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箱庭の管理人  作者: つきたておもち
第6章

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 イリスの身体の変化は、黙っていればイリスはアルビーにばれることはないと思っていた。

 アルビーが貴族で、イリスが農民である以上、イリスがアルビーと家族になれることはあり得なかった。家族になれはしないのに、彼に彼の子どもを身ごもったことを伝えることに、意味はない。伝えたところで、彼を悩ませるだけで進展や解決ができるわけでもない。下手をすれば生まれてくるこの子どもが、彼の家の相続や後継者問題に巻き込まれないとも限らなかった。その可能性がまったくないとは、言い切れなかった。場合によってはイリスのもとから取り上げられる可能性だってある。そのことは、絶対に避けたかった。

 そして、イリスが子どもを身ごもったことで変化したのは、身体だけではなかった。

 王都に来て、日々めまぐるしく変化する日常に翻弄され、興味を抱き、出身地の村のことを思い出すことなどほとんどなかったのが、村で過ごした幼い頃の日々の夢を見るようになった。季節の移ろい、緩やかに過ぎる時間。誰もが顔見知りで、閉塞感しかない、と思っていたものが、夢の中では、誰もから見守られているのだといった安心感にすり変わった。

 変化の少なかったあの日常が、懐かしくなった。恋しく思うようになった。

 恵みをもたらし優しく、けれども時には村人の命を奪う厳しさのある森や山に囲まれた、あの土地がとてもとても恋しくなった。そこに住まう村の人たちに、無性に会いたくなった。

 それは今から思えば、ホームシック、だった。

 意気揚々と上京したときにはなかった現象だ。住み慣れた村を離れたときには、そんなにも懐かしく、恋しく、淋しくも思わなかったのに。あれから十年以上経って子どもを身ごもったとたん、こんなにもあの風景が恋しくてたまらなくなった。

 そして、この子どもにもあの風景を見せたいとも思った。あの風景の中で、育てたいと強く思った。

 そう思ったとたん、戻るのなら今のうちだ、とイリスは迷いも躊躇いもなく、帰郷の準備を密やかにすぐに取り掛かった。なぜなら、時間が経てば経つほど、この身体は身動きが取れなくなるからだ。ましてや身が二つになれば、もっと動きにくくなる。

 そしてなによりも、アルビーにこの身体のことがばれてしまうのを恐れた。

 なのに、アルビーにすぐにばれてしまった。

 アルビーもイリスに似ており、即断即決型だ。イリスの身体のことを知ったとたん、彼はすぐに彼の実家へ、イリスとの結婚の許可を求める書簡を送った。イリスに何の相談もなく、だ。

 イリスがそのことを知ったときはアルビーを責めたが、アルビーは今回のことがなくとも、イリスとの結婚の許可を早晩、求めるつもりだったのだ、と。それが少し早まっただけだ、とカラッと答えた。

 案の定、根回しをせず直接的に許可を求める行為は、当然のごとく当主を筆頭に一族から大反対をくらう結果となった。それは至極、当然の結果だった。

 しかし、アルビーが即断即決型の性格だとはいえ、その行動はあまりにも無謀に見えた。アルビーにしては、考えなしの、情に突き動かされてしてしまった失策だとイリスには見えた。

 けれども当主からの叱責、一族からの大反対の結果に、アルビーは落ち込む様子もうろたえる様子もなく、悩むことを微塵も見せずに、彼は彼の姓をあっさりと返上したのだ。

 それは、潔く見え、イリスへの愛情の深さだと、他人からは見える行為ではあった。しかし、実のところ、彼は姓を返上するタイミングを、どこかで窺っていたのを、イリスは知っていた。そしてそのタイミングは、イリスとの結婚を機に、とも彼は前々から考えていたようだった。

「ソフィーを王都、城下街ではなく、この地で、この村の中で育てたくなったんです。そう思ったら、ここに帰りたくて、いてもたってもいられなくなったんです。」

 イリスはいつか、はこの村に戻るつもりだった。ただ、それは遠い将来のことで、漠然とした『いつか』だった。この村へは生活費を賄ってくれていた恩もある。セドリックを筆頭に村の人たちは、金銭に関しては気にする必要は無い、とは言ってくれていたが、そうもいかない。だから『いつか』は、恩を返すつもりではいた。しかし、それは『いつか』であって『今』ではなかったことは確かだった。ソフィーのことがなければ、イリスの帰郷は、まだまだ当分先の話だった。イリスが所属した王都の教育機関で、自分の後輩を育てることは、とても楽しい作業で、手ごたえの得られる仕事でもあったからだ。

