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エイダとジョイが新たに香茶を淹れるために席を立った後、アシアがセドリックに、
「ところで、イリスというのは?」
と、先ほど話題に上った人物について訊ねる。
イリス先生か?、とセドリックは言うと、
「イリス先生はもともとこの村の出身で、小さい頃から抜きん出てとても優秀な子どもでな。10歳を超えたくらいに王都の学校の入学試験に合格したもんだから、村をあげて送り出したんだ。」
自慢気な顔をする。
それもそのはずで、王都の学校に入学できるとは、かなり優秀だ。そもそもどの国も王都が抱える学校は王族や貴族に対して門戸を開けており、ほんの僅かだけ庶民への席を確保している。その学校を卒業すれば、就職先は国家機関であり行く末の安泰は約束されるからだ。就職先によっては、出自の家や町、村まで恩恵にあずかることができる。故に、王都が抱えるその学校へは国中のあらゆる町や村からその僅かな席を得ようと、その町、村で優秀だといわれる者たちが試験を受けに来る。
アシアが住むオウカ国も同様な仕組みであり、庶民に対しての席数は毎年片手程度しかない。合格ラインに満たなければ、庶民からの合格者は誰も居ないという年もあると、アシアはノアから聞いていた。また、王族や貴族のための学校とはいえ、そもそも彼らが希望すればすべてが入学できるわけでもなく、その中でも優秀な者しか入学できないし、よしんば入学できても学問を学び終え無事に卒業できるものは毎年8割程度だ。
それらのことから庶民からの合格者はかなり優秀な人物であり、入学してからの授業料等は免除になるのが普通だが、それでも生活費等の経費は自分でまかなわなければならない。庶民の身分とはいえ、継続して在学できる生徒は大きな商いをしている商人などといった、金持ちの家の子どもだとも聞いている。
この村は確かに他の村と比べると裕福な部類には見えるが、それでも、金持ちとは言い難い。王都での生活となれば物価はこの村と比にならないほど高く、それをまかなうために働くとしても、授業の内容から働きながらの勉学は難しい。労働との両立ができるほど王都が抱える学校は甘くはない。
「もしかすると生活費などを、村が捻出したのですか?」
アシアのその問いに、セドリックはうなずく。
「卒業までの6年間、村が仕送りをした。卒業後は王都の教育関係の仕事に就いたから、それ以降は仕送りはしなかったがな。」
「この村に戻ってくるとは限らないのに?」
王都は魅力的だ。あらゆるものが揃い、あらゆるものの最新情報が入り、あらゆるものの先端を走っている。現に、セドリックの今の話ではイリスは卒業後は村に戻らず、王都に就職している。
それに対してセドリックは、
「『才能ある者が道を切り拓きたい、と言っているんだ。応援しなくてどうする。』と当時の村長が村の皆を説得したんだ。戻ってこないことも折り込み済みでな。」
そう答え、
「俺は当時の村長の補佐役をしていて、村費からイリス先生の生活費を捻出することを手伝わされてだな、ずいぶん頭を悩ませて苦労した。」
苦笑を浮かべた。
「イリス先生が王都の教育機関に就職したと連絡を受けたときは、もう村には戻ってこない、と思ったんだが。」
セドリックは右手の甲で頬杖をついて、そうぽつりと言葉を落とした。どことなく憂いを帯びたような水色の瞳は、ここではない何処か遠いところを見ている。
暫くの沈黙の後、
「戻ってきたんですね。」
アシアのその言葉にセドリックは頬杖を外し、視線をアシアへ向けると、
「昨年、仕事を辞めて戻ってきた。」
そう言ってうなずく。
「夫と子どもを連れて、戻ってきたんだ。イリス先生の夫も先生と同じ部署で働いていた彼女の上司だと、言っていたな。」
つまり、旦那も仕事を辞めてこの村に移住したんだ、と何故か複雑な表情だ。
村をあげて投資した人物が村に戻ってきたことは、喜ばしいことではないのだろうかと、アシアは思うが、それにはセドリックは、
