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「長老フォルス。顔をあげてください。」
アシアから名を呼ばれ、更に深く頭をたれたフォルスに、アシアは顔をあげるように伝える。
アシアがそのように声をかけたことでようやく、フォルスはその顔をあげた。
「セドリック、ダン、イリスも、顔をあげてください。」
アシアの今までの経験から、彼ら『人』は上座に座る者からの許しがないと、顔をあげることも言葉を発することもしない。ゆえに、アシアは顔をあげることの許可を口にした。
アシアから許しを得たセドリック、ダン、イリスは深く頭をたれていたその体勢からゆっくりと、顔をあげ、アシアを見上げた。
顔をあげ、アシアを見上げたセドリックが、微かにその顔をしかめる。アシアの導師然とした穏やかな笑みを湛えているその表情から、アシアがこの状況を、不快に思っていることに気が付いたようだ。
気が付いたセドリックが何か言葉を発するかと、アシアは期待したが、セドリックは小さく首を横に振り、何のアクションも起こさなかった。
彼はアシアの友人としてではなく、村長の立場でこの場に居るのだから、それは仕方がないことなのかもしれない。それでも、アシアの雰囲気から少しは助け舟を出してくれるかも、といった期待を外されたアシアは落胆したが、その心情を面には出さず、導師然とした表情は崩さず穏やかな笑みを湛えたまま、この場に居る者を見渡した。
アシアの、その穏やかな微笑を受けて、フォルス、ダンはどことなく安堵したような表情を浮かべる。彼らは『導師 アシア』へ不敬な態度を取っていないのか、心配だったようだ。イリスは、アシアと視線が合うと、彼女の物怖じしない性格からか、アシアに対して畏れの表情はなく、いつもの無邪気な笑みを浮かべる。それはイリスのもともとの性格もあるのかもしれないが、もしかしたら彼女は王都で過ごしていた間、フォルスやダンとは違い、権力者と面会する機会が何度かあり、場慣れしている部分もあるのかもしれない。
「どうぞ、椅子に腰を掛けてください。」
アシアは右掌を上にして空いている椅子を指し示し、この場に居る者たちへ、椅子に座る許可を口にする。これは彼ら『人』にとって、上位の者からの命だ。
が。
「いえ、私たちは。」
長老フォルスはアシアからの命を、少しの驚きと畏れの表情とともにすぐに固辞をした。そして彼は、固辞をした言葉を発したとたん、しまった、といった顔つきとなり、たちまち顔色がなくなる。
彼のその態度から、アシアの命への固辞は、反射的だったようだ。そもそも畏まった場所で権力の上位の者が下位の者に、同席を求めることは、まずあり得ない。本来であれば彼ら農民といった庶民の者が、領主といった貴族のような権力や地位が上の者と同席するといった行為は不敬になる。権力者と同じ場に居る場合は、このように跪くのが普通だ。せいぜい顔をあげる許可を得て、顔を見て話せるところが精一杯の場面だ。顔をあげる許可を得ることもない場合も多い。地位の低い者が顔を見て、目を見て話すことすら不敬だと憤る権力者も少なくはない。
それが、神に近しいと彼らが思っている『導師』から、同席を求められるとは全く想像もしていなかったのだろう。ゆえにフォルスは反射的に断ったのだろうとは思う。
けれども、上位の者の命を即座に断ること自体、彼ら『人』の中では不敬になる。下手をしたら、この場に居るもの全てが権力者から命を取られる案件だ。だからそれに気付いたフォルスは、すぐさま顔色をなくした。
そのフォルスへアシアは、
「僕からフォルスへ、お願いしたいことがあるのです。この状態だとお願いし難いですので、どうぞ椅子へ座ってください。」
ふわり、と微笑んで再度椅子へ座ることを勧めた。
アシアの変わらない態度と微笑から、『導師 アシア』がフォルスの態度に気分を害していないと受け取ったフォルスは、ほっとした表情を浮かべる。しかし、アシアが気分を害していないことに胸をなでおろしはしたが、『導師 アシア』から再度着席するよう勧められ、フォルスは戸惑った。
それはフォルスが長老と呼ばれるこの年齢の今まで、上位の者と同席したことなどなかったからだ。権力者と同じように着席するよう勧められたことなど、一度もない。領主から呼び出しを受け、領主宅へ訪なったことが数度あったが、そのときもフォルスはこのように領主から少し離れた位置に跪き、伺いを立てていた。許しがあったのは、顔をあげて話すことまでだった。