 しかし、帰郷の背中を押した理由はソフィーのことだけではない。もうひとつあった。そのことも、イリスをこの村へと帰る決心をつける大きな理由でもあった。

 それは。

「この図書室の管理人が、誰もいない、というのを以前、耳にしていたときから気になっていて。」

 イリスのその言葉に、セドリックの表情が、ぴくり、と動く。そして一拍の間のあと、

「この村のことが、図書室のことが、イリス先生の縛りになってしまったか?」

申し訳なさそうな表情で、セドリックがそう訊ねた。

 セドリックの脳裏には、いつも、とても些細なことを、村人の誰もがそのことは当然であり疑問を持ちもしなかった事柄に、利発さを湛えた瞳をきらきらさせながら、本を片手に、野原で、森で、畑で、図書室の管理人と一緒に楽しそうに学んでいた、小さな女の子がいた。あんなにも楽しそうに、彼女が抱えた好奇心を満たそうとする彼女のその行動は、伸ばすべきだ、とセドリックは思っていた。彼女は、この小さな村で終わらせるのではなく、王都のような国の中心となる地で、彼女の才能を活かすべきだ、と彼女を見かけるたびに、そう思っていた。そして、それは当時の村長も同意見だった。そのつもりで、この村から送り出したのに。

 それなのに、セドリックが恐れていたように、この村がやはり彼女の枷になってしまった。彼女は彼女がやりたかったこと、果たしたかったことを中途で諦め、この地に戻ってきたのだ。イリスはソフィーのことがあったからだ、とは言ったが、この村のことがなければ、ソフィーだけのことなら、もしかしたら、この村への望郷はあったにしろ、本当に帰ってくることはなかったかもしれない。

 けれども、イリスはセドリックのその言葉に、ゆっくりと首を横に振る。

「それは、村長さんの杞憂です。私は本当にこの村が、この地が恋しくて、ソフィーをこの豊かな土地で育てたくって、帰ってきたんです。自分のしたかったことを投げ出して、諦めて戻ってきたんじゃありません。」

 だって、と、

「この図書室でも、私が王都の教育機関でやりたかったことができていますもの。」

にこり、と笑みながら、イリスは部屋の中央のテーブルで何か作業をしているふたりの子どもと、そして、もうひとつのテーブルで植物の図鑑を楽しそうに、興味深げに見ているディフを見遣った。

「育成が、王都で私がしてきた仕事です。王都の教育関係の機関で学んだこと、研究してきたことが活かせるこの場は、私にとって、アルビーにとっても、とても素敵な職場なんです。むしろ、図書室の管理人を任されたことは、嬉しかった。」

 子どものような無邪気な笑顔ともにセドリックに向けたそれは、彼女の本音だろう。セドリックを慮って、ではなく、彼女のその笑顔は偽りのない本音のようにアシアは受け取れた。

「ただ、ちょっと、蔵書数が難、ですね。これはおいおい、私とアルビーで少しずつ増やしていこうと話していますけれど。」

それが私の恩返しです、とイリスは言う。

 本は、とても高価なものだ。仕事を辞め、この村の帰ってきてからのイリスたちの収入は、以前の職場の給金には程遠い金額だ。ただ、食べて暮らす分だけなら困らない収入は得られている。そう考えると、飢えることがないだけの収入が得られるこの村は、農村地帯としては豊かだ。しかし、それは農村地帯なら、であり、日々の生活だけに焦点を当てれば裕福な方、であって、子どもたちに、この村に住まう村民たちにある一定の教育を、と考えると、この村の収入では貧しく難しい話になる。本一冊買うことすら、数年に一度くらいであり、ましてや教育を施してくれる人物を雇うとなると、この村の収入では到底無理な話である。本をどれだけそろえていても、それを理解し、人々に伝える人材がいなければ、それら本は宝の持ち腐れになってしまう。

 新しい知識を得るために、また、それを紐解き解りやすく村人に広く伝えるための仕事がイリスはこの村での自分の使命である、と受け取った。それが、村をあげて自分を王都へ送り出してくれたこの村への恩返しでもあった。王都で働いて貯えたものも、いくばくか手元にある。少しずつであれば、最新の書籍を増やしていくことは、できないことでもない。また、最新の知識や情報をアルビーもイリスも得たいところもある。

 今のところアルビーは、畑仕事や畜産に興味津々で、それらの知識がまるっきりなかった彼は、それら知識を日々得ることに夢中のようだ。この村に来てから、慣れない農作業で身体の疲れはあって大変そうだが、それ以上に彼は毎日をとても楽しそうに過ごしている。今日も嬉しそうにソフィーを連れて畑仕事に出かけた。帰ってきたら、今日も彼が見つけたさまざまな出来事を、イリスとソフィーへの寝物語として夜が更ける頃まで話してくれるのだろう。イリスは、彼が彼の視点で見つけてきたイリスが気が付かなかったこと、知らなかった事柄を聴くことも、この村に帰ってきてからの楽しみのひとつにもなっていた。


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