表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
103/125

103

 それらを鑑みると、やはりこの村に腰を据えるまでには、早くて数年、もしかすれば十年単位の時間を要する計算となる。

「ディフのこともあります。だから、この地に居を構えて導師としての務めを果たすのは、早くて数年先になるでしょう。」

 アシアは静かなトーンで呟くように言葉を落とすと、軽く頭を振った。

 一瞬の沈黙が、この場に落ちる。それは、希望を持ったがゆえの、気落ちと落胆の色だ。セドリックは腕を組んで、その瞼を閉じ黙している。

 その沈黙を破ったのは、フォルスだった。フォルスはアシアへ、

「ディフと言いますと、導師様がお連れになられている黒髪の子どものこと、ですか?」

 と問う。

 フォルスは、『導師 アシア』が連れているディフという人の子どもとは、出逢ったことはない。ただ、『導師 アシア』と手をつないで歩いている姿を見た、や、ジョイと一緒に畑仕事や家畜の世話を真面目にしている姿を見かけたという村人たちからは、話を聞いていた。

 その彼の姿は、子どもらしからぬとても痩せこけており、満足に食事が与えられていなかったように見え、いかにも隣国の難民そのものだ、とも。ただ、ジョイと一緒に畑仕事をしている彼の表情は明るく、虐げられているようには見えなかったとも、聞いている。

 フォルスの問いに、

「そうです。」

 と、軽く肯いたアシアの表情は少し柔らかさがあるように、フォルスの瞳には映る。

 今までの少し硬さのあるアシアの表情とは違い、一転、柔らかさを伴ったその表情から、『導師 アシア』が人の子どもでしかないディフを大切にしているのが、フォルスに伝わってきた。やはり、『導師 アシア』は伝説の導師のごとく、慈悲深いお方なのだと、フォルスの胸は熱くなる。

『導師 アシア』が現在担っているオウカ国の務めを放り出してこのままこの地に居を構えることは、彼の言うとおり、あまりにも無責任なことだ。また、『導師 アシア』が師と仰いでいる『導師 ノア』の遣いも、果たさないなどといったことはできないだろう。ディフのことも、『導師 アシア』の責で以って、彼が安息に生活できるところまで手を貸すのは、そのとおりだともフォルスは思う。

 そのような理由ならば仕方がないことだ、と。

 なによりも『導師 アシア』はこの地に降り立ち、導師としての務めを果たすことができない、とは言ってはいない。今すぐには無理だ、と言っているだけなのだ。だから、『導師 アシア』が述べるそれら理由ならば仕方がなく、我らはいつまでもこの地で『導師 アシア』の回帰を待つ、と、そう答えようとフォルスが口を開きかけたとき。

「それでは、導師様っ。」

 そのアシアにイリスが何かを思いついたのか、少し勢いついた声音でアシアへ呼びかけた。

 それは、それならば、ディフをこの村に預けてアシアだけがオウカ国に戻れば良いのではないか、とイリスはそう閃いたからだ。

 ディフがアシアのオウカ国への旅路の足枷になるのなら、この村であの子どもを預かり、アシアだけがオウカ国に戻りアシアのオウカ国の導師としての務めの整理に入れば、アシアが今考えている時間より要する時間は、もっと短くなるのではないか、と。そうなれば彼は早々にこの地に回帰して腰を下ろし、『導師』としてこの村で彼が成したいという務めに着手できる。そして彼の務めの着手が早ければ早いほど、イリスが切望する『導師 アシア』のその手伝いを、間を置かずにできるのではないか、と、瞬時に閃いたゆえのアシアへの呼びかけだった。

 しかし。

 イリスからの呼びかけに、何でしょうと柔らかく応うアシアのその表情に、前のめりになりそうな感で勢いついていたイリスのその勢いが、何故か止まる。

 そういえば、と。あの子どもはこの導師に彼の亡き父の姿を重ねていなかったか、と先日の図書室でのディフとのやり取りがイリスの脳裏に蘇ってきた。

 イリスの容赦のない質問に、子供らしからぬ、とても働き者の手をぎゅっと握りしめ、傷ついてはいないだろうに、傷ついていることすら自覚のない、虐げられて生きてきたあの子どもが、『導師 アシア』のことを信じ、心の拠り所とし、そのうえ彼は顔も知らない彼の亡き父親とその姿を重ねて慕っていたではなかったか。

