心の傷につける薬はないが
「お前は俺だけを愛せ。そしたら俺もお前だけを愛す」
俺の言葉に対し、目の前の幼女は懇願するように何度も首を縦に振った。
「お願い、私を愛して」
誰かに愛して欲しい。
それがこの幼女の願い。
誰かを愛したい。
それが俺の願い。
利害は一致している。
そして、こいつには俺しか頼る人がいない。
だから、絶対に裏切られることはない。
「うちに来い。お前、名前は?」
「……露」
「俺は鋭一だ。よろしくな」
血塗れの長手袋を外して、恐る恐る露という幼女の手に触れる。
暖かくて柔らかい。
人に触ってこんなに心地いいのは何年ぶりだろうか。
✳︎✳︎✳︎
「ただいま、露」
なんの変哲もない一軒家だが、それでも家というのは憩いの場だ。
特に俺が家を好きな理由は人がいないこと。
外や高校はどこもかしこも人だらけで気が滅入る。
それに比べて、この家には俺以外にはただ1人いるだけ。
「おかえりなさい、鋭一」
掠れた声が聞こえる。
居間の扉を開けると、俺だけ愛しい人がそこにはいた。
「鋭一、汗びっしょり……」
「ああ、この季節にこの格好じゃな」
もうすぐ夏になる時期で、今日は特に日差しが強い。
そんな日に俺は黒いマスクに二の腕まで届く黒い長手袋。さらに制服の下には首を覆えるインナーを着用していた。
額に汗が滲んでいるが、衣類の下はもっと酷いことになっている。
だが、これらを身に付けないわけにはいかない。
外は病人だらけだからだ。そして、病原菌が蔓延している。
どいつもこいつも心の病気を抱えた頭のおかしい人間。
病気を移されないように気を付けなくては。
そんな病人だらけの世界で、露は特別だ。
露だけは俺のことを理解してくれている。
鬱陶しいマスクと長手袋を外す。
そして、素手で小さな少女を抱きしめた。
俺にとって人間に触れるなんてことは最も恐ろしい行為だ。病気が移るからな。
でも、露は触っても怖くない。
露は絶対に俺を裏切らない。
俺だけを愛してくれるんだから。
「鋭一」
露が俺の唇を求める。
俺のありったけの愛を露に押し付けた。
唇の感触、吐息、体温、全てが愛おしい。
✳︎✳︎✳︎
「鋭一、これ……」
露は赤いランドセルから紙を取り出して、バツが悪そうに俺に差し出した。
「授業参観……?」
『授業参観のお知らせ』と書かれていた。
「そうか、じゃあ婆ちゃんに連絡して……」
「鋭一に来て欲しい」
「……何?」
授業参観にはいつも欠席している。
俺は高校があるし、婆ちゃんはわざわざ行こうという気にはなれないらしい。
露の保護者である婆ちゃんとは別居だから、こういう時は一応連絡を入れるのがお決まりなのだが……。
どうして急に?
「……ダメだ。授業参観ってアレだろ、教室の後ろに保護者共が固まって並ぶんだろ。あんな人が密接する空間にいたら病気が移る」
「教室の外から見てくれればいいから」
「いや、しかしな……」
俺が行くのはあまりよくない。
常に黒いマスクと手袋を着用、しかも保護者とは思えない若さの年齢。
どう見ても不審者だ。
戸籍上は親族だから参観する権利はあるにはあるのだが……。
「鋭一」
露が細い身体を俺の腕に絡める。
心臓の鼓動が伝わって来た。
そんなに来て欲しいのか、俺に。
「分かった、行けばいいんだろ」
「うん」
俺がいつも手入れしてやっている黒髪を撫でてやった。
肩まで伸びている。また切りに行かせなきゃな。
露は本当に嬉しいのか判断しにくい僅かな笑顔を見せた。
しかし、その日は俺も普通に高校があるんだが……。
まあ、休めばいいか。
✳︎✳︎✳︎
参観日。
やはり視線が突き刺さる。
だが、首からぶら下げている名札が俺が不審者じゃないことを証明してくれている。
学校の案内図を頼りに教室に向かう。
5年2組、ここだな。
教室内には生徒と保護者が詰め込まれていた。
無理だ、あの空間には病原菌がうようよしている。
やはり外から見るか。
黒板から離れた方のドア、つまり生徒の背中を見る形でドアの小窓から覗き見る。
露の背中が見えた。
いつも小さいと思っていたが、周りの同級生と比べると普通の体格なんだな。
露がキョロキョロと辺りを見渡す。
そして、目が合った。
軽く手を振ってやると、露は歯に噛んだ微笑を見せた。
授業が始まる。
教師が質問すると、一斉に手が上に上がった。
懐かしいな。
大人しい性格の露が授業に積極的だったのは意外だった。
露は俺と同じ、心に消えない傷を抱えている。
学校で上手くやれてるのか心配だったが、大丈夫みたいだな。
授業が終わると、教室から露が出てきた。
「鋭一、来てくれたんだ」
「ああ、約束だからな」
露の頭を撫でようとすると、手を乗せる前に頭がブレた。
「露ちゃん!」
露の肩を女子生徒が軽く叩いていた。
もしかして、露の友達か?
「鋭一、この子は真子ちゃん」
露が俺に紹介する。やはり友達か。
露に友達がいるなんて知らなかった。
まあ友達がいるのはいいことだ。
それにしてもこの真子ちゃんとかいうガキ、俺の露に引っ付きすぎじゃないのか。
そんなに近づく必要ないだろ。
ただ友達ってだけじゃないのか?
