転換点 ①
夢を見た。
しんしんと雪が降っている。
美しい雪景色の中、道を歩いている人間は一人もいない。
カラスが誰も来ないゴミ置き場のゴミを漁り、ぎょろりとその黒い目を動かしている。
仄香の知る東京は、暗く寂しい場所になっていた。
『東京都は非常事態宣言の期限を当初宣言していた12月23日までから、来年2月まで延長しました。先月から相次ぐケミカルテロリズムについて、都は、再度対策本部会議を開いて対応を協議しています。また、都内全域の小学校、中学校、高校は今月19日までに全て強制閉鎖されることが確定しました。閉鎖解除の見通しは立っておりません。また、人が集まるイベントやデパートなどの大規模施設などにも休業要請が出ております。都民の皆様は、怪しいものを見たらすぐその場から離れ、通報をお願いします。繰り返しますが、これは未曾有のテロ災害です。どこも安全ではありません。皆様は第一に身の安全の確保を――』
「ねぇ、ママ~。てろりずむってなに?」
「しっ、立ち止まらないで。早く帰るわよ」
街頭テレビを見上げていた小学校低学年くらいの少年の手を、厳しい表情をした母親らしき女性が引っ張って連れて行く。
誰もいない静かな街で、街頭テレビの音だけが響いている。
『防ぐ方法はないのでしょうか』
『うーん、一般の人はまず助からないと考えた方がいいですね。都民の皆様はまず外出を控えてください』
『巷では、大量の香辛料を詰めた顔全部を覆うマスクを被ると大丈夫なんて噂が流れていますが。香辛料が各地で売り切れているとか……』
『それ、私も見ました。胡椒とか、価格の高騰が凄いですよねえ』
『アホらしいデマですよ、それ。科学的根拠は何もありません。軍では普段化学物質を使われた場合に備えて解毒剤を携帯しているそうですが、その解毒剤というのも原因となる物質が特定された状態でないと難しいようで……』
『皆さん既におっしゃっていますが、組織的な犯罪を疑うべきでしょう。それも大規模だと思います。これだけ純度の高い化学兵器は、一国の軍隊が扱うようなレベルのものですからね。開発も大変です』
次の瞬間、フッと視界が暗くなりノイズが走った後、場面が変わる。
どこかの路地裏で、咲が足を痙攣させながら壁に体重を預け、ふらふらしながらどこかへ向かっている。
「……地獄……」
咲は泣きながらぽつりと呟いた。
「じ、ごく、こんなの、現実じゃ、ない、――ッ」
言葉の途中で、彼女は地面に向かって激しく嘔吐する。
尋常ではない吐き方だった。顔も血色が悪く、紫色がかっている。
「動、け、伝えなきゃ、仄香に、――……次はやっぱり、新宿だっ、て、…………」
そこまで口にした咲は、次の瞬間地面に倒れ込んだ。
鼻と口から血を垂れ流しながら、彼女の体はぴくりとも動かなくなった。
「――――っ……」
仄香は声にならない悲鳴を上げて目を覚ます。
まだ暗い。壁に立てかけられた時計の針は午前五時を示している。昨日あれからいつの間にか気絶してしまっていたようで、素っ裸のまま、分厚い布団だけかけてもらった状態でソファベッドの上に放置されていた。
宵宮と志波の寝室は別にあるので、リビングには仄香しかいない。
汗ばむ体で起き上がり、横に投げ捨てられた宵宮のTシャツを被って立ち上がった。
(未来が変わってる……)
――咲が泣いているのを、初めて見た。
現実でないにせよ、気丈な性格である彼女が涙を流したことに少なからず動揺する。彼女は余程凄惨な光景を目にしたのだろう。
咲が死ぬ。その未来は変わっていない。
でも、場所が変わっている。それだけでなく、死因も。前回見た夢では咲が死ぬ場所は路地裏ではなかった。それに、死因は志波の異能による殺害だ。
