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アルビーはそもそも『導師』といった存在を今まで、誰からも聞いたことも聞かされたこともなく、全く知識として持ってはいなかった。村人から聞かされたときは、『導師』というのは職業のひとつだと思っていたようだ。イリスは今まで『導師』という単語は、神の名と同様に皆が知っているものだと勝手に思い込んでいたが、アルビーの発言により、『導師』の存在を信じ、日々感謝して生活しているこの村が特殊なのではないか、と考え始めていた。
この世界のすべての人々の中に浸透していない『導師』という存在。そしてそれを騙っているのかもしれない、この村への突然の来訪者。ただ、『導師』を騙ることで、何か利点があるとは思えない。
そして期せずして、その『彼』と対面できる機会は早々にやってきた。
期待半分、正体を暴いてやろうといった意気込み半分だったが、『彼』をひと目見たとたん、彼は本物の『導師様』だとイリスの中で確信に変わった。
何が、なぜ、どうして確信したのか、などといったことを、言葉にはできない。感覚だった。強いて言えば、イリスが信用しているセドリックが連れてきた人物だったから、と、それ以上に人には決して発することができない、未知の神々しさが『彼』にはあった。彼の発するあの雰囲気は、『人』が決して発することはできないものだった。
「ディフが答えたくない質問だったら、答えなくても大丈夫だから。」
イリスのディフへ迫るようなその態度に、少し困惑の表情を浮かべてしまったディフに、イリスはいつもの無邪気な笑顔を浮かべ、そう告げる。
しかし、ディフへのこの言葉かけは、意味のない免罪符だ。
きっと、このあとにイリスが訊こうとし口にする言葉たちは、ディフを傷つけるものとなるだろう、とイリスは気付いている。
イリスは、気になることはとことん突き詰めてしまいたくなる。それは悪いクセだと、イリスは重々自覚している。自覚しながらも、いつも好奇心が勝ってしまうのだ。
これが自分の仕事に関する、または研究に関する事項なら良い方向に働く。突き詰めることによって、良いものが生まれてくる。しかし、このようなセンシティブな内容の場合だと、相手を傷つけることにしかならない。普段なら、アルビーがそのようなイリスを窘めることでストッパー役を担ってくれるのだが、彼は今日もソフィーを連れて畑仕事に出かけており、イリスの傍に居ない。
「導師様がディフを買ったの?」
イリスのその質問に、ディフはうなずく。
「ディフのお父さんとお母さんから、導師様はディフを買ったのかしら?」
それには頭を振った。
「ボク、お父さんとお母さんのことは、覚えていなくて。ボクがうんと小さいときに死んじゃって。」
目を伏せ、そしてぽつりとそう言葉を落とす。その言葉を聞いたイリスは薄茶色のくるりとした目を、更に大きく見開く。ディフのこの様子から、彼の傷を抉ってしまったか、と焦る。
「辛かったら、話さなくても良いから、ね。」
少し俯いてしまったディフを覗き込み、気遣うようにそう言葉をかけたが、ディフは軽く頭を振ると、顔を上げイリスを見て、
「ボク、おじさんとおばさんのところで、ずっとお世話になっていました。そこではボク、『ノィナ』って呼ばれてたんです。」
ディフは特に表情を変えることなく答えた。
「だからボク、自分の名前は『ノィナ』だって、思っていて。」
しかし彼の小さな、働き者の証の両手は、いつの間にかぎゅっと握りしめられている。
彼の、この子どもらしからぬ働き者の証の両手は、そのような境遇で育ってきたからだ、とイリスは覚った。養親は食事を与える代わりに、この小さな子どもに彼の能力以上の労働力を強いてきたのだろう。イリスが昨日、ディフと話してみて感じた『彼は虐げられた子どもなのでは』、と勘ぐったことは、あながち間違いではなかったのだ。
「作物が採れなくなって、食べる物に困って。そしてボク、知らないおじさんに連れて行かれて。そのおじさんがボクを売っていたんだけど、ボクを買ってくれる人がなかなかいなくて。捨てられそうになっているところに、アシアがボクを買ってくれたんです。」
内容はシビアだ。
けれども彼は表情を変えず、イリスを見て淡々と話す。訊かれること、それに関して答えることで傷ついているようには、一見見えない。
それはそうだ。
イリスからアシアとの出逢いのきっかけを訊かれているが、ディフは当時のことをよくは憶えていなかった。そのような出来事があったな、とうすぼんやりとは憶えているが、そのときに自分は何を思っていたのか考えていたのか、行動していたのか。その頃の記憶に靄がかかっているようで、なぜか詳細には思い出せない。ほんの1か月くらい前の話なのに、どこか自分とは関係のない遠い出来事のような感覚だった。
「アシアがボクを買ってくれたときに、ボクに『ディフ』って名前をつけてくれたんです。」