つまりフォルスは、上位の者と同席を勧められるような経験を今まで持ったことがなく、このような場で、上位の者から同席を求められた場合どのように振舞うのが正解なのか、フォルスには判断がつかなかった。言われるがまま、勧められるがまま、着席しないことが不敬に当たるのか。それとも、この下命は社交辞令であり、素直に従う方が不敬に当たるのか。
フォルスは戸惑いの表情を浮かべたまま、目前の椅子に座っているアシアを見上げる。
フォルスは『導師 アシア』と利き茶の席をともにした村人から、セドリックがこの村に招いた『アシア』という人物は奇跡を起こす者だ、と、そう聞いている。『アシア』は確かに『導師様』だ、と幾人もの村人からそのような報告をフォルスは受けている。
『導師 アシア』はたおやかで、柔らかな微笑を常に湛え、茶葉について講義する様には厳しさはなく、物腰柔らかくとても優しい雰囲気を纏っている、とも。また、茶葉にも造詣が深い、と。茶葉は村人たちが美味しく飲用する物だけではなく、その茶葉の中には薬効のある成分を含むものもある、と、村人たちからすればとても重要で貴重だと思われる『導師 アシア』が持つその知識を、『導師 アシア』は惜しげもなく利き茶に参加した者に教授していると、フォルスは聞いている。
また、『導師 アシア』が連れている『人』の子どもは彼の従僕ではなく、『導師 アシア』が彼の旅の道中で飢えにより衰弱していた『人』の子を、彼の憐れみで以って保護したのだとも、聞いていた。
彼らから聞き及ぶそのような『導師 アシア』は人格者だと、フォルスは受け取っていた。ならば『導師 アシア』の、この着席の勧めも、社交辞令ではない可能性が高い。
しかし、そうはいっても、社交辞令ではないといった確約はどこにもない。
もし、判断を誤れば?
村人たちが『導師 アシア』と場をともにしたのは、多い者で2回だ。しかも時間的には、1時間にも満たない。その短い時間、場をともにしただけの印象で、『導師 アシア』を測って良いものなのかどうなのか。人格者だと、信じて良いものなのだろうか、と、フォルスに迷いが生じる。
フォルスが判断を誤ったときに、『神に近しい者』から受ける罰がどのようなものなのか、想像がつかないことも『導師 アシア』のその申し出に対して、フォルスが即座に判断できない理由でもあった。
そう。『導師 アシア』は本物の『導師様』だ。
騙りでは決してない、本当に『神に近しい者』だ。それは疑いようがない。今、フォルスの目前で椅子に座り、柔らかな笑みを浮かべている彼からは、人が発することができない、厳かな空気が流れてきている感じを受ける。
確かにこの青年は、畏れ敬い、感謝すべき『導師様』で間違いはないだろう。代々この村に語られてきた、奉るお方だ。フォルス自身も感謝の物語を伝えてきている、村の先人をこの豊かな地に導き、先人が生きていける術を、知識を、智慧を惜しみなく与えたもうた『導師様』だ。『導師 アシア』が村人を導いた当人でなくとも、感謝すべき『導師様』であることは、間違いがない。
だから余計に、フォルスに判断の迷いが生まれる。
感謝すべきお方だからこそ、粗相があってはならない。
フォルスが判断を誤り、『導師 アシア』からの罰を受けるとしても、『神に近しい者』のその罰とは、どのようなものなのか想像に難く、その罰をフォルスのみが受けるのならまだしも、この場に居合わせている、セドリック、ダン、イリスにまで至ってしまったなら。
さまざまな考えがよぎり、判断に迷って固まってしまったフォルスに、
「長老。」
とフォルスの隣で跪いているセドリックがフォルスに声をかけると、
「『導師 アシア』様が、ああおっしゃってくださっている。着座をしよう。」
セドリックはそう静かに告げる。そしてフォルスの返事を待たず立ち上がり、テーブルに近付き迷うことなく椅子を引くと、アシアに一礼して座った。
今までフォルスの隣で跪き、『導師 アシア』に頭を深く垂れていたセドリックの、その前触れのない大胆な行動に、フォルスは引き止める言葉を発することもできず、驚いた表情のまま、セドリックのその行動を目で追いかけるだけだった。




