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根っからの研究者であるイリスにとって、回帰した導師がその導師としての務めを果たしたいというその内容は、とても興味の惹かれる内容だった。
この地の森で採取し、飲用している茶葉の効用・効能について、『導師 アシア』は彼が持つ知識と智慧を惜しげなくこの村に伝授するという。
しかも、『導師 アシア』とお茶会を共にしたという村人から漏れ聞こえてきた話では、『導師 アシア』の講和の内容は系統立てられていて、とてもわかりやすかったようだ。
その『導師 アシア』が果たしたいという務めを手伝う機会は、それはイリスにとって、また研究者からすればまたとないチャンスに思えた。しかもこの世界で稀有な存在である、導師が成そうとする手伝いである。
この機を逃せば、このような巡り合いは生涯もう二度と来ないだろう。
そう考えに至ったイリスの研究者としての血が騒いだ結果、彼女の口から吐いて出た発言だった。
アシアにアシアの手伝いを申し入れるイリスのその薄茶色の大きな瞳は、好奇心で満ちているようにアシアには見える。それは、子どもがわくわく感をいっぱいにした、その心で以って見上げてくる姿と、同じだ。
そのイリスへ、イリスの斜向かいに座るフォルスが、孫を窘めるかのように小さな声で、これっ、と呟いたが、イリスは気に介さず
「つまり、『導師 アシア』様の助手は要りませんか、ということです。」
イリスの夫であるアルビーも、なんなら駆り出すとも付け加えた。
イリスのその様子に、セドリックが小さなため息を落とす。このようなイリスの姿を見るのは、好奇心に満ち溢れた瞳で図書室の本を抱え、この村の野や森で見かけた、彼女の幼い頃以来だ。この状態のイリスを止めることができる者は、セドリックが知る限り村人の中では誰もいない。夫であるアルビーでも、難しいだろう。もしかすれば反対にアルビーもイリスと同じ研究者肌である分、イリスを引き止めるのではなくて、イリスと一緒に頼み込む側かもしれない。
「そうですね。」
アシアはイリスからの突然のその申し入れに、諾とも否とも即答することなく、黙考した。
イリスのその頼みごとについては、アシアにとって受け入れる謂れはない。アシアが茶葉に関する知識や智慧の伝授を、と考えている内容は『導師 アシア』がこの村人に成したいことであって、『人』の助けが必要な内容ではない。どちらかといえばイリスやアルビーが『導師 アシア』の助手となることで、この村の中で諍いが起きないか、といったことがアシアには懸念された。
この村にとって『導師』は、気が遠くなるくらい遥か昔から回帰を願っていた相手だ。感謝の念を忘れることなく抱き、多分に創世記近くから代々に渡りこの時まで、村人から村人に口伝え、伝話として残っているくらい、再び邂逅する時を切に願い、待っていた者だ。
その待ち焦がれていた導師が回帰し、この地に居を構え導師としての活動を、この地のみで行いたいとの、この『導師 アシア』が示す言葉は、それが現実になればその『導師 アシア』の行動は特別感がある。その特別感を持つイベントに、イリスとアルビーといった特定の村人だけが関わることを、他の村人がどう思うのか。
アシアが今まで出逢ってきた『人』たちと関わってきた記憶では、『人』たちの間で導師をめぐって小さな諍いが大概つきまとっていた。諍い、とまではいかなくとも、妬み、嫉みがアシアの知らぬ間に、水面下で横行していた。
導師が導き育てたこの村であっても、そのようなことが起こらない、とは言いきれない。『人』の根本にあるモノが全てが全て、『善』ではないことを、アシアは体験的に知っている。第三者からどれだけ良い人物だと、できた人柄だと評価されている者であっても、その心の奥底には善と悪、相反するモノを持ち合わせているものだ。
それが『人』だ。
そう、アシアが気に入っている『人 セドリック』も例に漏れることはない。それにセドリック自身も、そのことに関しては認めているし、自覚もしている。
自覚しているがゆえに、彼はその感情がある程度コントロールできているのだと、アシアは思っている。ただセドリックは彼自身が持ってしまう負の感情のコントロールができるといったことだけでなく、彼が諍いや妬み、嫉みといったこととの縁が、他の『人』と比べあまり近くないようにアシアが感じるのは、彼が持って生まれたその性格の特性もあるようにも思う。
