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「それでは、字の練習をしましょう。」
ディフのその心情に、イリスは気付いているのかいないのか、ぱん、とひとつ手を叩くと小さな木の棒をディフに手渡す。先が少し尖っている小さな木の棒だが、触ってみるとそれはとても硬いものだと解る。
「ディフはスプーンをどちらの手で持つの?」
訊ねられ、ディフは右手を挙げる。
「じゃあ、その棒は右手で持ってね。」
「ミギテ?」
ディフの不思議そうに自分の手を見ながら繰り返した言葉に、
「そう、右手。反対の手が左手、って言うの。」
座っているディフの隣にイリスは立ち、同じように自身の手を差し出し、右手左手、と言いながら見せる。そのイリスの言葉に同じようにディフは手を差し出しながら、ミギテ、ヒダリテ、と繰り返す。
「そして、この棒は、こうやって人差し指、中指、親指で持って。」
「ヒトサシユビ、ナカユビ、オヤユビ・・・」
「薬指と小指はこう、添えて。」
「クスリユビ、コユビ。」
イリスに棒の持ち方を見せてもらい、ディフはその真似をしながら言葉を復唱する。今まで聞いたことがある単語だったが、その単語が持つ意味を今知る。
復唱するのはディフが今まで生活してきた上での習癖だ。復唱することで大人がディフへ命じたことのディフの捉え方に間違いがないか、無意識に確認してきた。間違えれば殴られるのだから、それは身を守る術でもあった。
「次は、この板に手に持ったその棒で横線を引いてみて。」
こうですか?、と言いながら、ディフは手に持つ先の尖った棒を板に当ててゆっくりと横に引いた。と、引いたとおりに黒い線が現れる。
「そう、上手ね。」
ディフの隣で弾んだ声でイリスが褒める。
不思議な感覚だった。ただの木の棒にしか見えない手に持ったこれから、板に何か書けることが不思議だった。
手に持っているその棒を、まじまじと見つめるディフに、
「不思議よね。この木の板とこの木の棒をこすり合わせると、その部分だけ黒くなるの。暫くすると消えちゃうんだけど。」
そう答える。この板と棒の材料となる木は、この村の森にしか生えていない木だと、イリスは言う。
「書いてもすぐに消えちゃうから商品にならないんだけど、字を書く練習にはもってこいでしょ。」
この村に古くから伝わる、遥か昔から村人たちが字を書く練習用としていたモノらしい。紙と筆は手に入らない物ではないが、若干高価であり、またこの辺鄙な村だと間単に手に入る代物ではない。
「私も小さい頃、これでずいぶん練習したのよ。」
昨日、この図書室のこの机で何か作業をしていたふたりも、本を見ながら字を書く練習をしていたとのことだ。
「次は、ディフの名前を書いてみましょうか。」
イリスはそう言って、先ほどディフが引いた線がほとんど消えてしまっている上に、ディフの名を書く。
「これが、ボクの名前、ですか?」
新鮮だった。これこそ、不思議な感覚だ。曲線で描かれたいくつかの『絵』に見えるものが文字で、そしてそれが自分の名前だと思うと、心がなんだか躍ってしまう。しかも、アシアがつけてくれた、大切な名だ。
「まずは、自分の名前が書けるようになりましょう。これからディフが生活するうえで、必要になるから。」
少し頬が紅潮しているディフに嬉しそうに笑いかけながら、イリスは棒を持つディフの右手に自身の手を上から添えるように握る。
「こう、書くのよ。」
そして、ゆっくりとディフの名を板に描いた。イリスに手を添えられ、イリスの手の動きで書いたとはいえ、ディフ自身が手に持っているこの棒で、初めて書いた『ディフ』の文字。嬉しい、といった言葉以上の感情が溢れてくる。
「今度はディフがひとりで書いてみて。」
大きくうなずき、今度はディフひとりで書いてみるが、これがなかなかと難しいものだと知る。イリスのお手本のように、上手く曲線が描けないのだ。しかも、イリスが書いたお手本のディフの名は、少しずつ消えかけていく。
