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いつもの朝のように窓から森へ出かけて行ったアシアをディフは見送ったあと、セドリックたちの手伝いをするため階下へ降り、
「おはようございます。」
厨房を覗きながら朝の挨拶をした。覗いた厨房はいつものように、美味しそうな香りで満たされていてディフの鼻腔をくすぐってくる。セドリックが、この家に最初に招いてくれたときに言ったように、ディフたちに毎日振舞われるエイダの料理はどれも美味しい。
そのディフの朝の挨拶に最初に答えたのは、勝手口で尾を振りながら中を覗いているウルフだった。
次いで、
「おはよう、ディフ。よく眠れたかしら。」
調理台付近で朝食の支度をしているエイダが、振り返りながら柔らかな笑顔で、ディフに朝の挨拶を返す。エイダからディフへ向けられるその、柔らかな眼差しや笑顔は、やはり面映く、いつもディフの心をくすぐり、そわそわさせてしまう。そしてそこには何故だかちょっぴり、嬉しさも混ざっている。
「ウルフ、帰ってきたんですね。」
一昨日、ディフと一緒に眠ったはずのウルフは、朝、起きたときには見当たらなく、セドリックはそのうち戻ってくる、とは言っていたが、結局昨日1日、彼はその姿を現さなかった。
セドリックからそうは言われていたが、少し心配していたディフは勝手口で尾を振り、中を覗いているウルフに、どこにいっていたの?と問いながら近付いた。そのディフに、ウルフは答えるかのように軽く何度か吼える。
「ごめんね。何を言っているのか、ボクわかんない。」
ディフへ何かを訴えるかのように何度も吼えるウルフに、ディフはしゃがみ込み、申し訳なさそうにそう答えているところに、ひと仕事を終えたかのような出で立ちのセドリックがその勝手口から帰ってきた。
帰ってきたセドリックへ、ディフは立ち上がり慌てて朝の挨拶をする。セドリックやエイダはいつも、ディフが起きるよりも遥か前から家の中の仕事を始めている。
「ボク、今から水汲みをしますね。」
ディフはアシアの従僕として、衣食住すべてをこの家で世話になっているのだ。手伝うべきところは手伝わなければならないし、彼らよりも働かなくてはならない。昨日、イリスからアシアはディフの名付け親であり、『お父さん』のような存在だ、と言ってもらったが、それはそのような存在というだけであって、アシアは決してディフの父ではないし、アシアからもそのような言葉をかけられてもいない。セドリックと初めて出逢った宿屋の食堂で、アシアがセドリックへディフとの関係を紹介するときに、セドリックの『親子か?』の問いに、アシアはうなずいてはくれたが、それはその場を誤魔化すための方便だった、ということは、ディフでもわかっていた。子どもの売り買いはあまり褒められる行為ではないことなのだと、雰囲気的に察知していたからだ。
だから、ディフはアシアが買った子どもであることは動かすことのできない事実であり、依然としてディフの身分は従僕であることは間違いがない。セドリックの家の客人はアシアであって、ディフではない。
そう思い、水桶を取りに行こうと厨房へと踵を返そうとしたディフへ、セドリックは、いや、と言うと、
「水汲みはすでに済ませた。」
何かを訴えかけるように吼えながら、足元にまつわりつくウルフをいなしながら厨房へと入る。
セドリックのその言に、え?と見上げたディフは即座に、
「ごめんなさい。」
と、謝罪の言葉で返した。
この家の世話になってから朝夕の水汲みは、ディフがセドリックから任された仕事だった。それなのに、その仕事をディフに任せていたこの家の主がすでに済ませたと、ディフに告げる。
「あの、ボク。」
今日は起床時間が遅かったのだろうか、と、セドリックから任されたそのような仕事ができない子だと呆れられているのではないかと、おずおずといった感でディフは、ごめんなさい、と謝罪の言葉を繰り返した。
そのディフへ、セドリックはその大きな手を伸ばすと彼の髪をくしゃり、と撫で、
「今日は段取りがいつもと違うから、気にするな。」
ディフを安心させるかのように、ニッと人懐こい笑顔を浮かべる。そして、
「エイダの手伝いをしてくれると、助かる。」
そう言い置いて、厨房奥の食料庫へ消えていった。その背中を見送りながらディフは撫でられた自分の頭に、知らず手を置く。
