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確かに、アシアはディフと一緒に森へ出かけることを、この家に着いたその日に約束していた。その約束は果たしたい、と思っていたがタイミングが合わず、今に至っている。そのチャンスが今ならば、セドリックのその提案に乗ることは悪くない。
なので、そう考えたアシアは、
「僕とセドリックたちと一緒に森へ行きましょうか、ディフ。」
エイダの傍にいるディフに、そう声をかける。そして続いてセドリックへ、
「セドリック、この家の植物の図鑑を一緒に持っていくことの許しを得たいのですが。」
図鑑の持ち出しの許可を求めた。
アシアからそのように誘われたディフの表情は、一気に嬉しそうに輝いた。
アシアはいつも、ちゃんと約束を果たしてくれる。先日、ディフとした約束事は、ディフのアシアからの要求に対して諾の返事をしなかったことが発端だったはずだ。ディフがアシアからの命に「はい」と返事をしなかったことで、アシアが困り果てた末に解決策として一緒に森へ行く事の約束をしただけのことだった。
本来なら、従僕への約束事など無視してしまっても、誰も咎めないだろうし、ディフ自身もがっかりはするが、そういうものだと諦めもできることだ。約束を守ってもらえないことで、アシアへ恨み言を言うつもりは端からない。
けれどもアシアは、ディフと出逢った当初から、彼が口にしてきたディフとの約束事はすべて守ってくれていた。
それが、ディフにはとても嬉しい。
そして、アシアと一緒に出かけられるということが、嬉しさに拍車がかかっている。
けれども。
嬉しさはあるが、ディフは従僕だ。アシアやセドリックに誘われるがまま、このまま森へ出かけることはどうなのだろうか、との思いも浮かんでくる。ディフは今朝、セドリックやエイダよりかなり遅くに起床してしまっている。そして、この家のディフがすべきだった仕事を、彼らは済ませてしまっていた。
すべきことをせず、彼らに誘われるまま森へ出かけるのではなく、留守をして、この家の残っている仕事をするのが、ディフの役割なのではないだろうか、と思う。
それにディフは昨日、図書室で教えてもらったディフの名前を書くことを、まだ覚えきれていない。今日も練習をしないと、書き方を忘れてしまうのではないか、といった恐れもあった。
ディフにはこの家の仕事を終え、午後の休憩時間に図書室へ行って、少しでも文字を学びたい気持ちも強くある。
「図鑑か?別に構わないぞ。」
アシアが図鑑の持ち出しを要求するその意図について察したセドリックは、快くその要求を受け入れる。
ディフが、自身が森へ出かけることに関して色々と考えている間に、着々とディフもアシアたちと一緒に森へ行くような段取りが組まれていく。
「弁当はできているし、あとは、そうだな。」
セドリックは勝手口で静かに座って待っているウルフの名を呼ぶと、
「ジョイを連れてきてくれ。ジョイが揃ったら出発しよう。」
と、ウルフにジョイを連れてくるよう声をかけた。
ウルフはセドリックの依頼の意がわかったのか、ひと吼えするとたちまちジョイが作業しているのであろう場所へと駆けて行った。
そのセドリックとアシアに、ディフは、あの、と
「ボク、やっぱり家の仕事をしながら、お留守番をします。」
そう、言葉を発した。
思い返せば、そもそもアシアは最初、ディフを森へ連れて行くことを躊躇っていた。それは、ディフのような子どもが一緒だと足手まといになるからに違いなく、今回の森へ行くメンバーも大人ばかりで子どもはディフだけだ。エイダも一緒なら、と思ったが、弁当箱の数から思うに、エイダの分は入っていないだろう。だから、エイダは彼らについて行くことはなく留守番、だということだと推測できた。
アシアの、約束を守ってくれるその言葉は嬉しい。だけれども、その約束を守ることで、自分が彼らの足を引っ張るようなことにはしたくはない。
ディフは自身がお荷物、だと疎まれることは、イヤだった。
