志波高秋の過去 ⑤
物心がついてから泣いたことはない。
他人の反応を観察した限りでは、悲しいから泣く、という単純な反応でもないようだ。人間は嬉しくても悲しくても怖くても泣く。
俺にはそれが理解できないが、他人の感情を推し量る指標としてはこれ以上ないくらいに分かりやすい反応だ。
泣き止んだ後の千遥は、もう虚ろな目をしていなかった。
「……高秋。大人になったら十年以内に、僕と一緒に日本の無能力者を全員殺そう」
俺は彼に生きる意味も与えてやった。
無能力者を皆殺しにすること。それに俺も協力することで無謀とも言える計画の実現可能性を広げたのだ。
その時ふと、千遥が俺の運命の相手なのではないかと思った。
もしそうであれば、千遥に従うこの選択が正解だ。
コロヴニコフは〝女の子〟と言った。
しかし男か女かなんてY染色体の有無でしかない。いくらあの異能力者とはいえ間違えることもあるだろう。予知結果の誤差とも言える。
それならいいと思った。そうじゃなかったとしても、彼を運命ということにしようと思った。
俺は千遥の心に入り込み、彼を利用することにした。
この退屈をどうにかできる人間なら誰でもよかった。
――……光を待ち続けるのはもう飽きたから。
俺と千遥はそれから高校卒業まで細く長く関係を持ち続けることになった。
クラスが一緒になったのは高校二年生の一年間だけだったが、千遥はクラスが別だろうが休み時間に俺に絡みに来ることが多かった。
彼は警戒心が強い分、気を許した数少ない相手には簡単に懐くように見えた。
月日は流れ高校生活も三年目の冬になった。お互い推薦で秋には進路が決まっていた。
千遥と約束していた〝大人になったら〟が刻一刻と迫っていた。
そんなある日、千遥がふと思い出したように言った。
「てかさー、高秋、いいの?」
「何がだ」
「前言ってたじゃん。悪魔にはならないって。それって、人は殺さないようにしてたってことでしょ。僕と組むなら絶対殺人はすることになるよ。僕のために信念曲げれる? 運命と僕、どっち優先してくれる? なあ」
からかうように、こちらの覚悟を試すように聞いてくる。
俺は一瞬黙った後、ぽつりと吐き捨てた。
「いや。もういい」
もう――どうでもいい。
彼女が口にした十年はとっくに過ぎた。
俺が変わるような出来事は何一つ起こっていない。
彼女が百発百中で未来を当てるというのなら、俺が最初の間違いだったということだろう。
そもそも異能力は年と共に衰えると言われている。認知機能すら衰えていたであろう死にかけの老婆の言うことを信じた俺が愚かだった。
「……ふうん。何で?」
「千遥の言う通り、馬鹿馬鹿しいことだった。予言で言われた期限は過ぎた。それらしい人物がいなかったということは、そういうことなんだろう」
「えー、じゃあもうほんとにいいんだ。僕、高秋のロマンチストなとこ嫌いじゃなかったんだけどなー。意外性あって」
武塔峰卒業前の最終課題に手を付けていた千遥は、シャープペンシルを手元で回しながらもう片方の手で頬杖をつく。
「もしかしたら、もう既にどこかで出会ってんのかもよ?」
そして、ニヤニヤしながら別の可能性を提示してきた。面白がっているのが見て取れる。
「高秋が気付いてないだけでさ。んー、そうだなあ、例えば誰かな。あ、一年生の時の職場見学で小学生の女の子助けたらしーじゃん。それって運命っぽくない?」
「たまたまそこで人質になっていたから助けただけだ。運命じゃない」
「でもその子、ずっと学校宛てにファンレター送ってくんだろ? 二年経っても忘れてないってなかなかだよ。助けてからずっと縁が切れないってことは、運命なんじゃねーの」
朧気な記憶を辿る。確かに一度、銀行強盗の現場に居合わせた時は一人の女児を助けたが、結果的に運良く助かっただけだ。
あの後第一課の担当者には指示を待たずに勝手に行動することは人質に危険が及ぶ可能性があるとこっ酷く叱られた。その記憶の方が強く、女児の顔は全く思い出せない。
「なあ、なんて名前なの。その子。今日も届いてたっしょ? 見せてよ」
最終課題そっちのけで身を乗り出してくる千遥の押しに負け、今日届いた手紙を取り出す。
内容には一応書類確認として目を通しているが、名前まではしっかり見ていなかった。花柄の女子らしい封筒の上に、丸い文字で名が書いてある。
「紫雨華仄香」
「へえ~変わった名字だね。それでしうはなって読むんだ。……うわ、溢れ出る愛がヤバいな。今中学生なんだっけ? 高秋もやるねえ」
千遥が面白そうに手紙の内容を読んでいる。
紫雨華仄香からの手紙は、毎月特段変化もないくだらないものだ。毎度、好きだの永遠の憧れだの、読んでいて体が痒くなってくるような愛の言葉が綴ってある。
「そろそろ確認も面倒だ。用がないなら送られても困る」
「そんなこと言うなよ、可愛いじゃん。この子がもうちょっと成長して、タイプだったら抱いてあげれば?」
「向けられる愛情が大きいほどそれが恨みに変わった時のリスクが大きい。そんなリスクは取らない」
君じゃないからな、という言葉は呑み込んだ。
千遥は最近、自分を好きだという複数の女を同時進行で雑に扱ってその全員から恨みを買っている。そんなリスクを負ってまで解消する性欲というのはそこまで大事なものなのだろうかと見ていて不可解だった。
「ま、この子じゃなくてもさ。出会えるといいね。〝運命の人〟」
千遥は手元にあった手紙を俺に返しながら言った。
「もういいと言ってるだろ」
「でも僕、ずっと退屈そうな顔してる高秋が変わるなら見てみたいよ。その運命とやらに高秋を渡す気はないけど」
クックッと笑った千遥は、最終課題に飽きたのか端末を弄り始める。
今日もこの後適当な女と会う約束があるのだろう。打ち込む指先がメッセージを打つ時の動きだった。
晩秋の黄昏が幕を下ろそうとしている。
空は地面に落ちる枯れ葉のように紅く、薄い雲が張り付いていた。
その、広がる赤が血の色のように目に映る。
――俺が悪魔になるまでの、タイムリミットはすぐそこだった。




