風薫る 1
「お茶会って、肩が凝るのね……」
父親から受け継いだ金色の瞳は、長いまつげに縁どられ、見上げたその空を映していた。シャロンの綿あめのような線の細い金髪が、彼女の動きに合わせて揺れる。
お茶会の席を中座していたシャロンは、フォスター侯爵家の長い廻廊をゆっくりと歩きながら肩に手を置いた。
急いで戻らなければ、継母の機嫌が悪くなるだろうことは想像に難くない。だが、重い足取りに歩幅もどんどん狭くなり、やがて、止まった。
――機嫌が悪いのは、いつものことだわ。
一昨日から降り続いた雨は、今朝方ようやく上がった。
轟く雷鳴と、地面を叩きつけた雨が嘘のように、爽やかな青空が広がっている。山の稜線に重なる積雲は、夏が近いことを感じさせた。
その空を悠々と舞う鳶を、何処か遠くに感じつつため息をつく。人気のない廻廊に、その深いため息が響いた。
例え今日が初めてのお茶会であろうとも、特に気負いはない。そのはずだったのだが。
「まあ、あなたがシャロンさんね。いらっしゃい、初めまして。今日が初めてのお茶会ですってね、そんな記念すべき時間をご一緒できて嬉しいわ。ゆっくり楽しんでいってね」
フォスター侯爵夫人に、眩い笑顔で迎えられたところまでは問題はなかった、と思う。問題はその後だった。継母とともに案内された先に待っていたのは、長男のクリストファー。
シャロンは固まった。
お茶会、よね。
――女性たちの社交の場、……ではなかったのかしら?
透き通ったグレーの瞳を優しく細めた美貌の侯爵夫人、その彼女に並んでも引けを取らない青年クリストファー。ふたりの艶めく金色の髪、眺めているだけでため息が出そうな、まるで名画の中から出てきたような麗しすぎる母と息子。予想外の展開に目を瞬かせたいのを堪え、継母の様子を伺うが、楽しげに侯爵夫人と談笑していた。今シーズンのドレスの流行色について、話に花が咲いている。クリストファーも穏やかに相槌を打ちながら、最近売り出されたシフォンの布地についてその美しさを語っていた。シャロンも話を合わせてみたものの、違和感は拭えない。上品な笑い声、穏やかに流れる時間、応接室の空気と相反する背中を流れる冷たい汗。どうやら現状についていけていなのは、自分だけのようだ。
貼り付けた笑顔の裏、高速回転で「伯爵令嬢の嗜み」として受けてきた教育を振り返る。合点がいかない。だって、これじゃあまるで……。
そして、シャロンの疑問はある確信に変わった。
そういえば、そんな顔合わせについて聞いたことがあった、と。
一人になりたかった。
中座したのはそんな理由からだった。
流れゆく雲をぼんやり見ていると、鳶の鳴き声が響いた。
その高く澄んだ鳴き声に、我に返る。
――早く戻らないと。
そう思い戻した視線の先に、侯爵家の中庭が広がっていた。咲き誇る薔薇の芳醇な香りが漂い、花びらに残る雨の雫が、昼下がりの陽光を受けて輝きを放っている。
応接室に向かうはずの足は、中庭に向かった。戻りたくないという無意識の意識が、シャロンの背中を押していた。
足を踏み入れた中庭の芝生は、厚く敷き詰められ、足元を包み込むように柔らかく、入念に手入れされた薔薇は、雨に打たれた傷や汚れの形跡も見つけられない。
「この薔薇、今朝までの豪雨が無かったみたい。流石は侯爵家、ね」
……きっと早朝から、ううん、雨の中でも誰かがお手入れしたのね。
優秀な庭師がいるようだ。
指先でその花びらに触れると、まるい雫が花弁の上で転がり地面に落ちて弾けた。その小さなドロップショーを見つめていたが、じわりと胸が苦しくなっていく。
現実逃避もそろそろ限界だった。
それは、庭に沸き立つ薔薇の香りが、継母のお気に入りの香水を思い出させ、同時に、眉根を寄せこめかみを押さえる継母の姿も浮かんでくるからであった。
彼女は出会った時からずっと、シャロンの前ではいつも苦しそうに顔をしかめていた。
