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「だから、村長さんが気になさることは何もないんです。私は昔から我がままで、自分のしたいことしかしていませんから。それは今も変わっていませんし。」
村長さんもご存知でしょう、と子どものような笑顔を浮かべ、笑う。
この豊かで美しく、そしてこの地に生きるものに厳しい土地でソフィーを育てたい。
イリス自身が楽しく過ごした日々と同じ時間を、ソフィーも得て欲しい。
イリスが望郷した、この愛した地で、アルビーとソフィーとともに過ごしたい。
それは、イリスの心の根っこの部分だった。
「4日後の、導師様と長老さんとの面談の立会人を、栄誉に思い謹んでお引き受けいたします。」
イリスはアシアに、セドリックに対して、改めて礼をとる。
「それまでの間、導師様にはこの村の余すところすべて、ご覧になっていただきたいですね。この村の人たちは本当に、導師様に感謝をして日々生活していますもの。生きている間に導師様にお逢いできるなんて、とっても幸運なことです。」
村長さんが案内なさるのですか?、とのイリスの問いに、セドリックはそのつもりだ、と答える。
「イリスは俺たちが送り出した、あのときと変わらず、お前がしたいことを突き進んでしている、と俺は安心して思ってて良いんだな?」
セドリックの水色の瞳が、イリスの薄茶色の瞳を真っ直ぐ捉えて、再度訊ねる。イリスもその視線を外さずに、もちろんです、と強く肯定し、無邪気な笑顔を見せた。
「では、そろそろお暇しましょうか、セドリック。」
ふたりのやり取りをその傍で見守っていたアシアが、話の区切りでセドリックにそう声をかけた。中央のテーブルで何か作業をしていた子どもたちが、その作業に飽きてきたのか、作業の手が止まりふざけあいを始めている。ディフも彼らのふざけあいが気になるのか、図鑑を捲っていた手が止まっており、その子どもたちを見ていた。
子どもたちの、作業に飽きてしまっているその様子を見て、
「あら、お願いしていたことができたのかしら。」
そう言いながら、その子どもたちへ足を向けたイリスの背中に、セドリックはイリス先生、と呼びかけると、
「導師様から頂いた、森の恵みのおすそ分けを玄関先に置いたからな。受け取ってくれ。」
この図書室に入る前に、隣の屋敷の玄関先に麻袋を置いたことを伝える。
イリスは振り返りセドリックに笑んでうなずいた後、子どもたちにひとことふたこと何か伝える。そして、次はディフのいるテーブルに寄り、ディフにも何か声をかけた。声をかけられたディフも、イリスから声をかけられ何か少し話をしていたがひとつうなずくと、椅子から立ち上がりイリスに先導されながら、アシアとセドリックのもとに戻ってきた。
「本は、楽しかったですか?」
アシアの傍に戻ってきたディフに、アシアは自然な動作で手を差し出しながらそう訊ねる。
ディフはアシアから手を差し出され、いったん、アシアを見上げたが、
「はい、楽しかったです。」
そう答えながら、少し嬉しそうにその手を取った。
「また、明日もいらっしゃいな、ディフ。ディフが望むなら、今度は字の練習でもしましょう。」
セドリック、アシア、アシアと手を繋ぎセドリックとアシアの間に挟まれた形で並び歩くディフたちを見送るために、彼らと一緒に玄関へ向かうイリスがディフへそう声をかける。声をかけられたディフは、どのように返事をして良いのか解らず、少し困ったようにアシアとセドリックを見上げた。
ディフは、自分はアシアの従僕だ、といまだに思っている。手を繋ぎ、その横に並んで歩くことを許されているだけの、アシアに買われた子どもだ、と。なぜなら、アシアにあの男性から買われたことは紛れもない事実なのだから。だから、アシアはディフの『だんなさま』なのだ。そして、その『だんなさま』であるアシアのおかげで、今はセドリックの家の世話になっている。本来だったら、このようにセドリックの家の仕事を手伝わずに出歩くことなど、許されない立場だ。そのような立場の自分が、自分だけの気持ちでイリスに誘われるがまま、またこの図書室に来るような返事をして良いのか解らない。むしろ、ディフの立場なら、断るべきところなのだとディフは思う。
普段なら、ディフは即座に断っていた。遊びに出かけるなど、従僕の存在で言語道断なことだ。
けれども。
本は見ていて楽しかった。セドリックの家の本も、見ていて楽しい。先ほどイリスから手渡され、眺めていた植物の図鑑も、セドリックの家の本には描かれていない、けれどもディフが見た事のある植物がたくさん描かれていた。その横に書かれている文字は読めないけれど、たぶん、自分たちがその植物を呼んでいる名前が書いているのだろうな、と想像することも楽しかった。そして、字を知りたいと、文字を読むことができるようになりたいという思いが、強化されてしまっていた。
ディフの立場なら仕事をしなければならない。だけれども、この図書室でまた本を見て、望めるならイリスから字を教えてもらいたい。その相反する気持ちの間で、ディフは揺れてしまい、イリスへの返事ができぬままセドリックを、アシアを見上げていた。
