龍神様と、ある男の一生。
それは、空にまだ龍が飛んでいた頃のお話。
「ヤスチカ、そろそろ家に戻りますよ」
「ばばさま、おそらになにかがいます」
「まぁ! 龍神様だわ」
その時まだ幼子だった私は、祖母が空を見上げ「龍神様」と言った生き物の姿に釘付けになった。
それは、空高くを泳ぐように移動していた。
それは、空高くあるのに、とても巨大だった。
それは、真っ白な蛇のようでもあり、蜥蜴のようでもあった。
それは、額から金色の角を対で生やし、金色の鬣をたなびかせていた。
それは、羽根もないのに、優雅に舞っていた。
その姿は、荘厳であり壮麗でもあった。
着物が汚れるのを気にする事もなく、当たり前の様に地に膝を突き、龍神様に祈りを捧げる祖母を見て、私も同じようにすべきだと感じた。
初めて龍神様を見たこの日、あの美しい龍神様を敬い奉る事で、私達はこの世界で、この国で、平和に生きていけるのだと祖母に教えられた。
その美しい姿に憧れぬ事など出来るはずもなかった。
私が十歳になって暫く経ったその日は、祖母の五十歳の誕生月である八月の初日だった。
朝、いつもの時間に起きると、既に身支度を整えていた祖母に私は違和感を覚えた。
祖母はいつも小綺麗にしていたが、この日は少し白いものが混じり始めた髪を複雑に結い上げ、祖母の持ち物の中で一等の着物を着ていた。
まるで、何か特別な祝い事の日のようだった。
「ヤスチカ、お前に伝えなければならない事があります。本日、私は龍神様に身を捧げます。これからは貴方と貴方の父、二人で生きていくのですよ」
祖母が何を言っているのか理解できなかった。
私と祖母は二人暮らしだった。母は私を産んで直ぐに死んだと聞かされていたし、父も死んだと言われていたのだ。
「貴方の父は、国より龍神様のお世話をする命を受け、龍神様の神殿にて神官をしています」
「龍神様の神官、ですか?」
「ええ――――」
私の家系は代々神官を排出しており、男は十二歳になったら神殿にて神官になる事を認められているのだそうだ。
女は子を産み、神官候補を育てる。
それを、そんな事を、代々繰り返している家系なのだと、どこか誇らしそうに祖母は語った。
だが、それは世間には知られてはならない事なのだと言われた。だから、今日まで内密にしていたのだと。
「貴方はまだ十ですが、貴方の信仰心は誰よりも深く美しい。龍神様にお仕えする許可が下りました。大丈夫よ、貴方のように聡い子は直ぐに新しい環境にも慣れるでしょう。さぁ、神殿に向かう準備をしますよ」
何故、世間には知られてはならないのか、など色々と聞きたい事があったが、祖母に急かされ身支度を整える事を優先させられた。
耳の中ほどで切り揃えていた髪を後ろに撫で付けられ、私も祝い事の日に着るような一等の着物を着せられた。
「あなたの瞳は少し薄いから、黄緑の着物が良く映えるわね」
「あのっ、ばばさま、私も神殿について行って、龍神様にお会い出来るのですか? 神官になれるのですか?」
「ええ、そうよ。しっかりと龍神様にお仕えなさいね」
「っ! はいっ!」
この時、私は何も解っていなかった。ただ、龍神様に仕える神官になれるのだと、心から喜んでいた。
私達の暮らすこの国は、四方を山に囲まれている。その中でも龍神様の御座す北の霊峰は特別な場所だった。
その霊峰の頂上には神殿があるのだが、そこには歳が五十にならないと立ち入れない、と決まっていた。
だから、五十になると皆に祝われながら霊峰に向かう。霊峰に向かった者が帰って来ないのは、当たり前だった。
私は勘違いしていた。
霊峰にある龍神様の神殿の中には都があり、五十になった者はそこで幸せに暮らしているのだ、と。何故かそう思い込んでいた。
神殿で龍神様に仕えて十年目のこの日、新人神官を指導する為、儀式の間にいた。
儀式の間の血塗れの床を磨き拭き上げながら、あの日どこか誇らしそうにしていた祖母を思い出していた。
この国は、龍神様を敬い奉り平和を維持している。
「ヤスチカ、そこの掃除が終わったら共に夕食にしよう」
「はい、父上」
この国は、龍神様を敬い奉り、人の肉を捧げる事によって、平和を維持している。
人は皆、五十を迎える月の初日に自ら神殿へ赴き、自ら龍神様の餌となる。
それは、何百年も前からの決まり事。
それは、この国の当たり前だった。
「ヤスチカ、お前はもう二十になるな? そろそろ子を作って来なさい。相手は決めてある」
「はい、父上」
私達一族の血を残すため、龍神様の神官を確保するため、同じような家の女と子を成す必要があるらしい。
何度か父が決めた女の元に通った。
女は何にでも興味を示し、神殿の事や神官の事、龍神様の事を聞いてきた。少し面倒な女だと思っていた。
