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イリスがアシアへ、なぜ『導師 アシア』の助手を担いたいのかの説明しながらアシアへ向けるその瞳は先ほどまでとは違い、きらきらと好奇心に溢れた色だけではなく、そこには彼女の教育者として成すべき事を成したいといった決意の色も混ざっている。
「そう、ですね。」
確かに彼女が口にするその提案は、そのとおりだとアシアに響いた。伝聞は伝える側が持つ要らぬ情報が混ざってしまうのが、当然だ。伝言ゲームはその距離が長ければ長いほど、正確さを欠いてしまう。アシアがこの村の者たちを、茶葉の知識の伝授を通して良き方向へ、と考え実行しても、その内容が書き留められることなく伝聞となり、村人から村人へ代々引き継がれることとなれば、イリスの言うとおりとなる。
アシアが『導師 アシア』のいつ果てるかわからないその生命が果てるまで、この地に留まりアシア自身の口でアシアが持つ知識や智慧を伝え続けるのなら、イリスが懸念するようなことが起こるのは、当分先のことだ。しかし、アシアが導師でありその命の期限が果てしないとはいえ、創造主から命を与えられた宿命として、いつかはこの旅の終わりがくるだろう。アシアの生命の終わりがきてなのか、それともアシア自身が何らかの事情で、昔にこの地へ村人を導き、その後村人にこの地を託して去ってしまった先代の導師のように、この地を去ることになるのか。それはわからないが、アシアの導師として、またアシア自身がしたい、と思うこの務めは、いつかは終わりがくることは、予言ではなく避けられない確定した未来だ。
そのことを考えると、確かにイリスが提案するように、アシアの知識を、教え伝えた智慧を何かに書き留めることはとても重要なことに思える。
そして、その書き留めるといったことを担う人物も必要だ。しかも『導師 アシア』が伝えた内容をただ書き留めただけではなく、きちんとそれら内容を整理した、わかりやすい内容のモノでなければ、それが後世に役立つものになるとは思えない。
『導師 アシア』の話す内容を、伝える言葉をきちんと理解し、それを整理して書き綴ることができるこの村の人物となれば、自ずと限られてくる。
そこまでの思考に至ったアシアは、アシアを期待に満ちた瞳で見てくるイリスを改めて見遣る。
知識欲がとても強く、理解が早く、知識を智慧に変換する力がある。
権力に興味がなく、『導師 アシア』を敬いはするものの極端に畏れを抱かない。
何よりも自身の知識欲のまま得た知識を、智慧を、惜しげなく他人に教え伝えることに喜びを見出している人物。
しかも、この村に、この地に受け入れられた『人』だ。
アシアはいちど、軽く瞼を閉じてからゆっくりと開く。そしてゆっくりと開いたその琥珀色の瞳で、『導師 アシア』へ真っ直ぐ向けてくる薄茶色の瞳を捉え、
「では、お願いしましょうか。イリス。」
イリスの申し入れに、諾との返答を口にした。
「ありがとうございます。導師様。」
アシアのその返答に、ぱんと、手を叩き、弾んだ声で礼を述べたイリスに、イリスの隣に座るセドリックが、斜向かいに座るフォルスが、小さくため息を落とした。
ダンは、イリスの無謀とも思える『導師 アシア』への申し入れに、気を揉んでいるようななんともいえない表情で、アシアとイリスのやり取りを静観している。
「アシア。イリス先生の無茶を受け入れることは、ないんだぞ。」
本当に嬉しそうに無邪気な笑顔を浮かべたイリスを、セドリックは呆れたような表情で一瞥し、アシアにそうぽそり、と諫言する。
セドリックがアシアにそう諫言するその理由は、なぜなら、アシアがイリスからの申し入れに即答しなかったからだ。彼はイリスの申し入れを受け入れるのに、時間を要した。アシアが本当に欲していたならば、彼はイリスからの申し入れがあったときに、すぐに諾との返答をしたはずだ。それを彼は暫く黙考した。
それは、『導師 アシア』が、必ずしもそのような人物が必要だ、といったことではなかったからではないだろうか。
ただ、イリスの申し入れは、その理由を彼女が口にしたその内容は、当然のことだとセドリックも思えた。
彼女が言うように、伝聞は正確さを欠く。
その内容が物語程度のものなら、それでも構わない。現に、この村の成り立ちに関わったという導師の物語は口伝えだ。
けれども今回、『導師 アシア』がこの村で成そうとする彼の行動は、茶葉の効用、効能の知識の教授だ。
この村では、村人たちが自分たちの生活の中で体験的に知った香茶の効能を、生きていく上での知恵として、それこそ伝聞で残ってきているモノだ。なんとなくこうではないだろうか、といったモノだ。先人たちが体験的に知った内容が知恵袋のような形で世代間に引き継がれているモノだ。
それを『導師 アシア』は、多分に薬学に近い形でこの村に教授する、と言っている。
だとすれば、『導師 アシア』が伝える内容は、伝聞といった形で後世に残すのではなく、きちんとその内容を理解した上で、整理し、書き残すべきであり、そのことはとても重要なことである、とセドリックでも、イリスが申し入れるその理由の意味は理解できた。
とはいえ、そのことは、『人』側の視点だ。
もし『導師 アシア』も書き残すことが重要だと考えていれば、イリスの申し入れをすぐに呑んだだろう。
それを、彼はほんの少しの時間とはいえ、黙考した。それは、『導師 アシア』として、彼女の申し入れを受け入れることに、何か懸念材料があったからではないだろうか、といった考えが、セドリックの中に浮かんだ。
ゆえに『友人 アシア』は彼女の申し入れを受けることに、なんらかしらの無理をしていないか、と、心配があっての諫言だった。
『人』側のメリットだけで、『友人 アシア』の気が乗らないことを、また『導師 アシア』として懸念される材料が残っていることを受け入れることはない、とセドリックは思う。
それは、違うのではないか、と。
それによって『友人 アシア』が傷つくことがあるのではないだろうか、といった漠然とした心配だった。
『導師 アシア』は、導師でありながら、『人』に愛着はないようにセドリックは感じているし、実際にそうであると、アシアも認めている。そのことで、彼は彼自身のことを導師失格ではないかと、どこかで感じ、思い悩んでいることも、セドリックは知っている。
そのアシアが、今、この村の森に居を構え、村人に茶葉に関する知識を伝えたいといった彼からの申し出は、セドリックからすれば少し意外だと思わないこともなかった。
その申し出は、セドリックの自惚れかもしれないが、アシアが『友人 セドリック』と親交を深めたいがための申し出ではないだろうか、ともセドリックは感じている。
だから、今回の彼のこの申し出は、『人』がとても好きで、だから『人』のために何かを成したい、といった『導師』としての単純で純粋な使命感による感情からではないようにセドリックは思っている。
だからこそ、『友人 アシア』は、彼の持つ感情を抑えてどこか無理をしていないか、といった心配がセドリックにはあった。
『人 イリス』からの申し入れに、『人』からの申し入れに『導師 アシア』が応えなければならない、といったアシアが思い描いている『導師』としてあるべき姿の責任で、何かを無理して受け入れたのではないだろうか、と。アシアが抱いている心の奥底にある感情を押し殺し、無理を受け入れれば、どこかでそれは必ず歪が生じる。生じた歪は、いつかどこかでどのような形なのか予測はできないが、間違いなく表出するだろう。表出したときに、『友人 アシア』は、その現象に傷つきはしないか、といった心配があった。それゆえの諫言だった。