それなのに、アシアが『ノィナ』の手を取り、『ノィナ』に視線を合わせながら『ディフ』と名付けてくれたときのことは、鮮明に覚えている。
あのときアシアの、『ノィナ』を見る琥珀色の瞳は、今まで出逢ってきた大人たちとは違い、とても優しかった。
誰もディフに触れようとしてくれなかったのに、アシアは躊躇うことなくディフの手を取り、その暖かな大きな手で包んでくれた。
そして、なによりも怒鳴り声ではなくて、柔らかな声音で意味のある名前をつけてもらったことがとても嬉しかった。また嬉しかっただけではなく、不思議と遥か遠い昔にそのように呼ばれていたような感覚がディフの中に生まれた。
『ノィナ』の記憶の限りでは、そのような名で呼ばれていたことはない。物心がついたときから『ノィナ』と呼ばれていた。
けれどもアシアから『ディフ』と呼ばれたとき、遥か遠い昔、愛しそうな優しい声色で自分が確かにそう呼ばれていたような感覚が身体の中を駆け巡った。
その声音は、顔もなにも憶えてはいない、父のようであり、母のように思えた。
ディフは彼らに手を伸ばすことは、とうに諦めて生きてきていた。『諦める』といった概念すら、持ってはいなかったのに。
そのようなことは、あり得るはずが、ないのに。
なのに。
ディフはディフの名を呼ぶアシアのその姿の中に、ディフが全く憶えてもいない『父』の存在をあのときに重ねていた。
「じゃぁ、導師様がディフの名付け親、になるのね。」
イリスのその言葉に、ディフは深い藍色の瞳を瞬く。
「ナヅケ、オヤ?」
繰り返し呟いたそのディフの言葉に、イリスは無邪気な笑顔を浮かべると、
「そう、名付け親。だって、導師様がディフの名前を付けてくれたんですものね。」
そう答える。そして、ぎゅっと握られてしまった彼の手に、イリスは自身の手をそっと置いた。
表面上は平静に見えても、ディフが傷ついていないわけがない。その証拠が、このぎゅっと握られてしまった彼の手だ。きっとディフは自身の気持ちをこの掌の中に閉じ込めているのだと、イリスは思う。
イリスは自身の好奇心に負け、ディフに問い続けたことを即座に後悔した。後悔はしたが、放ってしまった言葉は取り戻せない。無かったことにはできない。
いつもそうだ。だから、他人から疎まれ、嫌われる。浮かべる笑顔が無邪気そうに見えるから、つい、許してしまうのだけれど、と数少ない友人からも苦言を呈されたことは、一度や二度ではない。
「ナヅケオヤ。」
たどたどしく言葉をなぞるディフにイリスは、そうよ、と笑いかける。笑いかけられたディフは、ふ、と何かを考えるかのようにいったん顔を伏せたが、何かを思いついたかのか、ぱっと顔をあげてイリスを見ると、
「それって。」
と何かを訊こうと口を開きかけた。が、すぐにその口をつぐんでしまった。
どうしたの?とイリスはディフが訊ねようとしたその内容を言葉にするよう、促す。彼が未だぎゅっと握ってしまっている手に置いたイリスの手は、彼を安心させるかのように彼の手を優しくとんとんと叩いた。
そのイリスを、ディフはその深い藍色の瞳で見てくる。その瞳は、彼女に促されるがまま、自分が今思っていることを言葉にして良いのかどうか、探っているようにイリスには見える。
それは彼が彼の思っていることを素直に口にできない環境下で育ってきたからだろう。常に大人の顔色を窺いながら、大人の望む言葉を選択してきた証拠だ。
「ディフの気持ちを、私は聞きたいの。だから、教えてくれるかしら。」
イリスはいつもの無邪気な笑顔をディフに向ける。
そのような、子どものような無邪気な笑顔に促され、ディフは、
「それって、ボクの『お父さん』ってことですか?」
言おうとしていた言葉の続きを消え入りそうな小さな声で口にした。
図々しい話だ、とディフは思う。だから口にすることを躊躇った。
アシアはディフにとって旦那様である存在だ。ディフはアシアが買った子どもでしかない。その子どもが買った大人に対して、父親を求めるなんて、図々しいことだ。従僕が口にしてはいけない言葉だと、わかっている。
だから否定されるに、決まっている。
そう思っていたのに、その言葉を聞いたイリスは、ぱんと手を叩き、そうね、と言うと、
「私も『お父さん』と同じ意味だと思うわ。」
と、ディフが恐れていたこととは違う答えが返ってきた。
一瞬、何を肯定されたのか、ディフはわからなかった。しかし少ずつイリスのそのディフの思いを肯定した言葉がじんわりと、ディフの中を温めていく。心が温まっていくのと同時に、ディフのぎゅっと握られていた拳は開いていき、イリスの問いに変化のなかった彼の表情も、ゆっくりとはにかむような笑顔へと変わっていく。
そうは言え、ディフはイリスの肯定に、単純に喜んではいけないのはわかっている。彼女は『お父さんと同じ意味』と言っただけだ。
それでも。
「お父さん・・・。」
ディフはうつむくと、再び小さくそのように呟いた。




