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「見せてもらいましょうか?」
ふふっ、とアシアは少しだけ声を出して笑いながらディフにそう言うと、その背中を軽く押す。アシアから背を軽く押されたディフは、アシアを見上げ、はい、とうなずくと、手招きするイリスのもとへ足を向けた。
「申し訳ないな、アシア。」
小さな声でセドリックがイリスの無礼に謝罪する。
謝罪はするが、それは形だけだ。この数日間でのアシアの行動から推測するに、たぶん、アシアはこのようなことで怒ることはない。立場が上位の者への礼、などといったものには、興味がないようだ。大木の下からこの村へ向かうときにも、彼はそのように口にしていた。『人』の階級に興味はない、と確かに言っていた。
セドリックの謝罪にアシアは、いいえ、と言うと、
「良い、先生ですね。」
穏やかな笑顔でそう返す。
良い先生だと思う。他人に教えることが好きな先生だ。自身も学ぶことがとても好きな人物だ。この部屋に入ったときに見た光景から、彼女は子どもも好きで、子どもへの対応も長けているように感じ取れた。
人に教える、は知識をひけらかすことではない。大人に対してならそれでも構わない部分もあるだろうが、忍耐力も根気力も大人と比べたらまだまだ乏しい小さな子ども相手に、ひけらかすだけでは、子どもたちは何も学ばないし、吸収も出来ない。
部屋に入った先のテーブルで、彼女は子どもたちに丁寧に対応していた。その雰囲気は、教えているイリスも、学んでいる子どもたちも楽しそうだった。
アシアは改めて、くるりと部屋を見渡す。
セドリックが言ったように、この部屋にはそぐわない書籍数だ。本が棚を占めている割合よりも、棚になにも入っておらず空いている方の割合が多い。しかしそれはこの部屋の書棚の数が多すぎるのであって、本の冊数はざっと見るだけでも100冊は超えているように見える。村の規模から考えると、とんでもない蔵書数だ。
「立派な図書室、ですね。」
アシアから感嘆の声とため息が知らずこぼれた。
ここまでとは思っていなかった。せいぜい20冊から30冊程度だろう、と想像していた。アシアが想像していたその冊数でも、この辺鄙な村が抱えている蔵書の数としては到底考えられない数字だった。
その、アシアが想像していたものを遥かに超える、立派な図書室だ。
「導師様に褒めていただけるなんて、光栄です。」
いつの間にかイリスがアシアの傍に立っていた。その顔は、光栄です、と言いながらもどこか誇らしげで自慢げだ。彼女からはその彼女の容姿だけでなく、行動も表情もどことなく子どもっぽい印象を受ける。
イリスがアシアの傍にいることで、ディフはどうしたのだろう、とアシアがディフが向かったテーブルを見遣ると、彼は椅子に座り、1冊の本のページをゆっくりと捲りながら見ていた。彼の表情からその姿は、とても楽しそうに見える。
「彼は植物に興味があるようですね。」
イリスは絵だけで構成されている物語の絵本2冊と植物図鑑をディフに見せた。子どもは絵本の方に興味を持ちがちなのだが、ディフが興味を示したのは絵本ではなく植物の図鑑の方だった。イリスがディフに、植物に興味があるのかと訊ねたら、セドリックの家にあった草花の図鑑が楽しかったから、と彼は小さな声で答えてくれた。
イリスは、ディフは人見知りをする子ども、なのかと思った。だから、初めて訪れた場所で、初めて会った人物への対応を、保護者であるアシアへ伺いを立てながら自分の行動に移すのだ、と思っていたのだが。
彼はイリスが話しかけると、一瞬目を合わせてくるが、すぐに伏せる。問いかけると、大人の顔色を窺うように、探ってくる。そして、その中から彼の答えが返ってくる。その答えはイリスが求めているものであって、本当に彼の本心なのだろうか、と疑問がわく回答だ。