程なくして、父から女が身籠ったと報告があった。これであの質問攻撃から逃げられると思うと、ホッとした。
だが、ふとした瞬間に寂しく感じる事もあった。
女の元に通わなくなって半年以上が経ったある日、子が産まれたと聞かされた。実感は全く無かった。
それから暫くして父が龍神様の糧となり、女との間に産まれた子供という者が神殿にやって来た。
いつの間にか私の子供が産まれて十二年もの歳月が過ぎていたらしい。
その子供はムネチカと言い、私の名前の一部が使われているのだ、と何故か誇らしそうに笑い掛けてきた。
その子供……ムネチカは私の小さな頃にそっくりだった。真っ黒で柔らかめの髪、少し薄い茶色の瞳。
全く違うのは、好奇心旺盛で何にでも首を突っ込んだ事だ。何でも知りたがった。
見た目は私に、中身はあの女にそっくりだと思うと何だか不思議な気分になった。
ムネチカが何かをする度に誰かが怒っていた。誰かが大いに笑っていた。
ムネチカが来てからというもの、神殿内は少し騒がしくなった。
だが、その騒がしさを何となく心地良く感じていた。
ムネチカが神官になって二年が過ぎたある日、とうとう事件は起こった。
龍神様は捧げられた糧で満腹になると、その場で丸くなって寝る事がある。そんな時は龍神様が自ら起き、立ち去るまで待ち、その後に儀式の間の床を磨く。
だが、ムネチカは眠る龍神様に近付き、鬣を撫でたり、髭を触ったりしていたらしい。
「わっ、私は止めたのです! ですが彼が……」
「……そうか。すまない、嫌なものを見せたね。お前はもう休みなさい」
「…………はい」
たまたまその場に居合わせてしまい、惨状を目の当たりにしてしまったムネチカの一つ年上の新米神官。その顔面蒼白な少年を部屋に戻し、自ら床を磨いた。
何年ぶりだろうか。床磨きは新米神官の仕事だ。指導する時は一緒に磨きもするが。それでも随分と久しい気がした。
床を磨きつつ、龍神様の食べ残した糧を……ムネチカを、片付けた。
神官になって三十五年もの歳月が過ぎた。気付けば神殿の中で一番偉い立場になっていた。
そうすると、国の上層部や貴族の方々と会う機会が増えた。
国のお偉い方々は龍神様に身を捧げる事は無い。それは、政の為に先人の知恵が必要だからだ、と父に教えられていた。
ところが、事実は全く違ったのだと知った。
それを知った瞬間、腹の奥底から煮えくり返った何かが飛び出して来たような気がした。
龍は神では無かった。
この神殿での儀式は、人々が龍や魔獣に喰い荒らされない為の対策だった。
何百年も前に、最強と謳われている龍とこの国の王が契約した。
そもそも、五十を迎えた者がいない時は、犯罪者などを差し出していた。
もっと早くに自ら気付くべきだった。
龍は、ただ肉を食い散らかしに来ているだけだと。
この神殿は、毎月定期的に糧を差し出すための場所なのだと。
この国は、龍のための牧場なのだと。
そして、龍の糧になるのは、下々の者達だけなのだと。
昔は、大型の魔獣がそこかしこに出没しており、龍と契約する事によって国を民を護っていた。そこまでは多少納得出来た。だが、この数百年の間に、その大型の魔獣は龍が食い尽くしてしまっていた。
龍は…………もう、いらないのではないか?
私は、たぶん、ムネチカを愛していたのだろう。ムネチカを産んだ女の事も愛していたのだろう。
私は、いつからか龍を敬う事を辞めた。
私の愛する者達を喰らった龍を憎むようになった。
龍を頼らない世界を望むようになった。
私に残された時間はもう長くはない。
神殿の権力を、家の権力を、使えるだけの全ての伝手を使った。
この数年で掻き集めた物で事足りるかは解らない。
この計画を成功させるのは私ではない。私は龍の糧になる事を選んだ。
だから、たった一人の協力者、彼に後の全ての事を頼んだ。
あの日、顔面蒼白で全身を震わせていた彼はとても頑強なる青年になった。
彼が全てを終わらせると約束してくれた。
「君には嫌な役を任せてしまって申し訳無いね」
「いえ、あの日……私は目が醒めましました。あれは神ではない。あれはただの魔獣です。必ず、成功させましょう」
「あぁ、必ず…………」
対大型魔獣用の猛毒を着物の中に大量に仕込み、同じ毒を大量に飲む。
あの日から少しずつ毒に慣らした。毒で即死しないように、体中が毒に蝕まれるように。
「では、後は頼んだよ」
「ヤスチカ様、ご武運を!」
腰に差した剣の柄を握り締めて深々と頭を下げる青年に背を向け、儀式の間に向かう。
大丈夫、彼はやってくれる。
大丈夫、私はやれる。
さぁ、反撃の時だ!
龍よ、私を喰い散らかすがいい。
私を腹に納め、存分に苦しむがいい。
今まで好き勝手に喰い散らかして来たツケをお前が払う番だ!
……これは、空にまだ龍が飛んでいた、遠い遠い昔の出来事。