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遥か昔、アシアはオウカ国の森の中で、少し親しくなった『人』に、アシアが水球を口に含んだところを見られたことがある。
アシアのその行為を目撃した『人』は、自分にもその水球を与えてくれ、と懇願してきた。そのとき、何故、その『人』はその水球を求めるのか、アシアにはわからなかった。確かにこの水球は、創造主の祝福を受けている森において、朝の陽の光を浴びた朝露を集めた、少し特殊なモノだとは思ってはいたが、それは『導師』にだけであって『人』にとっては何の変哲もない、たんなる水球でしかない。
そのときは、いったんはアシアは『人』からのその要求を断った。それは『人』にとって意味のないモノだからだ。しかし、『人』も食い下がりその要求を収めることがなかったため、最終的にアシアは与えた。
あのときは、アシアが勧めたのではない。『人』から懇願されて、与えた。
あのときの、その『人』のギラついた、欲望の塊のような卑しい瞳の色はどれだけ時間を経ても、アシアの脳裏から離れることはない。親しくしていたときは、そのような欲望を表に出すような『人』ではなかった。穏やかで、権力や地位などといったモノは興味がない、といった体で、他の人たちと接していた、人望厚き『人』だった。アシアの教えにも真摯に耳を傾け、それを体現し、さらに他の人たちにも伝えてくれていた『人』だった。
それが、アシアが朝露を口に含む行為を目にしたとたん、あのように豹変した。
「飲んだその『人』は、何か言っていたか?」
そう訊ねられたアシアは、
「何も。」
それも即座にそう返事をした。
そう、何も、だ。
口に含んだあとの落胆した『人』の表情も姿も、さっきの出来事のようにアシアは鮮明に思い出すことができる。
『人』は何を期待して、その水球を飲んだのか。
『導師』になれる、とでも思ったのだろうか。『人』の魂から『導師』の魂へと変化を遂げるとでも、期待したのだろうか。
『導師』の、何の力を『人』は得たかったのだろうか。
アシアに懇願し、何かに期待しながら水球を口にした『人』は、落胆した面持ちで、姿で、アシアへは何も話すことなく、その場を立ち去った。以降、アシアはその人物を見かけることはあったが、もう、話しかけることも話しかけられることもなかった。話しかけられることがなかったのは、アシアが意図的にその『人』を避けていたからだろう。
そしてアシアは、二度と森へ足を踏み入れることを、許さなかった。
あのときの『人』の様子からセドリックがこの水球を口にしても、何かが起こることはない。コレは人にとってはただの、この森の朝露を集めただけの水だ。
それなのに、そのことがわかっているのに、何故アシアはセドリックにこの水球を口にすることを勧めてしまっているのか。セドリックへの、飲んでみるか?の問いは、自然とアシアの口から出てしまっていた。セドリックからソレが欲しいと、求められたわけでもないのに。彼は決して、『人』が見せたような物欲しそうな顔で、アシアが口に含むその様を、飲み込んだその様を見ていたわけではなかったのに。
むしろ、セドリックは真逆だった。
彼はアシアが水球を形作り、飲み込むまでの一連の流れを見る中で、アシアとの距離を友人同士から、『導師』と『人』との距離へと移行させた。アシアが水球を飲み込んだあとに見遣った彼の瞳に浮かんでいたのは、アシアへの畏れの色、だった。
ただそれが、アシアへの恐怖や異質な者を見るような色ではなかったことが、救いだった。
アシアは導師としての何か、特別なことをしたつもりは全くなかった。確かに、この森の葉々の朝露を自身の掌の上に集約させるといった、人ではできない行為を見せたが、それだけだ。風を意図的に吹かせたり、光を灯したりすることと、その行為はなんら変わりはない。同じことだ。それらの行為は、日々セドリックたちに見せている。その行為と同じことをしているつもりだったのだが、水球を飲み込んだあとセドリックへと視線を移せば、彼はアシアを魂の格が自分より上位である『導師』だとして認識した、畏れの色で以ってアシアを凝視していた。
そのセドリックの様子から、彼はアシアのこの勧めを断ることはないだろう、とアシアは思っている。アシアに対して畏れを抱いているのなら、なおさらだ。『人』が『導師』の勧めを断ることはできないだろう。
