未来の自分
「そっか。じゃあ今ここにいる私も、貴女の異能が予測して作り出したものであって、ここは現実じゃないのかな。そうだといいな」
自分の声だと思えなかった。
一切の気力を失ったような、細く消え入りそうな声だ。
「貴女はいつの私? もう取り返しがつかなくなった後?……って、返事なんてできないか。貴女はただ、視てるだけだもんね。いつもいつも、いつもいつもいつも。――それで、何もできない」
彼女の目の奥に揺らいでいるのは、どす黒い色を孕む憎しみだった。
「私は貴女が大嫌いだよ。紫雨華 仄香。子供で、愚かで、年相応に浅はかで。身近な人の気持ちに何一つ気付いてあげられていなかった上に、未来は悪化させた。……もしも私が過去に戻れるなら、宵宮千遥と、貴女……自分自身のことは、一番最初に殺す」
まるで、あの時の茜のようなことを言う。
宵宮のことを殺すなどという発言が、自分の口から吐き出される言葉だとは思えなかった。どこか現実味のない気持ちで眺めていると、未来の仄香はゆっくりと立ち上がる。
「取り返しが付かなくなった後と仮定して、一つだけお願いがある。今すぐ自害するか――伊緒坂尚弥と伊緒坂夏菜子のことを信じて」
その天井に、まるでこれから首吊り自殺をする準備かのような、丸く結ばれ吊るされた縄がある。
「もう貴女にできることはそれしか残ってない。特に伊緒坂夏菜子。あの人がいなかったら貴女の勝ち筋は完全に消える。悪いけれど伊緒坂夏菜子の命は貴女なんかの命よりも優先される事項だよ。最悪貴女は死んでもいい。自分の命を犠牲にしても伊緒坂夏菜子の生存は最優先に考えて」
その縄の下にある台に、彼女が一歩、一歩と上がっていく。
「私は夏菜子先輩を失った。尚弥のことも結局心のどこかで疑ってしまった。最後までぎくしゃくしたままで、なんにも話し合えなかった。ずっと尚弥との過去から目を逸らしていたかったんだ。私が未熟だったから。自分の醜さを見たくなかったから。だから被害を食い止めることができなかった。沢山人が死んだよ。咲だけじゃない。両親も、尚弥も、尚弥の親も、都内の無能力者も……私の大切だった人は皆いなくなった。全部全部悲しいけど、――私の人生最大の後悔は、茜ちゃんの命を失ってしまったこと」
彼女の頬に、つぅっと涙が伝った。
「茜ちゃんを、救ってあげて。助けられなくてもいい。救ってあげてほしい」
それは未来の自分からの、涙ながらの懇願だった。
その言葉が終わるか終わらないかくらいの時、ザザッと映像にノイズが走り、画面が映り変わった。
さっきと同じ部屋だ。けれど何か様子が違う。
足が見える。白い足。
部屋の中、縄が吊るされている。
その縄に首をかけて、大人の仄香は自殺していた。
◆
ハッ――と目を覚ます。
視界に無機質な天井が広がった。仄香は裸で、薄い布団だけ被せられていた。隣を見れば志波が寝ている。昨日、あれから同じホテルで眠って朝を迎えたのだろう。
そんな嬉しいシチュエーションのはずなのに、全く浮かれた気分にはなれなかった。ひとまず志波が今隣にいることに、心底ほっとする。
茜が死ぬ。
何よりもその事実が何度も何度もハンマーで殴るように頭を打ち付けた。
こっちが現実だよね……? と不安になり、恐る恐る志波の顔に手を伸ばす――と、パチリとその目が開かれた。
驚いて手を引っ込める。
「お、起きてたんですか」
「君が動く気配がして今起きた」
「眠り浅っ」
志波はゆっくりとした動作で上体を起こし、くぁっと欠伸をする。欠伸をするところを初めて見た。志波も生きている一人の人間なんだと今更実感する。
生きている以上は命がある。志波はどうなるのだろうか。未来の自分は志波について全く言及していなかった。それがまた怖い。
「朝食は何が食べたい? 近くの店まで送る」
仄香の見た夢のことなど何も分かっていないであろう志波が淡々と聞いてくるのを遮るように、仄香は――ベッドの上で、物凄い速度で土下座した。
「――――私のことを今すぐ好きなように殺していいので、テロに荷担するのはやめてください」
仄香にはもう、自分の身しか捧げられるものがない。
「……は?」
「お願いですっ、お願いします……!」
突然何を言っているんだというような反応をされるが、仄香は何度も「お願いします」と繰り返した。
茜が死ぬ? 家族が死ぬ? 尚弥が死ぬ? だったら、自分一人が死んだ方がいい。志波が自分の命に興味を持っているうちに、自分の命を餌に交渉を持ちかけなければいけない。
あの未来は最早志波だけの問題ではない。けれど、志波高秋を戦力から削げば被害の大きさはかなり変わるはずだ。口約束でもいい。今は少しでも安心できるような言葉が欲しい――そう思ってぎゅっと目を瞑り、志波の次の言葉を待つ。
「俺は千遥に命令されてる。それを打ち消すことはできない」
しかし、返ってきたのはそんな絶望的な回答だった。
「え……?」
顔を上げる。すぐには信じ難かった。
あの時宵宮から聞いた過去が蘇る。
宵宮と志波が高校時代に交わした契約。宵宮の異能の【命令】で命じた内容は確か、『大人になったら十年以内に、僕と一緒に日本の無能力者を全員殺そう』だったはずだ。
「そ、そんなわけないですよね? 志波先輩の【打消】はどんな異能も無効化するって……」
「あいつの異能の仕組みは知らないが、無効化できるタイミングは初期の発動時だけだった。継続的な契約の最中にいるような状態である今はできない」
「……つまり、志波先輩が宵宮先輩からの命令を断るなら、高校生の時にやらなきゃだめだったってことですか?」
声も、指先も震えた。まさか。
「命令された通り、十年以内に日本にいる無能力者を皆殺しにしないと、志波先輩は宵宮先輩の異能で死ぬってこと……?」
状況の深刻さを見誤っていた。
事態は仄香が思っていたよりも悪い状態で、どちらかを取るならどちらかを捨てなければいけなかったのだ。
体の力が抜け、泣きそうになりながら恨み言を言う。
「な、んで……何でそんな契約、交わしちゃったんですか」
今更言ったって仕方がない。志波を責めたって無意味だ。
二人が出会ったのは高校時代で、もう何年も前のこと。当時何も知らずに志波への憧れを抱くばかりだった脳天気な小学生である仄香に、それを止める隙はなかった。
「……君が遅かったからだろ」
ぽつりと志波が意味の分からないことを呟く。
ぐるぐると回り続ける頭では、その言葉を思考の中に組み込むことができなかった。それよりも、気になるのは――。
――『もしも私が過去に戻れるなら、宵宮千遥と、貴女……自分自身のことは、一番最初に殺す』
夢の中の自分の台詞が脳内に木霊する。
「……宵宮先輩が死んだら、それってどうにかなりますか」
しん、と室内が静まり返った。
動揺からよく考えもせずに不適切な発言を垂れ流していたことに気付き、「すみません」と頭を下げる。
しかし、志波は特に気にする様子もなく抑揚のない声で答えた。
「さあ? 一般的な異能の有効期間は異能力を発動している本人が生きている間だけだとは言われているが。死後何分で効果が消えるのか、明確なデータは見たことがないな」




