憧れの夜
食後、食器やゴミを率先して片付け、擦り寄ってくる犬たちをワシャワシャ撫でていると、志波が仄香に「今日はここに泊まっていけ。明日の朝に寮まで送る」と言ってきた。
仄香はしばらく志波をじっと見つめ、少し残念に思いながら「はい」と返答する。
折角志波から抱いてもいいかと提案されていたのに、仄香はその途中で帰りたいなどと言ってしまった。幸運の女神に後ろ髪はない。逃したチャンスはもう戻ってこないのだ。
正直少し期待していた。食事が終わった後、もしかしたら近場のホテルに移動して夢のような一夜を過ごすことができるかもしれない……と。しかし、そのような展開はもう来ないらしい。
(私、何やってるんだろう。折角のチャンスだったのに)
イルミネーションに囲まれて雪を見た時、この嫌な予感を放置すれば後々大変なことになるような気がした。
だからデートを中断してまで宵宮に会いに来た。
――なのに何故か、胸のざわつきは収まっていない。
今すぐ何かをどうにかしなければならないという謎の焦りが心から消えない。
「…………」
「ほのぴ、何思い詰めてんの? 化粧水とか乳液ならちゃんとあるよ」
「……スキンケアの心配はしてません」
心を読めるくせにわざとらしく聞いてくる宵宮に弱々しい声で返しつつ、案内されるまま浴室に向かう。
志波は最後に入るようで、リビングのソファで電子新聞を読んでいた。
(何だろう。何か見落としてるような……)
思考しているうち、宵宮がタオルと新しい歯ブラシを出してくれたのでそれを受け取った。
そこでふと、宵宮が意味深げに笑みを深めて仄香に顔を近付ける。
「一つだけ、警告するとするならさ。ほのぴは優先順位を付けた方がいいよ」
「……え?」
「一人の人間が一度に大切にできる人間の数は限られてるし、誰かを大切にすることが他の誰かを粗末にすることと同義になることだってある。特に女の子は平等に誰も彼もを愛せないし、時間だって愛情だって有限だからね」
仄香は一瞬、口を閉ざした。
何だろう、この違和感は。
「……誰の話してますか?」
「さあ。誰だろうね?」
「宵宮先輩、たまには真面目に――……、っ」
洗面所を出ていこうとする宵宮を引き留めようとした手を取られた。
急に振り向いてきた宵宮の顔が再び仄香に接近し、その唇はいとも簡単に仄香の唇を奪ってしまう。
「高秋にはないしょね」
離れる間際、耳元で内緒話のようにそっと囁かれる。
硬直する仄香を放置して、宵宮はさっさと去っていってしまった。
(宵宮先輩、びっくりするくらいいつも通りだ……私の勘、当てにならないかも)
仄香は大きな溜め息を吐く。
宵宮の態度に拍子抜けしたおかげか嫌な予感が消えていった。全て杞憂だったかもしれない。
服を脱いで籠に入れる。
畳んだ服の上にネックレスを置いた時、ふと尚弥のことを思い出した。
――『それ付けてる限り、お前は俺の犬だから。〝命令〟な』
その瞬間、ぎゅうっと体を締め付けられるような心地がした。
尚弥から発せられる命令という言葉は仄香にとって特別な意味を持つ。幼い頃から染み付いた奴隷ごっこのせいで、過剰にその言葉を意識してしまうのだ。
……やっと外せる。
そのことに少しほっとしながらシャワーを浴びた。
入浴後、ドライヤーで髪を乾かし、宵宮に借りた寝巻きを着る。
寝巻きといってもラフなTシャツで、サイズもぶかぶかだ。けれど貸してもらえるだけで有り難いし、泊まらせてもらっている身で文句は言えない。
「あがりました!」
風呂上がりのほかほかの体で元気よくリビングに向かう。
宵宮と志波がソファの上で何やら楽しげに話しているのが見えた。本当に仲が良い。少し嫉妬してしまう程に。
(えーっと、私が寝るのに使うのはこのソファかな?)
