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彼は誰時。
朝陽が昇り始め、東側に向いている窓から時間の経過とともにうっすらと陽が差し込み、部屋の中は少しずつ明るくなっていく。
起床時間に近く、眠りが浅くなる頃。人の動く気配がして、ディフは夢の中からゆっくりと目覚めた。
「おはようございます。」
と、すでに着替え終えていたアシアが、ディフが起きたことに気付き、いつもの笑みで朝の挨拶をしてくる。
ぼんやりとした思考の中、反射的におはようございます、と挨拶を返したディフは、昨夜眠る前にアシアと交わした会話を思い出し、慌てて身体を起こした。
出かける身支度がすっかりと整っていたアシアはそのようなディフに、少し申し訳なさそうな表情で、少し出かけてきますね、と昨夜の通りに言い、
「セドリックから図鑑を持ち出す許しを得たら、あとで一緒に森に出かけましょうね。」
と、昨日と同じく窓からふわりと出かけて行った。
出かけていくアシアをベッドの上から見送ったディフは、その場で膝を抱えてアシアが出かけて行った窓を暫くの間、見つめる。
このまま置いて行かれるのではないかといった不安が、何故か昨夜より大きくなっている。眠りに落ちる前まではアシアにあやされ、くすぐったいような嬉しいような気持ちだったのに、先ほどの出かける支度を整えたアシアを見たとたん、再び芽吹いてきた強い不安。
このような自分の気持ちの乱高下に少し戸惑いつつ窓から視線を外し、ふ、と見遣った先の机の上に、アシアがカバンに入れて持ち歩いていた荷物が置いてあるのがディフの目に入った。
何故、カバンの中身が?、と不思議に思ったとたん、そういえば、先ほど出かけて行ったアシアは、いつも携えているカバンを肩から掛けていたことに気付く。あの姿は、見慣れているいつもの旅支度の、アシアの姿だった。
それに気付いたディフは慌ててベッドから降り、アシアが出て行った窓へと駆け寄ったが、そこにはアシアの姿はすでに見えず、昨日見たままの広大な森が広がっているだけだった。
「アシア。」
彼の名を呼ぶ小さな呟きとともに、ディフの藍色の瞳には涙がじわりとわいてくる。けれどもディフは自分の瞳に涙が滲んできたことに驚き、何故涙が滲んでくるのかが解らなかった。
今まで、泣いたことがあっただろうか、と考えるくらい、ディフには泣いた記憶がない。
アシアに買われてからのこの生活が楽しくて、心地良くて。この心地良さを知ってから、自分が今まで過ごしてきた日々は、本当は辛いものだったのだと初めて知った。明日に思いを馳せることがないのが普通だと思っていたのが、その価値観が変わった。
アシアに買われる前まで、生きることを諦めていたわけでもなく、死ぬことが怖くなかったわけでもない。ただそれらに抗うことを知らず、流された先が『死』であろうと『生』であろうと、そのままを受け入れるしかない、そのような状況だった。今から思えば心を動かさずに生きることが、生きる術だった。
自分の希望を持つことを許されず、持つことすら教えてもらうこともなく。しかしアシアはそれを許してくれた。教えてくれた。
アシアと出逢ったから、知ることができた自分の感情や考え方。また、それを表出しても良いのだという安心感。
ただ、それを知らなければ、ディフを買った大人がアシアでなければ、このように置いて行かれることに、こんなにも不安を覚えることはなかっただろう。アシアと出逢う前の、ただ流され生きていくだけの自分であったなら、その時々の大人の都合で振り回されることを諾々と受け入れていただろうに。
それなのに、今、アシアに置いて行かれたこの状況への、自分の中にわき出るさまざまな感情。
『悲しい』『不安』『辛い』。
どれもが当てはまるようで、当てはまらない。
ただ、心が痛くて苦しくて、ぎゅっと締め付けられる。
心の痛みの原因となっているのは、置き去りにされるかもしれないといった不安が一番大きい。
アシアは否定はするが、自分はアシアに買われた子どもであることは、動かすことのできない事実だ。いわゆる、たんなるアシアの所有物だ。だから、アシアが自分を伴ってオウカ国に向かおうが、自分を置き去りにして何処かへ行こうが、それはアシアが決めることであって、その決定にディフは口出しをする権利は持ってはいないのだ。何かを決めるのはアシアであって、ディフではない。
それなのにアシアはいつもディフに強要することはせず、決め事のときにはディフに訊ねてくれる。選択権を与えてくれる。
けれども、アシアに買われたこの身分では、選択することはおこがましいことだと、ディフは未だに思っている。選択できる立場になるには、胸を張ってアシアの隣に立ち、アシアの役に立つ人物でなければならないのだ、とも。
何故、自分はアシアのように空を飛べないのだろうか。あとどれくらい年齢を経れば、経験をつめば、アシアの許で勉強をすれば、アシアのように空を飛んでアシアに置いていかれることなく、一緒に出かけることができるのだろうか。
アシアに必要だと思われる人物になれるのだろうか。
アシアの役に立つことができるのだろうか。
ディフは自分の力のなさ、知識のなさが情けなく、辛かった。アシアと旅をして、こんなにも自分は物知らずで世間知らずなのだと、痛感した。また、知らないそれらを知りたいと思うようになった。
これから学べばいいんです、とアシアは昨日、ディフに図鑑に書かれている文字を教えてくれながらそう言っていたが、果たしてそれでアシアから置いていかれないような状況に間に合うのか。昨日の夕方に置いて行かれてしまった事実により、ディフには不安と焦りがある。
文字の読み書きができないだけではない。アシアから教えてもらう言葉の意味も知らないことが多い。アシアとセドリックとの会話も、理解できないことがよくある。大人同士の会話だ、と言ってしまえばそれまでなのだけれども。
それに、なんとなく、アシアはセドリックに対しては、とても信頼を寄せているようにディフには見えた。
これが自分ではなくセドリックなら、アシアはセドリックが飛ぶことができなくともディフのように置いて行くことなく、一緒に連れ立って行ったのだろうか。
ディフはしばらく窓から離れることができず、アシアが出かけて行った先の森を見つめていた。不安な気持ちはまだ、心の中で小さくならずに燻っている。
とはいえ、カバンの中の荷物をアシアは置いていっているので、自分が持つこの不安は杞憂だとは思う。あとで一緒に森に出かけよう、と昨夜から約束をしてくれている。今さっきも、そう言ってくれた。この道中、アシアは今まで約束を違えたことはなかった。出入国管理所でも、すぐに戻ってくる、と言った通りに、すぐに戻ってきてくれた。だから、大丈夫。
ディフは自分にそう言い聞かせながら二の腕で涙を拭うと、窓から離れて服を着始める。そして、もうすでに起床しているであろうセドリックたちの手伝いをするために、階下へと降りていった。