養親宅では、ディフはずっと、彼ら家族のお荷物だったのだ。無駄飯を食べさせる余裕はない、と言われていた。確かに、養親たちの生活は、セドリックのこの家の現状をみると、かなり貧しかったのだと、今はわかる。そして、養親宅だけが村の中で飛び抜けて貧しかったのではなく、あの村の中のどの家も、よく似た状況だった。だから、あの生活が普通、平均的なのだとディフは思っていた。しかしそうは言っても、ディフはこの村へ来るまで見てきた風景から、本当にあの村が平均的で、セドリックたちのこの村が裕福なのかもしれない、と思わなくはないのだが。
養親宅で世話になっているときは、三食を毎日食べることはもちろんなく、おやつだなんてとんでもないことだった。それは、ディフにだけではなく、養親や義兄、村の人たちもそうだった。いつも空腹を抱えていたし、それが普通だった。だから、村人の誰もが満腹感を知らない状況だったのだと思う。
その厳しい生活の中で、家族の中にひとりでもお荷物を抱えることは、自分たちの口に入る食べ物が減る、ということで、それは生命に直結することだった。
だから、ディフは大人の命ずるまま働いた。義兄だってディフほど養親から辛く当たられることはなかったけれど、それでも彼もひもじさの中、働いていた。
働かないと食料を得ることができず、食料を得ることができなければ飢えて死ぬだけだからだ。働いていても、天候などに左右され、収穫が満足に得られないこともある。収穫が満足に得られていても、ほとんどを税として収めなければならず、手元に残るのはホンの僅かなものだった。真面目に働いていても、飢えは身近にあった。飢えとの距離は、弱者であればあるほど近かった。
だから、ディフは捨てられた。
それは、彼らが生きていくための選択だった。たんなる荷物でしかなくなったディフは、彼らが生きていくために切り捨てなければならない、弱い子どもだった。ディフが先頭で切り捨てられたのは、ディフは彼らの家族ではない、異分子だったからだ。
ディフはもう、養親宅に居たときのようなお荷物には、なりたくなかった。
アシアは父ではない。ましてや、家族でもない。ディフの『だんなさま』だ。
セドリックも、エイダも、ジョイもディフの家族ではない。
だから、ディフが再びお荷物に成り果てれば、また、捨てられてしまう。
父の姿を重ねてしまっているアシアからは、ディフは絶対に捨てられたくなかった。アシアから捨てられないようにするためには、アシアの役に立つ従僕にならなければならない。そのために、知識が必要であり、知識を得るために勉強をしなければ、と考えたのだ。
その考えのもと、イリスが待つ図書室に昨日、出かけたのであって、それを1日で終わらせるわけにはいかなかった。自分の名前すら、満足に書けないこの状況では話にならない。
「ディフ?」
ディフの断りの言葉に、この場に居る大人たちが少し目を見開く。アシアが帰ってくるまでの、セドリックとディフとのやり取りでは、彼は森へ行くことを楽しみしていたはずだった。それがいざ、そのことが現実味を帯びてくると、彼は尻込みをしてしまっている。今までもそうだった。セドリックはディフが、仕事をしなければならない、といった呪縛にまた捕まってしまったのではないかと、思った。彼の今までの不遇な境遇から、その呪縛はディフをなかなか離してはくれないようだ。もうディフは、彼の身を削ってまで、彼の子どもらしいやりたいこと、願い事を諦めてまで、下僕のように仕事をしなければならない立場ではないのに。
この呪縛からなかなか解き放たれないのは、彼の今まで生きてきた境遇からに加え、彼のアシアへの想いの強さが絡まってのことだとセドリックは見ている。ディフが生まれて初めて彼を庇護してくれた親鳥がアシアであり、その刷り込み現象なのではないかと。
「なーんかさぁ、ウルフがオレを呼びに来たんだけど、森に行くの?父さん。」
そのとき、勝手口からウルフの吼える声と、ウルフに呼ばれたジョイがそう言いながら厨房に入ってきた。厨房の勝手口すぐ傍に居るアシアに気付くと、ジョイは丁寧な朝の挨拶をする。そのジョイのいつもの調子に、この場の空気がいったん途切れた。
