風薫る 2
優しい風が頬を撫でていく。
薬草畑の花の周りを、小さな蜂が飛んでいた。
長閑なその風景の中で、シャロンの金色の瞳はその男性に釘付けになっていた。
「――なぜ、泣いている?」
彼から出た言葉は、謎かけのようだった。
――え? 泣く?
眉根を寄せた男性の思いがけない言葉に、シャロンは辺りを見回したが、答えは見えてこなかった。
背が高く整った体躯に、腕組みをしたまま眉根を寄せる男性。
――流石に妖精じゃないわよね、この人。このお屋敷の方かしら? でも泣くってどうして? 言っている意味がわからないわ。
静かな時間が流れる。
困惑したシャロンは、白いシャツと薄いグレーのパンツ姿というラフな出立の彼を、縋るように見つめた。
しばらくして、男性が再び口を開いた。
「迷子?」
「え?」
「迷子だったのか?」
その男性の言葉に、はじめて自分の頬に流れる涙に気がついた。
私?
慌てて両手で頬を隠す。
「まっ、迷子じゃありません!」
私のことだった! なぜ涙? いつの間に?
押さえた頬が熱くなっていく。
狼狽しているシャロンを見て、男性の片眉が少し上がる。じゃあなぜ泣いている、と。
何故と言われても、いま自覚したばかりだ。
「あの、これは、そのっ……」
なんというか、そう!
「懐か、しくて……」
そうだ。懐かしかった。
伯爵家に引き取られてからの辛い日々を、助けてくれた薬草たち。見守ってくれたのは、亜麻色の髪をした緑の瞳の人。淋しい時に包んでくれた、薬草を扱う優しい手。キリル――。
「懐かしい?」
男性の眉がさらに上がる。怪訝な顔付きに冷ややかさが加わった。
しかし、蘇る思い出に浸るシャロンは気づかない。
「だって久しぶりだもの!ジャーマンカモミールにペパーミント、フェンネルにローズマリーも!」
すごいわ! お屋敷の傍に、こんなに沢山の薬草、こんなに広い畑があるなんて!
シャロンは、さっきまでの恥ずかしさを忘れ興奮していた。
その両手を大きく広げ胸いっぱいに香りを吸い込むと、鼻腔の奥に青く爽やかな香りが広がる。目を閉じれば、それをより一層深く感じることができた。押さえ込んだはずの目許に、またも涙が滲んでくる。
男性は小さく息を吐き、ハンカチを差し出した。
「お腹が弱かったのか?」
ぼそりと呟いた彼の言葉に驚いた。
「――わかるの?」
すごいわ! と、またも大きな声を上げる。
「薬草に詳しいのね!」
シャロンは、差し出されたハンカチを笑顔で受け取った。興奮と驚きに包まれた彼女の目許には、もう涙は滲んでいなかったが。
広大な畑を眺めていると、薬草の種類ごとに分けられ植えられているのが分かる。奥の方にレンガ造りの建物が見え、その脇に温室も並んでいた。
「これぐらい誰でも知っている」
少し頬を赤くした男性は、足元のジャーマンカモミールの花に、指先でそっと触れた。とまっていた小さな蜂が飛んでいく。
「そうなの?」
揺らめくカモミールと男性の顔を、交互に見比べた。
私は知らなかったわ。
――まさか、一般常識だったの? でも、伯爵令嬢教育には含まれていなかったはずよ。
驚きに目を白黒させた。
吹き出したのは男性だった。
「泣いたり笑ったり、忙しいやつだな」
笑った彼の顔は、花が綻ぶように輝いていた。思わず声を上げそうになった。
――妖精から、人間になったわ。
彼の纏う雰囲気が温かくなる。胸の鼓動が早くなっていく。
「カモミールもフェンネルもペパーミントも、昔からよく使われている薬草だ」
特別なことじゃない、そうカモミールを見つめる男性の眼差しは、これ以上にないくらい優しかった。
息をするのも忘れるくらいに。
その姿から目が離せなかった。
「――――っと、お迎えが来たようだ」
「え?」
男性の目線を追って振り返ると、遠くに輝く金の髪が見えた。
「――あ」
忘れていた。
足早に歩いてくるのは、フォスター侯爵家の次期侯爵、クリストファーだった。彼はシャロンの姿を捉えると、緩くウェーブのかかった金髪を輝かせながら、早足に近寄ってきた。
シャロンは膝を折り、挨拶をする。
「こんなところで、ひとりで何をしていたんです?」
「ひとりで?」
その言葉に振り向くが、銀髪の男性の姿はもうそこにはなかった。
「あの、クリストファー様」
さっきの男性は誰だったのかと、聞きたかった。
「ここで何を?」
にこやかな笑顔。しかしその奥に威圧的なオーラを感じる。
そこで、シャロンはクリストファーの質問に答えていないことに気づいた。
「申し訳ございません」
慌てて再び膝を折り、頭を伏せた。
「ああ、別に謝罪を求めているわけではなくてね。まあ、あまりにお帰りが遅いので、迎えに来てしまいましたが」
「お手を煩わせて申し訳ございません」
「いいえ、構いません。美しい女性を追い、探し歩くのもまた楽しい時間でしたから」
そんなはずはない。優しい口調ではあるが、楽しさは少しも感じられない。よほど探し回ったということか。美人は怒ると怖い。クリストファーも然り。自分のせいとはいえ拷問に似た時間に、胃をキリキリ締め上げられるようだった。
「無礼をいたしました。重ねてお詫び申し上げます」
謝罪以外の言葉が浮かんでこない。
「そう固くならないで欲しいんだけどね。それに謝罪続きで話が進まない」
で、なぜここに?クリストファーは辺りを見回した。
シャロンは頭を伏せたまま、どう答えるのが正解なのか思案していた。指先が緊張で冷たくなり、痺れてきた。
「……なぜ、と申しますと?」
「こんな奥まった場所、普通は来ないでしょ?」
その通りだ。しかも勝手に中庭に出て敷地内を彷徨いた。不審極まりない。
「も、申し訳ございません。つい、匂いに惹かれて入り込んでしまって」
「匂い?」
「ええ」
そう言いつつ、シャロンは薬草畑に目を向けた。
「――匂いってこの草花の?」
「……草花?」
「中庭の薔薇の香りでもなくて?」
と、クリストファーが首をかしげる。それはそうだろう。わざわざ、僅かな香りをたどった自覚もある。正直に話したことが、さらに不信を煽ってしまっている。
だが、気になるのはそこではなかった。握りしめた手の中に、受け取ったままのハンカチがある。薬草に向ける彼の眼差しと、クリストファーの草花発言。ふたりの薬草に対する扱い、違いは明確だ。
もしかして、薬草と言ってはいけないのかしら? それとも……。
聞いていいのかもわからない。
「……ご迷惑をかけしました。すぐに戻ります」
そう宣言し、急いで踏み出した足許を見てぎょっとする。走ったせいでヒールも足元も泥で汚れていた。
「わあ、これはまた随分と派手にやっちゃったね」
「お見苦しいところを――」
令嬢に有るまじき姿に、シャロンの焦りは最高潮に達していた。
クリストファーはそんなシャロンには目も呉れず、跪きシャロンの足元をハンカチで拭った。恥ずかしさと時期侯爵を跪かせている事実に、シャロンは声のない悲鳴を上げた。