ただこの、アシアの勧めは、『友人 セドリック』にとっては、嫌がる類のモノ、かもしれない。
そう、わかりながら、何故、アシアは『友人 セドリック』にコレを勧めてしまったのか。
それは、アシアのちょっとした意地悪な気持ちからだ。
友人として接する、と言いながら、セドリックは時折、アシアに『導師』に対してへの態度を示し、アシアを『導師』として見る。いわゆるそれは、フラットな関係にはなっていない。
セドリックがアシアに対して、導師へ接する態度となってしまうのは、仕方がないことなのだと、アシアも理解している。そもそも魂の形が違うのだから、完全にフラットな関係を築くことは無理な話だ。「努力する」といった言葉をお互いが引き出し、そこに落としこめたことだけでも、とても良い結果だったとアシアは思っている。
だから、彼が時折、アシアへ友人への態度ではなく導師へ対応するような態度をしてしまうのは、仕方がないことだと、わかっている。
わかっている、が。
先ほどのように、あからさまに畏れの色でアシアを見上げてきたことは、アシアの気に少し障ってしまった。
腹立ちで以って怒るほどではないが、なんだか少し気に入らない、というのがアシアの本音だ。
そして、その気持ちが、思わず言葉に出てしまったのが、水球を飲むかとの勧めだ。
畏れの色でアシアを見ているセドリックには、『導師 アシア』のこの勧めを断ることはできないだろう、といったことは織り込み済みで、アシアは勧めた。
今、困惑の表情でアシアを見、アシアの掌の上で回転している水球を見ているセドリックに、アシアは意地悪をしてしまったと、ちょびっとだけ申し訳なさがわいた。
アシアの掌の上で、木漏れ日を受けてきらきらと輝きながら回転している水球は、本当にこの森の朝露を集めた、いわばただの水だ。人からすれば、何の変哲もない、水である。けれどもアシアがこのような形で朝露をアシアの掌に集めたこの水球は、人であるセドリックから見れば、特別な何かに思えてしまうだろう。以前、アシアに懇願し、この水球を求めた『人』のように。
しかし、セドリックはこの水球を、あの『人』のように、求めることはなかった。『導師』の力を求めるのではなく、『導師』へ畏れを抱き、アシアと一線を引いた。
ソレが気に入らなかったといって、意地の悪いことをして、困らせてしまっている、とアシアが自身の心の動きを反省し、セドリックへ差し出してしまっている己の両掌を引っ込めようとした。
が。
引こうとしたアシアの両手首をセドリックは自身の両手で掴むと、口を持っていき水球をぱくりと含んで飲み込んだ。
「…水、だな。」
セドリックが飲み込んだ銀色に輝く水球の味は、普通の水だった。強いて言えば、少し葉々の香りが、森の香りが鼻を抜けた。アシアが言うような、甘い味はしない。美味しいとはいえないが、不味くはない。そんな感想だった。
それだけだった。
アシアが、神が行う儀式のように、彼の掌に集めたモノではあったが、それを飲み込んだからといって、セドリックの身体に何の変化も見当たらない。
それを確認したセドリックが思い出したのは、大木の下でのことだ。
あの時アシアは、アシアが導師である身分を明かしたそのことを疑うセドリックに導師の力を見せ付けるため、セドリックの側に置いていた水筒に、彼はどこからともなく出現させた水をその水筒の中に満たした。その水を勧められたセドリックは、そのときも意を決してその水を口にしたが、飲んだ水は普通の、いつもセドリックが口にしている水と、なんら変わりはなかった。
今回も、そうだ。
アシアはアシアがこの森の朝露を集めた水球を口にしたときには、彼は知らず神気を発してしまうような、彼が言うように導師の力の源だと信じ得る水球ではあったが、それは人にとってはこの森の朝露を集めたたんなる水でしかなかった。
アシアはこの水球を『人』が飲んだことがあった、と言った。飲んだあと、『人』は何も言わなかった、とも口にした。しかも、即座に端的な言葉で。
つまり、セドリックがそれを口にしても、何も身体的変化は起こらないことを彼は経験上知っていたということだ。アシアはそれを知ったうえで、セドリックに水球を口にするか、と勧めたのだとセドリックは気付いた。