「あれ?もう出発?オレ待ちだった?」
空の麻袋をいくつか持っているセドリックの姿に、ジョイはそう言いながら、その麻袋を受け取るためにセドリックに近付く。
「あ。お弁当もあるじゃん。ディフ、森で一緒に食べような。」
テーブルの上に置いてある弁当箱を目聡く見つけたジョイは、その横にエイダと供にいるディフに、ニパッと笑いながらそう声をかけた。この状況からジョイはディフも当然一緒に行くのだと思っている。
「森へは今から出かけて、昼過ぎには家に戻ってくる段取りだ。家の手伝いはそれからでも大丈夫だ、ディフ。」
ジョイの、今までの彼らのやり取りを知らないままのディフへの暢気な声かけに、セドリックがその機に乗じる。
「今日もアシアとエイダと俺は利き茶へ行くことになっているし、俺たちが利き茶へ行っている間は、ディフには図書室で過ごしていて欲しいと思っている。森へ行くのは人手がいるんだ。」
だからディフにも同行して欲しい、とセドリックは再度誘う。
セドリックはディフに手伝って欲しいと言う。ディフの森への同行は、彼らのお荷物ではなく必要な人手だと、言っている。
「図鑑の持ち出しの許可をセドリックからもらいましたから、森でも図鑑を見ながら勉強ができますよ。ただし、僕が教えることにはなるのですが。」
イリスのほうが良いのかもしれませんが、と申し訳なさそうなアシアのその言葉に、ディフは即座に、そのようなことはない、と口にする。
彼ら大人のその言葉に、ディフが森行きに同行することのお荷物感はない。仕事を手伝って欲しいと言われれば、それに断る理由はない。勉強ができる、と言われれば同行する方が良いように思える。アシアが教えてくれるというのなら、なおさら行きたい、と思う。
「導師様に教えていただいて、茶葉を摘んできてくれたら、私は嬉しいわ。」
ディフの隣に立っているエイダが柔らかな笑みを浮かべ、ディフの背中にそっと手を添える。
エイダのそれが最後の一押しになった。ディフは、はい、と答えていた。
何のことかわからないジョイは、ディフと大人たちのやり取りを黙って見ていたが、話がひと段落した雰囲気からテーブルに置いている弁当箱を取りに近付く。
「お。おかずが少し残っているじゃん。」
テーブルの上にある弁当箱の傍に置かれたボールのひとつに、バケットに挟み込めずに余ってしまっている中身を見つけたジョイは、そのボールに手を伸ばす。それは先ほど、ディフがエイダの手から食べさせてもらっていたおかずの残りだ。エイダに食べさせてもらっていたあの状況を、ジョイに見られることがなくて良かった、とディフは胸をなでおろす。きっとあの状況をジョイが見たならば、彼はディフに対して良い感情を持たなくなるだろう。せっかく親切にしてもらっているのに、ジョイから辛く当たられるのは想像するだけでディフは気持ちの良いものではなかった。
ジョイはスプーンを持つとボールに残っている僅かなおかずを掻き集める。ディフは、彼はそのままそのスプーンを自身の口に運び、食べるのかと思って彼の手の動きを見ていたのだが。
「ディフ、あーん。」
ジョイはそう言って、ディフにスプーンを差し出した。
彼のその行動は、ディフが想像していたのとは全く違っていた。ジョイは、先ほどエイダがディフに向けてしていたことと同じようなことをしてきた。エイダとディフとのやり取りを、彼は見ていないはずなのに。
「残り物を捨てるのは、もったいないから。だから、ほら、口を開けて。」
戸惑いの表情でジョイを見上げるディフに、ジョイはニパッとセドリックに似た笑みと、エイダと同じような科白を言いながら、スプーンを差し出す。
ディフの背中に添えられているエイダの手が、優しくディフの背を叩く。そのエイダをディフは見ると、彼女は、ふふっ、と微笑んでいた。
戸惑ったまま口を開けたディフに、ジョイがスプーンを差し入れる。
「母さんの料理は美味いだろ?」
自慢げに彼が口にする科白もやっぱり、セドリックがディフに向けてする科白と同じモノだった。




