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暫くの沈黙のあと、
「もしかして、俺の、ためか?」
アシアの意図に気がついたのか、セドリックが気まずそうにアシアへ向きながら、訊ねた。
「気を遣わせたのなら、悪かった。」
セドリックの謝罪の言葉に、アシアは歩む足を止める。手を繋いでいるディフも一緒に歩く足を止め、不思議そうにアシアを見上げてきた。
アシアが足を止めたことにより、数歩先へ進んでしまったセドリックもその歩みを止め、どうかしたか、とアシアへ振り返った。
振り返ったセドリックへ、
「なぜ、セドリックが謝るのですか?」
と、それはアシアからの静かな問いかけだった。
目深に被ったフードの下の、アシアの表情はセドリックには見えない。けれども、静かな問いかけだったが、いつもとは違うアシアが発した少し低く硬い声音に、セドリックの表情が瞬時に強張った。
この場を、『導師 アシア』の気が支配する、そのような雰囲気にセドリックはあっという間に呑まれた。大木の下の一件が、セドリックの記憶に鮮明に蘇ってくる。
セドリックの中は恐怖が席巻し、瞬時にその恐怖で満たされてしまった。
あの時と同じように、身体が、知らず震え出している。心臓が早鐘を打っているのが解る。その鼓動が耳鳴りのようにうるさく響く。冷や汗が背中を伝い、本能が危険信号を発している。
この場から逃げ出したい衝動に駆られるが、足が意に反して動かなかった。叫び声を出そうにも、喉に何かかが詰まっているかのように声帯が開かない。ただなす術なく、セドリックはアシアを凝視するしかなかった。
「僕は、セドリックに謝って欲しいのではありません。」
抑揚の無い、静かな声。けれどもその声音からセドリックが読み取れたアシアの感情は、怒りと悲しさだった。けれどもなぜアシアがセドリックに対して怒るのか、がセドリックには解らない。
けれどもアシアも、セドリックに対して怒りの感情があるわけではなかった。ただ、セドリックからの謝罪の言葉に、苛立たしさが募っただけだ。
なぜ、苛立たしく思うのだろうと、己が感情の動きに戸惑いながら、アシアがフードの中から見遣ったセドリックは、アシアのその静かな言葉に否定も肯定も何の反応も示せず、アシアを凝視し、恐怖の感情を顔面に貼り付けていた。
そのようなセドリックにアシアは、しまった、と一瞬で血の気が引いた。知らず『導師 アシア』の気を中ててしまっていたことに、セドリックを見遣って初めてアシアは気付いた。
アシアは慌ててフードを剥ぐと、
「怯えさせるつもりはなくて。」
ごめんなさい、と謝罪の言葉とともにセドリックへ一歩近付き、彼の腕を取ろうとディフと繋いでいない方の手を伸ばす。
しかしセドリックには、アシアが近付くこと、自身に触れようと差し出されたその手は、ただただ恐怖でしかなかった。
彼に触れられれば、何か恐ろしいモノに呑み込まれてしまいそうで、その手を振り払いたくなる。近付いて欲しくなく、また触られたくない、そう叫んでしまいそうだった。
が、フードを剥いだアシアの、その泣きそうになっている表情を見たとたん、セドリックは叫びそうになる彼への拒絶の言葉を、寸でのところでぐっと呑み込んだ。
腹を決めた。あの大木の下で、そして昨日の朝の厨房でのやり取りで、彼を受け入れる、と自分は改めて腹を決めた。そしてその時、彼の差し出したその手を取ったのだ。彼の何かに触れて、あの大木の下での恐怖が再現されるかもしれない、といったことは覚悟をしていたはずだった。
彼は『導師』だ。『人』ではない。圧倒的に力の差はあり、しかも彼の力は得体の知れないモノだ。『人』には到底想像もつかない何か、を起こすモノだ。
しかし、それをすべてひっくるめてセドリックは『アシア』を、腹を決めて、彼の申し出を受け入れたのだ。
逃げ出そうとする自身の足にも、心にも力を入れてセドリックはその場に踏みとどまり、ごめんなさい、と泣き出しそうな表情で伸ばしてきた彼の手に敢えて掴まる。掴まれた瞬間、本能がその手を振り払おうとしたが、それにもセドリックは堪えた。