きちんとした身なりをしているが、子どもらしからぬ線の細さ。そしてイリスの目に映った彼の手は、この村に住むどの子どもたちよりも随分と働いてきた手に見えた。
それらから得られたイリスのディフへの印象は、『虐げられた子ども』。
『導師 アシア』が彼を虐げているのだろうか、と思ったが、アシアのことを口にすると、ディフははにかんだような嬉しそうな表情を見せるので、その可能性はまったくない、と踏んだ。どちらかと言えば、大切に扱われているように見えた。
ということは『導師 アシア』が、何らかの理由で虐げられていたこの子どもを救ったのだろう、とイリスは結論付けた。先ほどもセドリックがディフを紹介するときに『訳あって導師様と一緒に旅をする『人』の子ども』と紹介していたことも思い出した。
「導師様はしばらく滞在なさるのですか?」
イリスのアシアへのその問いに、
「そのことだが、イリス先生にお願い事があってだな。」
と、アシアではなくセドリックが話し出す。
「4日後に導師様と長老との面会があってだな。その立会人をイリス先生にお願いしたいんだが。」
セドリックからのそのような申し出に、イリスは少し目を見開くと、
「私に、ですか?村長さんではなく?」
と疑問を口にする。それに対し、
「いや、俺も立ち会うし、副村長のダンにも依頼した。村役員以外の村人代表として、イリス先生に立ち会って欲しい。」
そう答えたセドリックに、イリスははじけるような笑顔で、喜んで、と即座に快諾する。
「アルとソフィーに自慢しなきゃ。」
嬉しそうに快諾してくれたイリスに、セドリックは安堵した表情を浮かべると、
「そういえば、アルビー先生は、今日は不在か?」
訊ねた。
ソフィーの名は昨夜、アシアがジョイの口から聞いていた、イリスの娘の名だ。ということはアルビーというのはイリスの夫の名だろうか。
そう思い、アルビー先生?、と訊ねたアシアへのイリスの、
「夫です。今日は村の畑の作業に出かけています。」
その答えに、セドリックが、そういえば、と、
「ジョイが今日はアルビー先生と一緒だ、って言ってたな。」
と呟いた。
その呟きに、イリスは、あら、と、
「じゃぁアルは、今日はジョイからたくさん教えてもらって、満足して戻ってくるのね。」
ふふっと、どことなく楽しそうだ。
そのふたりの会話に、アシアがどういうことかと首を少し傾げる。そのアシアへ、イリスは、
「アルビーは、この村から南の方角にある領主の息子だったんです。だから、畑仕事なんてしたことがなくて。この村に来てから毎日が新しい学びの場だって、嬉しそうで。」
と、笑う。
領主の息子ならば、貴族の身分になる。そういえば昨夜セドリックがイリスの夫は彼女が働いていた王都の、教育機関の部署の上司だ、と言っていた。つまり、彼は王都の学校を卒業したということだ。それらから考えられるに、彼の身分は貴族だ。
アシアは『人』の階級に興味はない。王だろうが貴族だろうが、商人であろうが農民であろうが、アシアにとっては『箱庭に住む人』でしかない。それ以外のものではない。
しかし、今までの経験上、『人』はその社会生活において身分や階級を作りその身分を至上のものとして、特別に扱っていることを知っている。
イリスは王都の学校を卒業したとはいえ、出自は庶民だ。農民だ。そのイリスが貴族の階級である領主の息子と籍を共にすることは、簡単にできること、ではないだろう。
農民であるセドリックのもとに商人の娘のエイダが嫁ぐときにも、大反対があったようだ。庶民同士の彼らでさえ、駆け落ち同然だったのだ。貴族と農民間での婚姻関係は、普通はあり得ないはずだ。
「アルビーは、貴族、なのですか?」
アシアのその問いに、イリスは即座に首を横に振り、
「元貴族です。私との結婚を機に、彼は姓を返上しました。」
今はただのアルビーです、と答えた。




