く細い山道には石畳が敷かれていた。更に進めば道は少しずつ坂道になり、やがて予約していた旅館の門が見えてくる。
到着後は案内されるままに和室に入り、館内着の浴衣に着替えた。ちらりと後ろで着替えている志波を見れば、松葉柄の浴衣がよく似合っていた。志波の和装を見たことがなかったのでドキドキしながら凝視していると、横目に振り向いた彼と目が合ってしまう。
帯を結びかけていた仄香に、志波は常識的なことを指摘した。
「逆だ」
「……え?」
「普通は右側の衣を左腰に巻き付ける」
ゆっくりと近付いてきて仄香の帯を奪い、浴衣を体に当て直した志波は、仄香の腰に帯を回した。回す際にあまりに距離が近くなり、志波の良い香りが漂ってきて、事故を装って抱き着けないだろうかなどと良からぬことを考えた。
しかしその直後くるんと後ろを向かされたかと思えば、呆気なく帯を結ばれてしまった。
「どうした?」
仄香ががっかりしているのを感じ取ったのか、志波が不可解そうに覗き込んでくる。
「ちょっと、すぐ脱がされないかなって期待してしまって」
「……は?」
「だってしばらくえっちできてないですし……」
消え入りそうな声で呟いた仄香。一拍置いて、志波は可笑しそうに口角を上げた。
「君は欲求不満なのか?」
「え゛ッいや、そういうわけでは」
仄香はあたふたと否定する。
性欲が溜まっている、というのは少し違う。最近は尚弥と嫌というほど体を重ねている分、そんな欲はカラカラになるくらい発散させられている。
しかし、志波と直接会うとそれとは別種の欲望が生まれる。体の奥底で触れ合いたいという気持ちになる。それは性欲とは少し違っていて、特別な好意があるからこそ感じる不思議な感情だ。これを志波に理解してもらうのは難しいだろう。
「もうじき食事が来る。これで我慢しろ」
え? と思った時には志波の唇が仄香の唇に重なっていて、熱い舌が割って入ってきた。ゆっくりと舌を絡め取られる。それだけで腰から下に痺れるような感覚が走って、身を任せるしかなかった。
長くキスをして意識がぼうっとしてきた頃、外から戸を叩かれて慌てて離れる。
名残惜しくはあったが、仲居が食事をテーブルに並べてくれたので、遅れて食欲が湧いてきた。
◆
一日目は彩り豊かな和食懐石。二日目は和牛しゃぶしゃぶ。三日目はお寿司がメインのコース……と、毎度豪華な食事が運ばれてきた。一体どれくらいお金がかかっているのだろうと疑問に感じたが、聞くのが怖くて口に出せなかった。
美味しい料理に舌鼓を打った後は、毎晩湯巡りの日々だった。仄香たちが泊まる旅館には、内湯や寝湯、露天風呂を備える大浴場の他に全十五室の貸切風呂もあり、一週間滞在しても回りきれないほどだった。
この旅行は未来を変えるための行いとはいえ、仄香自身のリフレッシュにもなっていた。
いつもとは違う環境下であるためか、日頃の不安や嫌なことから思考を切り離すことができた。あの未来に大きく荷担するであろう志波はすぐ傍にいて、妙な真似をする心配がない。これから起こるかもしれない未来のことも、日々頭を悩ませていた事柄についても、あまり考えなくて済む。
自覚はなかったが仄香は相当ストレスを抱えていたらしく、神奈川に来てから胃の調子がよくなった。旅館で朝夕強制的にバランスの良い食事を取らされていることもあり、鏡に映る顔色もよくなった気がする。
「……こんな日がずっと続けばいいのに」
志波と旅館の部屋でくっつきながら、仄香はぼそりと呟いた。
日中はたまに外を出て観光したり、志波と恋人のようにくっついて過ごしたりしている。志波がそれを拒否することはなく、むしろ自ら仄香に体を寄せてくることもある。
「何故そう思う?」
「……未来が来てほしくないから」
今は幸せだ。夢のように。だからこそ時間を止めたくなる。
旅館生活もあと一日。今日まで無事に過ごせた。おそらく志波が飛び降り自殺を見る未来はもうやってこない。食い止められた、のかもしれない。
けれどここから帰れば不安は尽きない。志波の殺害への欲求がエスカレートしなかったというだけで、何も解決していないからだ。何だか夢の世界から現実に引き戻されてしまうようで嫌な気分だった。
「志波先輩も、休みが終わって働きたくない~とか思わないですか?」
「ずっと休んでいたいともあまり思わないが……こんな風に長期間の休みを取るのは久しぶりだった。変な感覚だ。何もしないというのは。……それにあと二つ、不可解なことがある」
志波の手が仄香の手を掴み、指と指を絡ませ合う。
「君が常に傍にいても邪魔だと感じない」
「……確かに、この一週間、本当にずっと一緒にいましたもんね」
仄香は苦笑いした。
志波は約束を守ってくれた。勝手にどこかへ行くことはなく、基本的には入浴も一緒だった。志波には律儀な一面がある気がする。
「自分以外の生命が同じ場所にいるというのは、少なからず異物感のようなものは覚えるものだ。君からはそれを感じない」
一緒にいて居心地が良いという意味なのかもしれないと思ったのは、良い方向に捉えすぎだろうか。
志波が最初に二つと言ったので、おそるおそる聞いてみる。
「……もう一つは?」
「君といると不思議と性欲が尽きない」
「そ……それ、真顔で言うことですか?」
恥ずかしげもなく真っ直ぐに目を見て告げられ、仄香の方が恥ずかしくなって手で顔を隠してしまった。
嬉しいけれど喜んでいいのか悩む。性欲というのは好意と必ずしもイコールではない。特に男性の場合は。都合の良い穴として換算されているのではないかとやや不安にもなる。
「いっぱいえっちしましたもんね……」
この旅行中の回数を数えようとすると何だか気が遠くなり、哀愁漂う表情を浮かべてしまった。
「嫌だったか?」
「ええ? そんなわけないじゃないですか」
「だろうな」
志波はナチュラルに自信家だ。実際仄香も嫌というわけではなかった。最後の方は体力がなくなってくるというだけだ。
仄香は志波に更に擦り寄り、甘えるように頬に頬を当てる。
「幸せでした」
「幸せ?」
「心があったかくなる感じです」
「…………」
「志波先輩と一緒にいると幸せです」
感情のない志波は、仄香とずっといても何も感じなかっただろう。けれど仄香にとってこの一週間は、夢見心地なまでに幸福なものだった。
「仄香」
不意に志波が仄香の名を呼ぶ。
「キスしていいか?」
志波はそう言ってまた試すように口付けた。心なしかそれは、いつもより温かいキスだった。




