物寂しさを振り切って
「いつの間にこうなったのかしら」
奈緒は両腕をテーブルの上に置いて、スマホの画面を見ながら、溜息を吐いた。
「付き合った当初はもうこれがお互い最後の恋くらいの勢いと運命感じてたのに」
「ああ、そんな感じだったな。奈緒と陸は」
穏やかに答えたのは、奈緒の男友達の真斗で、奈緒より3つ歳上の28歳。短髪の、優男な風貌をしている。
「それが今や、会話もない冷めきった夫婦みたいよ。まぁ、倦怠期って言えばそれまでだけど」
「そんなもんだろ、3年も経つと」
微笑を浮かべて、真斗は言った。2人はカフェのテラス席にいる。奈緒の彼氏の陸とも真斗は友人関係にあるから、人目を気にしたりもしない。
「昨日も何に怒ったのかわからなくて、2人でテレビ見てる最中に拗ねちゃってさ。2人で同じ物を見てるのに共有できないって、味気ないし、孤独感増すわ」
「何か余計なこと言ったんだろ」
穏やかに真斗は言い、ブラックのアイスコーヒーが入ったカップを口に運んだ。
「別に、男ってよく自分より年収が上の年下の男達にお金貢げるわねって、言っただけよ」
「陸、ホストにでも行ってんの?」
面白そうに、真斗は言った。
「違うわよ。サッカーの話。陸も真斗ももう28歳でしょ?プロサッカーの現役選手よりだいたい年上じゃない。それなのに、憧れてるのか知らないけど、グッズなんか買い集めて、情けないと思わないの?」
「それを言われたら、黙るしかないかな。年上とか関係なく、好きだからさ純粋に」
「でもだったら、女子サッカーでもよくない?なんで男が男に貢いだりするの?そっちの気あるの?陸って」
「貢いでるってわけじゃないと思うけどな。単純にカッコいいと思うからだろ。男として憧れて」
「わかんないわ。プライドとかないの?明らかに自分よりイケメンでスポーツもできて年収も上の男のグッズを買う男の気分ってどうなの?幸せなの?」
「俺はサッカーに興味ないから、わからないけど、幸せなんじゃないか?好きなんだから」
「サッカーじゃなくてもさ、真斗映画好きじゃない。年下の俳優に嫉妬したりしない?」
「住む世界が違うからな。それに俺は俳優のグッズとかは買わないし」
「まぁそうよね。普通は見るだけよね。スポーツも映画も。なんであんなにユニフォームだとか、マフラーとかキーホルダーとか、アクリルスタンド?みたいなのまで集めるのかしらね」
「奈緒はそういうのないもんな」
「私は他人に憧れて生きるのが嫌なだけよ。そんなつまらない人間になりたくないだけ」
「そういう所かな」
真斗が頷きながら、言った。
「何が?」
「陸が話さなくなってるのは」
「どういうこと?」
「自分が惨めになるんじゃないか。収入も奈緒の方が今は上だし。まぁサッカーの話にしても正論と言えば正論だしな」
「やめてよ。そんな情けない男みたいに陸のこと言うの」
「散々言っといて?」
言って、真斗は笑った。
「人に言われるのと違うのよ。友達なんだから、フォローしてあげてよ」
奈緒が言うと、真斗は視線を落として、そうだな、とポツリと呟いた。
奈緒は真斗の様子が変わったのを気にもとめず、あっそうそう、と思い出したように話を続けた。
「病院紹介してくれて、ありがとね。薬飲んだら、想像力に影響出るんじゃないかと思ったけど、逆に頭がスッキリしたわ」
奈緒は作家で最近は気分が落ち込んで創作意欲もわかず苦しんでいたので、真斗が以前自分が通っていたメンタルクリニックを紹介していた。
「ああ。辛そうだったから、良くなってよかったよ。拗らせると戻るの大変だからな」
「そうみたいね、友達も同じようになってたけど、病気と思わなくてずっとそのままだったみたい。でも薬を飲んだら、すごく楽になったって言ってた」
「まぁ、薬だけで良くなるとも限らないけどな」
「そうなの?まぁとにかく、ありがとね」
奈緒に笑顔でそう言われて、真斗は心の中のつっかえが外れたような気がした。
「まぁ、俺の方が理解してるからな、奈緒のことは」
思わず口に出た言葉を、撤回するように真斗は奈緒を見た。