今回の夢では咲の体に外傷は見られなかった。おそらく咲の死の直接的な原因が志波ではなくなったのだろう。
(……ケミカルテロ。前回も出てきた言葉だ。志波先輩と宵宮先輩、M.Oが指導する、未曾有のテロ……)
喉の乾きを覚えて水を飲むが、コップを手に持つ自身の指が震えていた。
仄香は大きく深呼吸して自分を落ち着かせる。
「……ここまで明確に、大きく未来の展開が変わったのは初めてだ。未来を変えるために志波先輩や宵宮先輩に接触するっていう方向性は、多分間違ってない」
咲が死ぬ夢は何度も見た。何度も何度も。けれどその内容は毎回一ミリも違わず、同じ場所、同じ状況、同じ理由で、志波と宵宮によって殺されていた。
それが変わったということは、元々嵌まっていた何かのピースが、仄香の行動によって本来あった場所から外れたのだ。
「……よし」
仄香はコップを片付けて洗面所に向かい、顔を洗って歯を磨いた。
起きるには早い時間ではあるがあんな夢を見た後で二度寝する気も起きない。
筋トレでもして気合いを入れながら、志波たちが起きるのを待っていよう――そう思ってリビングに戻った時、奥のベランダから冷たい風が吹き込んでいるのに気付いた。
カーテンが揺れているのを見て近付くと、広いベランダの椅子に志波が座っていた。
「もう起きてるんですか!?」
思わず大きな声を出すと、遠くを眺めていた志波の視線がこちらに向けられる。
その顔を見てドキリと心臓が高鳴った。昨夜散々抱き倒してきた男の視線だ。恥ずかしい記憶が鮮明に蘇ってきて俯く。
「俺はいつも五時起きだ」
「は、早っ……」
そういうところも素敵、などと思いながら顔を上げておずおずと聞く。
「……寒くないんですか?」
「寒いのは平気だ」
「そう……でしたね。ええっと、ご一緒してもいいですか」
ベランダには二つの椅子とテーブルがある。正面に座れば話し合うこともできるだろう。
志波は淡々と言った。
「キッチンに茶と珈琲のパックがある。温かいものが飲みたければ持ってこい」
「はい! 志波先輩は何かいりますか?」
「珈琲がいい」
仄香はこくこくと頷き、一度中へ戻ってカップを二つ用意した。お湯を沸かしている間に外でも寒くないよう上着を羽織り、その後準備した珈琲を持って再びベランダへ出る。
テーブルにカップを置いて椅子に座り、未だ緊張しながら頭を下げて礼を伝える。
「昨日は、大変僥倖でした……恐悦至極に存じます」
「性行為をした翌日にそんな堅苦しい言葉を使われたのは初めてだ」
「だ、だってっ、今もまだ夢みたいで、なんて言っていいか……! 志波先輩と体と体が結ばれるっていうのは志波先輩と出会った小学生の時から時々妄想していた事柄ではあるんですけど、脳内で妄想してたよりずっと良かったです」
「小学生から……。マセすぎだろう」
「何とでも言ってください。私今色んな喜びでハイになっているので、多分何言われても傷付きません」
ドヤッと得意げに言うと、志波が少しおかしそうにふっと笑った。
彼の笑顔はまだ見慣れないが、だからこそ時折その表情を向けられると心臓がギュンッとなる。
「色んな喜び、か。俺に抱かれた以外に何かあったと?」
「あ……えっと、未来が変わったんです。……志波先輩、私の親友を殺す予定だったんですよ。でもその未来が変わりました」
「へえ。俺がやりそうなことだな」
「……そこはそんなことやらないって言ってほしいです」
「君が最も仲良くしている一迅咲のことだろう。君の絶望した顔が見たければ、あれを殺すのが手っ取り早い」
「…………」
「大好きな俺と、大好きな親友。君がどちらを取るのか興味はあるな」
全く笑えず黙り込むと、志波は「冗談だ」と軽く付け足す。
志波が言うと冗談に聞こえない。