「消えかけているその文字を、なぞるように書いてみたら?」
それにも大きくうなずき、ディフは消えかけている自分の名をなぞって書く。何度か繰り返し書くことで、なんとなく様になってきたようにディフは思う。
「『ディフ』って、良い名前ね。」
ディフの隣にいつの間にか椅子を持ってきて座り、ディフが集中して自分の名を何度も繰り返し書く様子を眺めながら、
「『困難に立ち向かう』っていう、意味があるのよね。」
イリスがぽつり、とそう呟く。
名を聞く限り、ディフは望まれて生まれて、愛されて育てられていたようにイリスは受け取れる。それがどのような理由で『導師 アシア』に引き取られることになったのか。
その呟きにディフは書いている手を止める。そしておもむろに隣に座るイリスを見遣り、
「アシアがつけてくれたんです。」
はにかんだ、とても嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「・・・導師様がつけてくださった、名前なの?」
驚きの表情を隠せず、イリスは思わず問いかけてしまった。
では、ディフの両親がつけた彼の名を、どうしたというのだろうか。『導師 アシア』がこの子どもに『ディフ』と名付けたことで、彼が彼の両親から名付けられた大切な名を捨てさせた、ということだろうか。
そうしなければならない、何か大きな理由があった、ということだろうか。
イリスのその問いに、
「アシアがボクを買ってくれたときに、ボクに名前をつけてくれたんです。ボク、『ノィナ』だったから。」
ディフは嬉しそうな、はにかんだ笑顔のまま、そう答えた。
「『導師 アシア』様が、あなたを買ったの?」
さらり、と話すディフのその内容は、イリスにとって驚きの情報ばかりだ。
「ディフの前の名前は『ノィナ』だった、ってこと?」
両親が彼を売ったというのか。彼を売らざるを得ない経済状況だったということなのだろうか。それにしても自身の子どもに『ノィナ』と名付けるとは、どういうことなのだろうか。次々とイリスの頭の中に疑問がわいてくる。
「お父さんと、お母さんから付けてもらった名前が『ノィナ』だったの?」
故につい、矢継ぎ早に訊いてしまう。
そのイリスにディフは、えっと、あの、と戸惑いの表情で言葉を詰まらせてしまった。
「あ。ごめんなさい。」
身を乗り出し、ディフに迫るような体勢になってしまっていることに気付いたイリスは、いったん居住まいを正す。そして、
「少しずつ、訊いてもいいかしら?」
彼女のいつもの無邪気な笑顔を浮かべた。
セドリックがイリスへディフを紹介するときに、彼は『訳ありだ』と言っていた。『理由があって導師様と旅をしている人の子どもだ』と紹介していた。その理由とは、このことなのか。ディフは『導師 アシア』とどのように出逢ったのだろうか。
最初、イリスがこの村に導師が滞在している、といった話を村人から聞いた、と畑仕事から戻ったアルビーから聞いたときは、滞在していると噂されている導師が本物だということについては、半信半疑だった。
イリスはこの村の出身だ。幼い頃から繰り返し繰り返し、『導師様』の話を長老から聞かされている。しかし、村人の誰に訊いてみても、その『導師様』と会ったことない、と答えるのだ。『導師様』のことを大切そうに話す長老でさえ、会ったことがないと言う。会ったことがあると聞いたことがある、といった話さえ、なかった。
だから、伝説上の物語なのだ、とイリスは思っていた。何かに感謝し、日々生きるための糧とするための、戒めも含めた作り話だと受け止めていた。ただ、豊穣、知恵、天候などといった生活に関係する神もいくつかあり、それらを祭る感謝祭もこの村の季節の行事ごととして行っている。
その神々と、導師とは何が違うのか、がイリスはわからなかった。導師も神々の種類のひとつだと括っていた。
現存するとは、微塵も考えていなかった。