「彼女がやりたいことをやり終えて戻ってきたなら、いいんだがな。彼女は戻ってきた理由を、口にしたことがないから真相はわからん。」
そう答えた。
セドリックは彼女が王都へ旅立つときの、希望に満ちて輝いていた瞳を今でも覚えている。
この村の規模だ。当然セドリックはイリスのことを、彼女が生まれたときから知っていた。幼い頃のイリスは、子どもらしく外での遊びまわっている、というよりは、村の図書室でひとり読書をしている子どもだった。時折、彼女を外で見かけることもあったが、そのときは、彼女は図鑑と思しき本を片手に持ち、何かを調べている姿だった。基本、村の図書室から本を持ち出すことは禁止されていたため、彼女が図鑑を片手に、のときは、その当時の図書室で子どもたちに勉学を教えている大人が一緒だった。
セドリックの彼女への印象は、何にでも興味を持ち、読書好きの、そして大人たちの会話にも口を挟み意見を言う、おしゃまな女の子、だった。
王都への学校も自分の好奇心を満たしたい、と、世の中は知らないことが多く少しでもさまざまなことを知りたい、といった理由で希望し、村の中では優秀とはいえ、王都が抱える学校に受かるとは村の大人たちの誰もが思わなかったが、それでも一度くらいは、と送り出したところ、見事、彼女は合格を勝ち取った。
しかし、彼女の両親こそが彼女の王都への入学に反対だった。彼女を彼らの手元から離したくないこともあっただろうし、また、自分の子どものためだけに、しかも、彼女が王都の学校で学びたい理由が、村のため、ではなく彼女個人の理由でしかないこと。そのことに村費を使うことに、かなりの遠慮や引け目があったからだ。
けれどもこのような逸材が今後、この村から輩出できることはもうないだろう、と当時の村長が彼女を村をあげて送り出す理由のひとつとして、彼女の両親をはじめ村人たちを説得した。セドリックも村長の意見には賛同していたし、また補佐役として村長と共に説得してまわっていた。なぜなら王都の学校で学ぶことを希望するきっかけが、彼女個人の好奇心を満たすためであり、村への還元でなくても、王都の学校で勉強し、学んだ成果は直接的でなくともいずれまわりまわって、村、ひいては国に還元するものだ、とセドリックは信じていたからだ。
彼女に才能があるのなら、村のことなど気にせず、彼女の思うように勉学に研究に没頭すれば良い、と。
その彼女がこの村に戻ってきた。
ということは、彼女が知りたかったこと、学びたかったこと、やりたかったことすべてを、王都で満たせたからなのだろうか、とセドリックは憂慮していた。すべてをやり遂げて戻ってきたのなら、そうならば良いのだが、と当時苦労して彼女を送り出した村人の一員として、セドリックはそう願っているのだが。
夫と子どもを連れて戻ってきたときの彼女は、村人たちへの感謝の言葉と、恩返しのために図書室の管理と村人たちへ自分が持つ知識を伝えたい、だった。
図書室の管理は、彼女からすれば恩師となる、勉学を教えていた村人が亡くなってからこの数年は専属で管理するものがおらず、村長となったセドリックが畑や家畜の世話、村長の仕事の合間に片手間で管理をしていた。セドリックも勉学を専門で習ったことはなく、子どもたちに教えることができるのは、せいぜい文字と簡単な計算くらいだった。しかしそれでもこの村が豊かになるには十分な知識ではあった。
彼女が村に戻ってきたとき、図書室の管理者が不在であることはすでに知っていたような素振りだった。そのことからこの村の教育の現状を、誰かが彼女に伝えたのだろうか、といった懸念がセドリックの中にわいていた。もしかしたらこの現状を誰かから聞き、知った彼女は、自分を送り出してくれた村への恩を返すために、と彼女がやりたかったことを放り投げ、戻ってきたのではないだろうか、といったあまり喜ばしくない推測がセドリックの中にはあり、もしかしたら良かれと思い村費で彼女の王都での生活費を賄ったことが、反対に彼女の足かせになってしまったのではないだろうか、と、どことなくすっきりしない感情が燻り続けていた。