「僕は、セドリックを怯えさせるつもりは全く、そのつもりはなくて。」
ごめんなさい、とアシアが謝罪の言葉を繰り返す。
アシアは、セドリックを怯えさせるつもりは毛頭なかった。なのに、先ほどのアシアとロイとのやり取りに対しての、セドリックの謝罪の言葉に、アシアはなぜか怒りが、苛立たしさが、そして物悲しさがわいてきた。その感情が、言葉に、態度に出てしまった。
アシアは、感情を動かなさないことが得意だったはずだった。怒りを相手に向けるのはアシアにとっては多大な労力がいるため、怒りよりも諦めることを選択してきた。感情を現さなくなった頃から、愛想がないとレッテルを貼られたため、いらぬ揉め事に巻き込まれないように、表面上は穏やかに見せて、笑顔を浮かべて、それらさまざまな感情を絶ってきていた。100年以上、『人』と関わるときはそのように接してきたのに。
ディフを拾ってから、気付かぬうちにアシアの中で何かが変わった。アシアの感情が、アシアの意思ではなく勝手に動き、それを現すことが多くなった。
それは良い変化なのか悪い変化なのか。少なくともアシアにとっては不便な変化だった。
ウルフの一件も、ロイの一件も、そして今回の件も。アシアが計算して動かした感情ではない。ゆえにその先の結果が、アシアのコントロール下になく、思わぬ結果を引き起こしてしまっている。
それは、ディフを傷つけた。ウルフをひれ伏せさせた。そしてセドリックを怯えさせてしまっている。そのつもりはなかったのに、コントロールしない感情を発して望まない結果を生み出してしまっている。
『人』に対して、『箱庭に住む生き物』に対してはもっと慎重に、『導師』としての感情をコントロールしなければならなかったのに。
「アシア、俺は平気だから。気にするな。」
セドリックはそう言いながら、セドリックを掴んでいるアシアの手を、セドリックが掴まれていない反対の腕の手を乗せ、アシアを安心させるかのように軽く叩く。
セドリックはそう言うが、『導師 アシア』の気を中てられて『人』が平気なわけがない。現に彼は、いまだ顔色がなく恐怖で引きつった表情だ。声だって上擦っている。
セドリックの腕を掴み、ごめんなさい、と繰り返し謝罪の言葉を落とすアシアへ、
「アシアと、『アシアの友人 セドリック』でいることを約束したときに、『これからも色々とぶつかるだろうが、頼む』と話しただろ?」
と、セドリックはいつものような笑顔を浮かべたつもりではいるが、果たしてきちんと笑えているかどうか、セドリックは自信がなかった。しかし、
「そういうことだから、気にするな。」
そう、言葉を続けた。
アシアが怒りの感情を収めたせいなのか、セドリックのアシアに対する恐怖心が薄らいでいく。同時に彼に触れられることへの拒絶感も薄れていった。
セドリックはひとつ大きく息を吸うと、それを静かに吐いた。そのことにより、身体の硬直が解ける。だからといって、恐怖の記憶は再び、鮮明に、セドリックの記憶に刻まれ、なかったことにはならなかった。
ゆえに、セドリックが発しようとする次の言葉に、ためらいが出る。が、セドリックはそれら恐怖を振り払い、勇気を振り絞ると、アシア、とアシアの名を呼び、
「俺の何に、アシアは腹が立ったんだ?」
と、アシアに怒りの原因を訊ねた。
その問いは、セドリックにとってはとても怖いものだ。問うことで再びアシアの何かに触れ、あの恐怖感が自分を襲ってきたら、次は正気を保てる自信がない。人目をはばからず喚き、叫び、この場から逃れるためにみっともなく足掻くだろう、と想像できる。
しかし、腹を決めてアシアの手を取ったのだ。彼と向きあうべきところでは、向き合わなければならない。『アシア』は、繰り返しそのようなことをする人物ではない、と見定めたではないか。感情に任せて動いてしまうのは、彼が若いせいだと思う。『導師』である彼は、実年齢ではセドリックよりずいぶん年上であるはずだが、彼が第三者と関わる経験値はその年齢に不釣合いなほど、少ないように見える。




