【第2話】清浦正則&真田芳雄
夏はいつの間にか終わり、外はかなり涼しくなっていた。山間ではもう紅葉が色づき始めたらしい。
米やレトルト食品、袋麺などが一気になくなった俺は、しょうがなく近所の業務スーパーに買い出しに出かけた。二四時間営業を利用して、買い出しは夜の一〇時以降に行うことにしている。いつも店には俺一人で、ストレスなく買い物ができていた。
だけれど、その日は様子が違った。
入ってすぐに、真剣に野菜を選んでいる清浦を目にしてしまったのだ。気づかれる前に、即座に棚の陰に隠れて、息をひそめて買い物を行う。
だが、最後のカップ麺を選んだところで、やってきた清浦に気づかれてしまった。逃げようとしたが、白米の入った買い物かごは重く、すぐに追いつかれてしまう。
「福家さんですよね。こんばんは。清浦ですけど、覚えてます?」
おそるおそる尋ねてきた清浦を、俺は無下に扱うことはできなかった。足を止めて振り向く。7
店内には俺たちしかいなかったから、どれだけ通路を占拠してもよかった。
「あっ、はい。覚えて、ます」
清浦は目元を緩ませる。久々に友人に会ったかのように、胸をなでおろしていた。
「よかったです。福家さんが元気そうで。急にデイケアに来なくなったから、皆心配してたんですよ」
その言葉を、俺は嘘だと決めつける。邪魔者の俺を、気にかける奴なんているわけがない。
気まずくなって、俺は視線を下げた。買い物かごの中には、野菜、魚。それにお菓子が数点。
そして、俺は気づいてしまう。清浦の左手に生じた異変に。
「き、清浦さんは今もデイケアに通われてるんですか……? 今って、どんな感じなんですか……?」
「すいません。僕、今デイケアに通ってないんですよ」
知らないうちに、「え?」と漏らしていた。かつては毎週デイケアに来ていた清浦が? もしかして俺と同じようにドロップアウトしたのだろうか。
口を挟めない俺をよそに、清浦は続ける。
「僕、七月から就職しまして。派遣で障害者雇用なんですけど、一応週五で働かせてもらってるんです。結構忙しくて、なかなかデイケアには行けなくなってしまいました」
「そ、それはよかったですね」と、俺は思ってもいないことを口走る。
自分は社会の一員になった。所属の欲求が満たされた、強者の余裕にしか思えなかった。誰からも必要とされていない俺に対する、嫌味にしか思えなかった。
無垢な視線を向けてくるあたり、自覚がなく性質が悪い。前に進むことができない人間もいるのに。
「でも、郡司さんから聞いた話ですけど、デイケア、ほとんど前と変わりないそうですよ。あっ、でも前と比べると結構収まってきたので、料理を作れるようになったとは言ってました」
社会人になった清浦の顔が眩しくて、直視できなかった。相変わらず、かごを持つ左手を見つめる。
清浦も俺の視線に、気がついたようだ。かごを右手に持ち換えて、左手を開いて手の甲を見せてくる。
「あの、実は僕、先月結婚したんですよ」
清浦の左手の薬指につけられていたのは、銀のオーソドックスな結婚指輪だった。彼女がいることさえ知らなかった俺は、驚くよりも置き去りにされた寂しさを味わう。
仕事も伴侶も手に入れて、清浦は一気に社会的価値のある人間になった。部屋にうずくまっている俺とは大違いだ。
「お、おめでとうございます……。奥さんはどんな方なんですか……」
「とても優しい人ですよ。前の仕事を退職した後も、こんな僕に寄り添ってくれた、太陽みたいな人です。彼女がいなかったら、僕はもう生きていないかもしれませんね」
大げさなことを真顔で言ってのけるから、嫉妬心さえ起こらない。人間として違うステージにいることを、思い知らされる。
すっかり打ちのめされて、「よかったですね」としか言えなかった。
「ありがとうございます。あの、これは提案なんですけど、もしよかったら僕たちの結婚式に来てくれませんか? 来年の二月に行う予定なので」
一瞬、清浦の言っている意味が分からなかった。俺を結婚式に呼ぶ? この惨めな俺を?