 今、イリスがアシアへそのイリスの考えを提案することは、そのディフを傷つけることにならないだろうか、という思いも瞬時に浮かんできたゆえに、イリスは勢いアシアの名を呼びかけた状態で止まってしまった。

 イリスの今閃いたその考えは、たんに、イリスが『導師 アシア』の成す導師としての務めの手伝いをすぐにでもしたいという、イリスの益しか考えていない内容だ。しかも『導師 アシア』の手伝いを、というこの思いはもちろん、『導師 アシア』やこの村のために、ではあるが、イリスの心の大部分を占めているのは、イリスの知りたい、知識を得たいといったイリスの好奇心を満たしたいといった気持ちだ。

 言ってしまえば、たんなるイリスの我だ。我が儘でしかなかった。

 たんなるイリスの我を満たすためだけに、あの子どもを傷つけるような提案を口にするのは、人として、また子を持つ母としてどうなのだろうかといった考えが、イリスの中に後ろめたさの感情を交え浮かんでくる。

 そしてそう思った瞬時に、イリスの愛娘であるソフィーの無邪気な笑顔と幼い子の可愛らしい笑い声と、今朝、彼女がアルビーに背負われて畑へ出かけるときに、母であるイリスへその小さき両手を目いっぱい伸ばし、イリスに抱きつき母親であるイリスも一緒に畑仕事に行くのだと言わんばかりに泣いていたその姿が瞼に浮かんできた。

 それと同時に、先日の図書室でのディフの姿も記憶に蘇ってくる。

 彼は『導師 アシア』の役に立ちたい思いで、その心の中はいっぱいだった。『導師 アシア』の役に立ちたいがために、文字を覚えたいと言っていた。今まで椅子に長時間座り、文字と対峙することなどしたことがなく、慣れない作業だっただろうに、彼は一生懸命に、また集中を途切れさせることなくひたむきに文字を書くこと、覚えることと向き合っていた。

 その取り組む姿勢へと向かわせる彼の思いは、彼を買ったという『導師 アシア』がたんに彼の主人だからといった視点のものではなかった。『導師 アシア』が彼の生殺与奪を握る主人だから、といったものではなく、『導師 アシア』が彼を無条件で庇護してくれる父親としての存在であることを彼は望み、そしてそのように『導師 アシア』を見ている部分もあるように、イリスには見て取れた。

 ディフはソフィーのように泣いてはいなかったが、母親であるイリスと離れるのがイヤだと今朝、泣いていたソフィーのその姿とディフの『導師 アシア』のことを話すその姿とがイリスの中で重なった。

 ディフと話をする中でイリスが感じ取ったのは、ディフは無条件で愛されることを、『導師 アシア』と出逢うまで知らなかった、ということだった。ディフ自身は愛されるに値する存在ではない、と思って成長している。否。それすらの思いもなかっただろう。愛されるだの愛されないだのといった土俵に立つことすらなかったように、イリスは感じた。そういった世界は彼には関係がなく、遠いどこかの物語のように見ていたようだった。

 そして、イリスがディフと会話の中から、彼の中で見え隠れしていたものは、それらへの憧憬だった。決して自身の手に届くことのない、憧れる光景。

 けれども羨ましさや妬みは持っていないようだった。持つことすら思いもしなかったのだろう。思えるほどの経験すらなかったようだ。

 彼は物心がついた頃から、自分を庇護してはくれない他人の中で、他人が他人へ向ける愛情をそのそばで眺めているだけで、それらが決して自分に向けられることはないことだけを自覚していた。その光景は、どこか遠い場所の誰かのための物語で、彼は自分がその物語の中に立つことはない、と一種の諦めに似たようなものを抱き、生きていた。

 だから、虐げられていたという自覚もない。

 そのときどきを、諾々と受け入れていた。ディフ自身が置かれていたその最悪な状況下は、彼にとっては日常で、そこから脱出するといった考えも感情もわかなくて、そのままこのまま彼はこの日々をただ過ごすのだと、そのように生きていた。そのような彼へ、手を差し伸べる大人はもちろんのこと、子どもも誰も存在しなかった。

 それを。

 初めてそのような彼に微笑みとともに手を差し伸べ、彼のその働き者の手を暖かな手で『導師 アシア』は包み込んだのだ。気にかけられるに値する存在だ、と、それが例えホンの少しであっても自分は愛情を注がれるに値する存在なのだと、生まれて初めて認めてくれて、意味のある名を与えてくれたのが『導師 アシア』だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