「ディフの思うとおりに返事をしたら良いのですよ。」
見上げてきたディフに、アシアは穏やかな笑顔でそう言う。アシアはいつも、アシアの従僕であるディフに働くことを強要しない。ディフの思いを聴こうとする。叶えようとしてくれる。
「出てくるときに言っただろう。ディフが少しくらいこの図書室で過ごして帰ってきても、ウチの仕事は残念ながら残っているから、手伝ってもらうさ。」
セドリックがくしゃり、といつものようにディフの頭を撫でる。
「楽しかったのでしょう?」
そう問うアシアに、ディフは躊躇いがちにうなずく。
うなずいたそのディフへ、
「じゃぁ、決まりね。明日も待っているから。」
イリスがはじける笑顔でディフへ向けてそう言いながら手を振った。
『待っている』
それはディフにとって、嬉しい約束事の科白だった。
その、イリスの言葉にどのように返事をして良いのか解らず戸惑うディフへ、更に、
「ばい、ばーい。」
部屋の中央のテーブルにいる女の子が、ディフに小さく手を振っていた。
手を振られ、どう反応して良いのか解らず固まってしまったディフの、その頭をセドリックがぽん、と大きな手を載せる。頭に手を載せられ見上げたセドリックは、いつもの人懐こい笑顔を浮かべており、ディフに女の子へ返事をするよう促す。手を繋いでいるアシアも、いつもの柔らかい笑みを浮かべていた。
ふたりから促され、ディフは顔を赤らめながら、それでも女の子へ小さく手を振った。
その行動は、なんとなくくすぐったく、けれども心がぽかぽかと暖かくなる。
それはアシアにあやされ、眠りに落ちていくときの、あの感覚に似ている。エイダがディフに向けて笑顔を向けてくれるときに、ディフの心の中に浮かんでくる感情と似ていた。
気が付けば、女の子と向かい合っている男の子も、ニッと笑いながら小さく手を振り、何かを言っている。その声は小さく、ディフの耳に届いてはこなかったが、口の形から『またな』と言っているように見えた。
ディフに今まで友だちはいなかった。養親宅の仕事をこなすことで精一杯だったこともあったが、村人の誰もが、ディフにはできるだけ関わらないようにしていたところもあった。どちらかと言えば、みせしめ的な立ち位置だったのだと思う。子どもがわがままを言えば、子どもの親はディフの名を挙げて、彼よりマシでしょう、といったようなことにディフは使われていた。だから、村の子どもたちも、誰もディフに近付こうとはしなかった。むしろ、蔑まれていた。
それは、いつも襤褸を纏っていたせいかも知れない。いつも汚れた格好で、異臭を放っていたからかもしれない。この枯れ枝のように細い手足のせいだったかもしれない。みすぼらしかったからかも知れない。名前が『ノィナ』だったこともあったかもしれない。覇気がなく、諾々とこの生を受け入れていたせいかも知れない。心当たりはいくつもあって、けれどもそれらは自分ではどうしようもなかった。
ディフが養親宅の仕事をしているときに、村の子どもたちが遊んでいる姿を見かけると、羨ましくは思ったが、けれどもそれは自分の手の届かない、どこか遠くの出来事のように見ていた。友だちが欲しい、というのは、贅沢な望みなのだと思っていた。
それが今は。
アシアが、手を繋いで歩いてくれる。
イリスは嬉しい約束事を口にしてくれた。
ディフと同じ年頃の子どもが、ディフへ手を振ってくれている。
それらは、ディフの短い人生の中で、一度も経験のしたことがない、とても嬉しい出来事だ。だけれども、ディフが今まで過ごしてきた環境とは大きく違ってしまったこの現状に、ディフの頭が、心が追いついていない。嬉しいのだけれども、自分ごとの出来事には受け取れておらず、他人事のような感覚だった。
本来なら、その嬉しい感情を表すべきなのだろう。喜ぶ姿を見せるべきなのだろうと思う。
しかし、ディフの口からは、あの、としか言葉が出ず、そして戸惑いの表情を浮かべてしまっていることも、ディフ自身、解っているが、どのように表現すれば良いのか、解らなかった。
ソレを見て大人たちが喜んでくれるような、表現方法をどうすれば良いのかが、経験不足で解らなかった。
「導師様、村長さん。森の恵みのおすそ分けを、ありがとうございます。アルとソフィーと一緒に頂きますね。」
イリスが玄関先に置かれている麻袋を見遣りながら、アシアとセドリックに礼を言う。そのイリスの行動で、その場の空気がいったん途切れたことに、ディフはほっとする。ディフはディフ自身の言動でアシアや、セドリック、イリスに嫌われたくなかった。特に、アシアには絶対に、嫌われたくなかった。いらない子だと、思われたくなかった。
捨てられたく、なかった。
そのイリスの行動は少し追い詰められていたディフの感情に気付いての、行動だったのかどうかは、ディフは判断がつかない。どうだったのだろうか、とディフはイリスを思わず見遣る。
ディフから視線を受けたイリスは、少し屈み込みディフに目線を合わせると、
「また、明日、会いましょう。ディフ。」
と、子どものような無邪気な笑顔を浮かべて、別れの挨拶をした。