俺みたいな根無し草を呼んだところで、軽く見られるのは自分の方だというのに。そこまで呼べる友人がいないのだろうか。
「す、すいません……。お気持ちはありがたいんですけど、今回は辞退させてもらっていいですか……」
冗談じゃないという怒りを抑えつつ、俺は平身低頭して、申し訳なさを演出した。困らせてやろうという、せめてもの抵抗だった。
案の定、清浦は軽く焦る。慌てぶりが少し気持ちいいと感じて、落ちるところまで落ちたなと感じた。
「分かりました。でも、福家さんに僕たちの結婚を祝ってほしいと思ったのは、本当ですから。デイケアでも、大変お世話になりましたし」
「そうですか。それは、ありがとうございます」
「あの、今日は久しぶりに話せて嬉しかったです。もしよかったら、また会って話しませんか?」
俺は首を振ることで、清浦の申し出をあしらった。
目と鼻の先にあるレジへの数歩が、途方もなく重く感じた。
精算中に振り向くと、清浦は棚の上の菓子を眺めて、買うかどうか迷っている。かごを持つ左手では、銀のリングが照明を反射して、ぴかぴか輝いていた。
どこに行っても、人と出会うおそれがあると悟った俺は、全ての買い物を通販で済ませるようになっていた。
季節の移り変わりは寒くなった室温で、世界の移り変わりはネットニュースで知る。
今年の漢字は「快」になったらしい。流行り病からの世界的な快復を表したようだが、まだワクチンを打っていない俺にとってはどこ吹く風だ。
きっと今は、皆マスクを外して歩いているのだろう。時代に取り残されたことを突きつけられるようで、俺はますます外出ができなくなっていた。
カーテンを閉め切った部屋には、昼も夜もない。ただ、暗く重たい空気が立ち込めるだけだ。だけれど、スマートフォンを見て、いつもより早く起きたことが分かる。
今日は週に一度の生協が来る日だった。プラスチックや発泡スチロールの箱が三箱ほど、玄関の横に置かれる。俺の命を繋ぐ糧だ。
そろそろ届いていると思い、俺はジャージのまま玄関を開けた。それが間違いだった。
横風に煽られる小雨とともに、目に飛び込んできたのは、生協のロゴが描かれたトラックだった。配達をしている真っ最中で、階段を踏みしめる音とともに、その姿がはっきりと見えてくる。
配達員は初老の男だった。口元にシミが出来ていて、帽子からはみ出す髪の毛には、いくつか白髪も見える。青い箱を持ち、腰を曲げながら、一番奥にある俺の部屋までやってくる。
重たそうにしていて、注文した五キログラムの無洗米が入っていることを思わせた。
箱を置いた男は、ふぅと一息つく。細かい雨粒がついて、ネイビーのユニフォームがところどころ黒ずんで見える。胸に留められたネームプレートには「真田」の二文字。
白い吐息に、俺は感謝をせずにはいられなかった。
「あの、ありがとうございます。わざわざ寒いなか来てくださって」
「いえいえ、大丈夫ですよ。仕事ですから」
形式的な言葉とは裏腹に、真田は心からの笑顔を持って答えた。思わず絆されそうになるが、ぐっと堪える。
「あの、お客さんは学生さんですか?」
「いえ、違います」
二六にもなって大学生に見られることは、好ましいことではない。
俺の冷たい視線を受けた真田は、「まあ、それは人それぞれですからね」とあからさまに慮った。必要のない配慮が、俺の眉間に皴を作る。
「お客さん、リンゴ好きなんですか?」
唐突な真田の質問に、「は?」という声が漏れた。
確かに俺はリンゴが好きで、生協でも毎週頼んでいる。持ち手から中身を推測したとしても、わざわざ聞くだろうか。プライバシーの侵害だ。
「なんでですか? あなたには関係ないですよね?」
「いや、どうしても気になったもので……。最後だからこの機会に聞いておきたいなと……」
「最後?」
「私、今年いっぱいでこの仕事を辞めるんですよ。定年です」
会ってまだ五分も経っていないのに、突然の身の上話。俺はYESともNOともとれない、曖昧な頷きをするしかない。困った表情を装って、真田が早く話を終えてくれることを願う。
だけれど、真田は話を止めなかった。
「私、六〇で前の会社を退職したんですけどね。これでやりたいことができるぞって思っても、仕事がないとなんだか落ち着かなくて。気づいたら、この仕事に応募してました」
「は、はあ」
「前は営業の仕事をしてたんですけど、生きていくために仕方ないとはいえ、相手に仕事の話をするのが少し苦しくて。でも、この仕事では時間さえ守れば、お客さんといくらでも世間話ができますし、六〇年も生きていると、話題だけは溜まっていきますからね。もう毎日仕事に行くのが楽しみで」
「へ、へえ」
「でも、今日で最後ってなるとやっぱり少し寂しくなってきちゃって。泣くほどではないんですけど、帰ったら仕事が終わってしまうので、それもちょっと嫌だなと。だから、最後にお客さんと話せて、嬉しいです。こんな年寄りの話に付き合ってくださって、本当にありがとうございます」
「え、ええ」
気がつけば暗くなりかけていた空はすっかり夜になっている。電灯に照らされる小雨が、絹糸みたいだ。急降下した気温が、ジャージのままで出てきた俺をあざ笑う。
早く部屋に戻りたい。真田の話なんてどうでもいい。
だって、もう二度と会うことはないのだから。
しかし、その後も一〇分ほど真田は、一方的に言葉を浴びせかけた。
ポケットに入れているスマートフォンが振動したことで、俺はようやく解放される。営業所からだったらしく、電話を切ると、真田は少し慌てた様子で帰っていった。
発進するトラックを見送らずに、俺は部屋に戻っていく。
暖房の設定温度を五度上げて、冷え切った体を温めることに集中した。窓の外では雨が本降りになって、ざあざあと窓を叩く。早く箱を中に入れなければ。そう頭では分かっていた。
(続く)