今までのディフの生活の中では、このようなことがあれば殴られていた。役立たず、と罵られていた。罰としてその後の何食かは、与えられなかった。それが当たり前の日常だった。
セドリックは、その大きな手をディフの頭へ伸ばしてくるが、その大きな手がディフを殴ったことは一度もない。いつも、ディフの髪を優しく撫でるだけだ。
セドリックもエイダもジョイも、ディフを罵ったり、怒鳴ったりすることは一度もない。
アシアに買われてから、ディフは誰からも殴られたり、怒鳴られたことがない。
アシアを筆頭にむしろ、ディフの希望を聞こうと、耳を傾けてくれる。ディフが思っていることを口にしない時の方が、彼らは哀しげな表情を浮かべるのだ。
このような世界がこの世の中にあるのだな、とディフにとっては非現実的な空間にいる感覚だった。
「エイダさん、ボク、何をお手伝いしたら良いですか?」
セドリックに頼まれたため、ディフは調理台で食事の準備をしているエイダに声をかける。
声をかけられたエイダは、そうね、と言うとその手を止め、厨房の小さなテーブルに近付くとディフを手招きした。
「まずは、お顔を洗っていらっしゃい。」
手招きされ近付いてきたディフに、エイダはテーブルの上からその手に持ったタオルを、ディフに手渡す。
「顔を洗ったら、次はいつものように暖かい香茶を飲みましょう。」
柔らかな笑顔を浮かべ、ディフにそう提案する。
「でも、ボク、今日は寝坊をしたから。」
すぐにでも手伝いたいと、と失態をなかったことにしたい旨を伝えたが、エイダはそのようなディフに、首を横に振ると、
「大丈夫。ディフは寝坊をしていないわ。」
と、笑顔を崩さず、答える。
「ディフはいつも早起きをして、お手伝いをしてくれて、嬉しく思っているの。どちらかと言えば私は、ディフはもっと寝ていても良いのに、と思っているぐらい。」
それは、少し落ち込んでいるように見えるディフへの慰めではなく、エイダの本音だ。本当に、そう思っている。
ジョイたちがディフくらいのときは、エイダやセドリックが、ディフが起きてくる時間帯よりもう少し陽が昇ってから起こしに行くのが常だった。しかも、起こしても一度で起きてくることはほとんどなかった。エイダが自分自身に振り返っても、ディフくらいの年齢のときは眠くて仕方がなかったことを憶えている。陽が昇るか昇らないかの時間帯に起きることが自然とできるようになったのは、ある程度の年齢になってからだった。
最初はディフは、慣れない場所での生活だから、気が張っていて早起きをするのかと思った。セドリックからディフは『虐げられた子ども』だった、と聞かされていたが、それも本質まで考えが至っていなかった。しかしディフと関わり彼の口にする言葉や手伝いをしてくれるその姿を見て、それがディフの今までの日常だったのだとエイダは今になってようやく理解できた。
けれどもディフは、現在は今までとは違い、『導師 アシア』に引き取られ、安心できる場所にいるはずだ。エイダたちが起床する時間帯に合わせて起きようとしなくても良いはずなのだが、彼はこの家に滞在した当初と変わらず早起きをし、この家の仕事を手伝ってくれる。
ディフの言によると『導師 アシア』は毎日、陽が昇ると同時に森へと出かけているようだ。ディフの早起きは、『導師 アシア』に起こされて、のものなのだろうか。
アシアがディフへ向ける態度からは、全くそのようには考えられないが、それでも、
「導師様が早起きなさるから、ディフも目が覚めてしまうの?」
とエイダは訊く。エイダのその問いにディフは首を横に振った。
ディフは確かに、アシアが起床し、その身支度の気配で目が覚めてしまっていることもあるかもしれない。ディフが寝ている傍らにあった温もりがなくなってしまったことによって、目が覚めるのかもしれない。けれども、ディフが完全に目覚めたときに見るアシアは、むしろディフを起こさないようにしている様子で、いつも静かに椅子に座っており、窓から望める森をその琥珀色の瞳に映している。けれどもその瞳は、その森の景色を映しているのではなくて、どこか遠く、ディフには決して見る事のできない何かを見ているようで、このままディフを置いてどこかへ行ってしまいそうな雰囲気を纏っていた。