奈緒は気にしているのか、いないのかわからない、真顔で真斗を見ていた。
「いや、別に深い意味は、、、」
歯切れ悪く、真斗は言いながら、頭を掻いた。
「ごめん。そういう気、私全然ないから」
奈緒は真面目な口調で言うと、腕を組んで真斗から視線を逸らした。
「確かに真斗の存在には助けられてるけど、真斗が陸よりも私を理解してるとか、そういう風に思ったこともないし」
「いや、だからつい口から出ただけで」
「そういうのが、本音じゃないの?いつからそう思うようになったの?私が病んだ時から?人が弱ってるところにかこつけて?」
「いや、だからそういうんじゃないって」
「じゃあなんなの?」
「俺は奈緒のこと、大切に思ってるだけだ。好きとか、そんなんじゃない」
「いいのよ。好きなら好きって言ってくれて。ただ私はどうしてその恋が実るなんて馬鹿な発想になったのか、理解に苦しむけど。陸とうまくいかなくなったからって、私がホイホイ真斗の方に行くと思う?私はそんな軽い女じゃないこと、ここまで付き合ってきて理解できてないのね」
「いやだから、、、」
「だから何なのよ!さっきからウジウジして!男ってもうこれだから嫌!何よ、はっきり言ってよ」
真斗は頭を掻いた。奈緒を納得させられるような言葉は浮かばない。身勝手な友人の恋人を好きになってしまって、あわよくばと思ってしまった情けない男だ。
「俺は、陸よりも自分の方が奈緒にふさわしいと思ってるよ」
真斗の言葉に、奈緒は深いため息を吐いて、一瞬目を瞑ってから、宙を見上げた。
「勘違いはもうやめて。じゃないと、もう二度と私は真斗と会えなくなる」
「勘違いって。勘違いもそりゃするだろ?いつも陸の愚痴きかされて、頼られて、俺の方がふさわしいって思うのが、普通だろ」
「やめて。そんな気まったくないから。私は友達としてして、真斗と接してただけ。それ以上も以下もないの」
「ああ、そうだろうな。俺は奈緒の言う情けない男の陸よりも、男として魅力がないんだな」
「何拗ねてるのよ。何を言ったって、私の男は陸ってだけの話なのよ。真斗がどうこうじゃなくて。お願いだから、これ以上情けなくならないで」
「じゃあ、どうなるんだ俺は。情けない俺とはもう、会わないのか?」
「はー、面倒くさいわね。もうこうなった以上、会っても仕方ないでしょ?真斗の願いが叶うことはないのよ?辛いだけよ、割り切れないなら」
真斗は黙ったまま視線を落として、それから小さく、そうだな、と言って、また黙った。
「陸には黙っててね。私も言わないから。そんな面倒なことはしないわよね?」
真斗は、ああ、と頷いた。
「じゃあ、今日で私達の関係はお終いね。いいわね?」
「ああ」
「さよなら、真斗。私がいつか振り向くなんて期待は絶対しないで、次の恋に進みなさいよ」
奈緒は言うと、椅子から立ち上がった。
真斗に背を向けて、歩き始めると、一瞬物寂しい気持ちになったが、振り切って歩をすすめた。
馬鹿馬鹿しい。どうして叶わない願いの見分けがつかないのだろう。
関係性にこだわらなければ、いつまでも同じように過ごせたのに。
好きになるがままに想いを伝えなくてよい時だってある。
真斗は私と会えるだけで幸せと思えなかったのだろうか。想いを伝えて、永遠の別れになるよりも。
そう思いながら、奈緒はふと立ち止まった。
振り返ってはいけないことはわかっている。
一瞬の期待も抱かせてはいけない。
奈緒は再び襲ってきた物寂しさをぐっと堪えて、また歩き出した。
冷たい女のまま去らなければ。真斗を傷つけることに自分が傷ついても、そうすることが、最後の真斗への優しだ。
そう強く思い、奈緒は歩き続けた。
涙など出ない。そんな別れでは、まったくない。
面倒な友人と別れただけ。ただ、それだけ。
真斗が涙を流している姿は想像できた。
でも何故か奈緒は笑けて、微笑を浮かべながら歩いた。
なんで情けないんだろうな、男ってのはこうも。
いつの間にか、清々しい気持ちになって、奈緒は空を見上げた。
昼下がりの青い空が、澄んだ空気と共に、ひとつの別れを歓迎している気がした。