シャロンがブラックバーン伯爵家に引き取られたのは、実母が亡くなった9歳の時だった。
不安の中訪れた伯爵家。
「シャロン、君に会えるなんて。夢のようだ」
ブラックバーン伯爵は殊のほか喜んでくれた。ホッとしたその刹那、となりに控える継母の視線が突き刺さった。冷ややかな憎しみを秘めた眼差しだった。
歓迎されていない空気がひしひしと伝わってくる。
当然だろう。彼女からすれば、自分は愛人の娘である。しかしその憎悪の念に耐えるすべを、9歳の少女は持ち合わせていなかった。
頼みの綱の伯爵は当時病床にあり、顔を合わせることは殆どなかった。その伯爵に代わり、屋敷を取り仕切っていたのは継母だった。
自分の存在に否定的な環境と、罪悪感に押しつぶされる毎日。屋敷内で好奇の目に晒されたシャロンが体調を崩すのも、時間の問題だった。
いつの頃からか、継母はシャロンと視線を合わせることすらしなくなった。
それは今日まで、何ら変わることはなかった。
ところが数日前、16歳を前にして突然継母から声をかけられた。初めてのことだった。
告げられたのは、お茶会の日程が決まったということ。
そして今日がその日。
お茶会と称した顔合わせ。
これは、お見合いだ。
――伯爵家から早く出て行けってことかしら。
初めて声をかけられた日、本当は少し嬉しかった。
「シャロンさん、今度お茶会があります。私と一緒に参加するように」
扇越しの継母の表情は、いつもの眉根を寄せたもので、口調も温和とは言い難く刺々しい。冷たい視線、必要最低限の言葉、それでも。
伯爵家は居心地の良い環境ではなかったけれど、引き取って育ててくれた恩に報いるべきだと決めていた。そのために導き出した答えは、伯爵家にとって有益な関係先に嫁ぐことだった。そのために教育も受けてきたのだ。
異論など、ない。
ただ……、その日が、こんなに早く来るとは思っていなかっただけで。
何も望んではいけないのだと、悟ったあの日を思い出す。
中庭に立ち尽くしていたシャロンのもとを、一陣の風が吹き抜けていった。
ハーフアップに結われた柔らかな髪が、風に巻き上げられる。
乱れた髪を慌てて整えていると、風に乗って来たその香りが鼻腔をくすぐった。
「この香り……!」
思わず息を吸い込むと、苦しかった胸の痛みが和らいでいった。
顔を上げ、風上に目を向けた。
奥に通じる小路が見える。
ふらりと踏み出した足が、次第に足早になっていく。水色のワンピースの裾がまとわりつくのを両手でたくし上げ、踵の高い靴が足元を取られるのも厭わず、泥濘の残る小路を進む。
いつの間にか、走っていた。
呼吸は徐々に荒くなり、息苦しくなってきた。
だが、次第に濃くなる匂いに、頬は紅潮し、瞳は期待に開かれていった。
やがて、広壮な侯爵家の屋敷を走り抜け、回り込んだ先で足を止めた。
「わぁ!」
目の前に、緑の絨毯を敷き詰めたような薬草畑が広がっていた。
一面の緑のグラデーションの中に、白や黄色、紫の小さな花が咲き、風に揺れている。
乱れた呼吸を整え、シャロンは大きく息を吸い込んだ。
胸に染み込んだその香りが、心の奥の記憶を刺激する。
その時だった。
「お嬢さん、その先は行き止まりですよ」
突然かけられた声に息を飲む。
堰を切ったように蘇える記憶。
あの頃誰よりも大切だった、亜麻色の髪に優しい緑の瞳の人。
孤独だった心を支えてくれた笑顔、あの時と同じ言葉――。
キリル!
慌てて振り返った。
――違う。
思い描いた笑顔は、陽炎のように揺らめき消えていった。
振り返った先に居たのは、背中に流れる銀色の髪を風になびかせた人。
すっと通った鼻筋。深い青の瞳と緩く弧を描く薄い唇。
どこか冷たい印象のその人に、思わず、見惚れた。
――――妖精。
そう思い込んでしまうくらいに、美しい顔をした男性だった。