また、アシアがイリスの申し入れを受けることに対して懸念することはそれだけではなく、他の村人からイリスたちへ向ける嫉み以外に、もうひとつあった。それは、イリスもアルビーも、『導師 アシア』へ取り入ろうとする気持ちを根底に持っていないか、ということだ。
この世界で稀有な存在で、『人』とは魂の格が違い、『人』の目からすれば数々の奇跡をこともなげにできる『導師』。その『導師』に取り入ることで、『人』が決してその手に持つことができない、『人』の目からすれば奇跡と映る力を得ることができるのではないかといったような、邪な期待や考えを持っていないか、ということだった。
アシアは友人として自らが欲した『人 セドリック』に対しても、その疑念を抱いたのだ。
それは、アシアの心の奥底には、今までの長い経験から『人』に対して信用を置いていないといった気持ちが多からず、あるところからくる。アシアが信に足る、と思っている『人 セドリック』に対してもその疑念を抱き、彼を試してしまうくらいに、ソレはアシアの魂に染み付いてしまっている。人を導く命を創造主から託され、この地に降り立った者『導師 アシア』なのに、だ。
コレは導師としての役割を果たす者としては、致命的な欠陥に近い。アシアが『人』に対して持つ感情が「嫌い」といった断定的なものではなく、「好きでも嫌いでもない」、といった曖昧な感情であることが救いだ。
『導師 アシア』は『人』を信用しきっていない。
だから、アシアは『人 イリス』を信用しきれなかった。ゆえに、彼女からの申し入れに、ありがたく諾、との返答を即答できなかった。それは、彼女が『導師 アシア』の助手を務めることにより、『人』たちが勝手に付随させる特権を欲してはいないのだろうか、といった疑念がアシアの心の片隅に頭を出したからだ。
「駄目ですか?導師様。」
イリスは黙考してしまったアシアに、子どものような期待に満ちた濁りのない瞳を向ける。
イリスからそのような視線を受け、アシアは図書室でイリスと初めて出逢った場面が記憶に蘇ってきた。あの時、彼女はディフが『人』の子どもだと知ると、ディフが『導師 アシア』の同伴者だといったことが彼女の頭からすっ飛んだようで、彼女は彼へ村の子どもたちへ普段とおりの教育を施すかのように、アシアを意図的ではなかったにしろ無視するような形で、ディフだけを、彼女はただただディフだけに一瞬で向き合っていた。
そのイリスの対応からアシアが彼女に持った印象は、研究者だった。オウカ国にもごくひと握りだけ存在する、研究者肌の者、といった印象を持った。
彼女からまるで子どものような好奇心に満ちた瞳を向けられたアシアは、彼女は権力よりも物事の真相解明に多分に興味を持つ者だ、ということを思い出した。またそれと同じくらいに、人を育てることに心血を注ぐ者だということも。
図書室でアシアがイリスに最初に持ったそのような印象は、それ以降も、ディフを図書室へ送り届けたとき、迎えに行ったときも、アシアの中で変化はしなかった。なぜなら彼女は『導師 アシア』へ極端な畏れを持つことなく、アシアへは敬いの態度を示すものの、アシアが今まで出逢ってきた多くの『人』が見せた『導師 アシア』への執着はなく、ディフにだけ真っ直ぐに向き合っていたからだ。
イリスは『導師 アシア』と出逢うこと、『導師 アシア』と言葉を交わすことよりも、ディフに物事を教えることの方に興味を持ち、そして教え伝えることがとても楽しげに見えた。
『導師 アシア』を中心に見るのではなく、ディフを中心に彼女は接してきていた。
それらの彼女の態度から考えるに、彼女はセドリックとは違った意味で、権力や特権、『人』たちの中で自分が有利な立場になる力を得る、といったことへの興味を持つ者から遠い位置に立つ者だ。
そのイリスの伴侶であるアルビーも、ほぼ彼女と特質は変わらないだろうと推測できた。
「導師様が教授してくださるその内容を、私は纏め上げ、紙に書きとめてこの村に残したいんです。」
口伝えだけだとどこかで間違った方向へ進んでしまう恐れもありますから、とイリスはなぜ『導師 アシア』の助手を務めたいのかの理由を口にする。