一つ空いている眠れそうなソファベッドに遠慮がちにちょこんと座ると、ずっと新聞を読んでいたらしい正面の志波が黒縁眼鏡を外した。
(眼鏡……だと……)
ときめきすぎて鼻血が垂れそうになる。
普段裸眼の志波は、何かを読む時に眼鏡を付けるようだ。貴重なオフショットを見てしまったと内心興奮が収まらない仄香の横に無言で座った志波は、何やら妖しげな笑顔を浮かべている。
「……志波先輩?」
不思議に思って名を呼ぶが、あれよあれよという間にソファベッドの上に押し倒されてしまった。
志波の手は逃さないという意志を持って仄香の手首を押さえ付けている。
そして、その唇が仄香の首筋を吸った。ちゅう、と音がしたかと思えば、舌がその上を這った。思わず高い声を上げてしまう。
「ど、どどどどどうしたんですか。いや私は嬉しいんですけど、一体どういう……」
「抱くと言っただろう?」
仄香としては嬉しい。一向に構わない。しかし、一点だけ大いに気になることがある。
おそらく分かっていないことはないと思うが、念のためおそるおそる伝えてみる。
「あ……あの、隣に宵宮先輩いますよ?」
「それがどうした?」
志波に感情というものがおよそないのだと言うのなら、羞恥心もきっとない。
誰かがいる場所でするのは恥ずかしいと伝えても、おそらく志波には伝わらない。
「……も、勿論は私は大いにカモンという感じですが、さすがにこんなところで行為に及ぶのはよろしくないというか、他の方も住んでいる場所であることですし、よければ今から他のホテルに……」
懇切丁寧に説明を開始しようとした仄香の服の中に、志波の大きな手が入り込んでくる。追い付かない頭とは裏腹に、仄香の身体はぴくりと反応した。
「君は俺のものだという自覚がないようだからな。少し恥ずかしい目に遭った方がいい」
「ん、……ちょ、待ってください。今からでもホテルの予約を……! 私、部屋に薔薇が咲き誇ってるホテルがいいんですけど!」
「犬になりたいと言ったのはどの口だ? 躾を拒んで我が儘を言うなんて、駄目な子だな」
仄香がジタバタしているうちに志波の指が敏感な部分に到達し、「ひぅっ」と変な声を上げてしまう。
志波の方には全くやめる気がないことを悟り、ちらりとテーブルを挟んで向かい側に優雅に足を組んで座っている宵宮に目で助けを求めてみる。しかし宵宮は仄香と目が合ったというのに全く動く気配がなく、それどころかニコリと笑って告げてきた。
「濡らしすぎて僕の服汚したら後で叱るからね」
駄目だ。ここに助けてくれる人はいない。
前回だってそうだった。この二人が住んでいる空間に自ら入ったのだから、何をされたところで文句は言えない。
そういえば、前回はどうやって脱出したのだったか。
(……尚弥が助けに来てくれたんだった)
いくら尚弥でも、二度は現れてくれないだろう。
尚弥のことを考えた時、週に一度の頻度で抱かれる時に見る彼の肉体が思い出され――嫌でも子宮が疼いた。志波に組み敷かれているというのに他の男のことを考えてしまった自分に嫌悪する。
習慣というのは恐ろしく、尚弥との日々の情事はすっかり仄香の身体に刻まれてしまっているらしかった。
「……ッあっ」
「――今何を考えた?」
志波が仄香に触れる指に力を込める。
それは生易しい愛撫などではなく、本当に躾するかのような厳しさがあった。
仄香の口から情けない喘ぎ声が漏れる。
「な、っにも、考えてない、です」
「嘘を吐くな」
いくら訴えても志波の指は止まってくれない。
最初は宵宮の視線を気にしていた仄香も事が進むにつれてだんだん頭がふわふわしてきて、ただ嬌声を上げるばかりになった。
「感じやすい身体だな。初めてじゃないだろ。誰に仕込まれた?」
「……ご、めんなさい」
「謝れとは指示していない。君の初体験の相手は誰だ?」
「…………同級生です」
か細い声で正直に回答した瞬間、志波が忌々しげにちっと舌打ちする。
その絶対零度の視線に晒され、上がっていた仄香の身体の熱がさっと冷えていった。
刹那、途端に志波の指が容赦のない動きを再開する。
「さっき考えていたのも伊緒坂のことか。――いい度胸だ。君も、伊緒坂尚弥も」
志波の淡々とした声の下、何度も達した仄香は、朦朧とした意識の中で、こちらも何かしなければと使命感に駆られる。
自分ばかりが触ってもらってばかりではよくない。何せ志波は不能なのだから、こちらも努力しなければ成り立たない。そう思って今は離されている手をそこへ伸ばそうとした――が、それよりも早く志波がベルトに手をかけた。そこから出てきたモノは仄香が妄想していたものよりも大きく高く屹立していて、恐怖すら覚える程だった。
(不能とか嘘じゃん……!)
騙されたのではと隣の宵宮に対して恨みを覚えるが、一旦宵宮の存在は忘れなければ羞恥で死んでしまいそうなのでギュッと目を瞑って快楽を享受する。
――結局、夢にまで見た志波とのクリスマスセックスは、終始隣に他の人間がいるという、最低な〝はじめて〟になった。