だとしたら許せない。
露は俺だけのものなのに。
「こんにちは。露ちゃんの……お父さんですか?」
考え事をしている時に急に声をかけられるとビックリする。
目の前に大人の女性。真子ちゃんの母親か?
ふと真子ちゃんに目を向けると、身体をビクビクと振るわせて母親の背中に隠れている。
そうか、俺を怖がっているのか。
眉間と目に力が篭っていたのを自覚した。
いかんいかん。何をバカなこと考えてたんだ俺は。
小学生相手に嫉妬してどうする。
「ああ、いえ僕は露の……兄ですよ。今日学校が休みだったもので」
なるべく明るい声で、細い目をいつも以上に見開いて印象良くしようと努める。
「お兄さんですか、道理でお若いと思いました。露ちゃんにはうちの真子がお世話になってます」
真子ちゃんの母は手を差し伸べた。
これは……?
黙って手を見つめていると彼女は怪訝そうな顔をする。
ああ、握手か。
断ると印象悪いだろうが、仕方がない。
さすがに握手は無理だ。
人とこんな近距離で話すのでさえかなり我慢しているのに、触れるなんて耐えられない。
「すみません。お恥ずかしい話なんですが、人に触れるのが苦手で……」
自嘲気味に小さく頭を下げる。
母親は依然怪訝そうにしていたが、手を引っ込めてくれた。
「露ちゃん、次の授業移動だよ」
「あ、うん……」
真子ちゃんは露の手を引いて教室に逃げるように入っていった。
いや、事実逃げているのだろう。
母親も俺のことを気味悪がっている様子で俺から距離を取ろうと離れる。
「あの……」
「はい……?」
母親を呼び止めた。
「露は大人しい子で、あまり友達も出来ない性格だと思いますので、こちらこそ露がお世話になっています」
言いたいことをあまりまとめられないまま喋ってしまった。
母親は何も言わずに会釈して俺から離れていく。
結局印象は悪いままか。まあ俺にしてはよく頑張ったと思う。
露は俺とは違ってまだ『光の世界の住人』だ。
普通に友達を作って、普通の女の子として生活出来る。
それを『闇の世界の住人』が邪魔しちゃいけない。
友達か……。
俺にはもう友達なんて作れない。
『お前の親父って人殺しなんだってな』
心の傷が頭の中に浮き出る。
忘れたくても忘れられない記憶。
『お前なんか友達じゃない』
やめろ。
やめろ……!
やめてくれっ!!
人の心に土足で入り込むくせに、いざとなれば簡単に切り捨てる。
昨日まで普通に遊んでいたじゃないか。
どうしてそんな目で俺を見る?
どうしてそんなひどいことが出来る?
『お前おかしいんじゃねえのか』
違う。
おかしいのはお前らだ。
きっとお前らは病気なんだよ。
人の心を踏みにじることになんの抵抗もない心の病気。
だから俺に近づくな。触れるな。
そうやってまた俺を傷つけるんだろ。
怖いんだ。恐ろしいんだ。
だからやめてくれ。
『人殺しの息子』
頭が割れそうだ……!
あのクソ親父め! あいつさえ! あいつのせいで
……!
俺は……!
……待て、同じじゃないか。
真子ちゃんとその母親は俺を気味悪がっている。
俺のせいで露の友情関係にヒビが入ったら?
そしたら、俺はあのクソ親父と同じだ。
俺はここにいるべきじゃない。
俺はあいつとは違う!
まだ1つしか授業を見てないが、小学校を後にした。
露の友情には俺は邪魔だ。
✳︎✳︎✳︎
家のドアの鍵が開けられる音がする。
露か。
いつもは『ただいま』と言うのに今日は言わない。
「おかえり、露」
返事はなく、足音だけが近づく。
居間の扉が開いた。
隅にランドセルを放り投げて、俺に背中を向けたまま座って、ちゃぶ台に腕を乗せる。
「……怒ってるのか」
返事はない。
「悪かったよ、黙って帰って」
「知らない」
こりゃ随分拗ねてるな。
露は結構頑固だ。お菓子与えてご機嫌取り出来るような子じゃない。
「……なあ、真子ちゃんは大事か?」
露はなんの反応も示さない。
「もしそうならな。あまり俺の話題は出さない方がいい。あの子、俺を怖がってたしな」
変わらず、うんともすんとも言わない。
「真子ちゃんが俺のことを悪く言うなら、お前も俺のことを悪く言ってもいい」
「嫌だ」
やっと口を聞いてくれた。
「言う通りにしろ、露。大丈夫、口でなんと言おうとお前が俺だけを愛してくれてるのは分かってるから」
「そんなの関係ない」
「露、あまり俺を困らせるな。嫌なんだよ、俺のせいで露が友達を失うのは。俺のためだと思って分かってくれ」
「……分かった」
「いい子だ。来い、露」
「うん」
露が俺の元にとてとて歩いてきて、膝の上に乗る。
シートベルトみたいに俺の腕で露を包み込んだ。
「今日は何が食べたい?」
「……カレー」
「そうか、じゃあ後でスーパー行かないとな」
「私も行く」
「ああ。ついでにアイスでも買うか。ここのところ暑くてかなわん」
「うん」
外では嫌な思いをしたが、露との優しい時間が俺の心の傷を癒してくれる。
そうだ、露は俺を愛してくれている。
何も気にすることはない。友達が出来たって、露にとっての1番は俺なんだから。
✳︎✳︎✳︎
「ただいま、露」
高校から帰ってきて、いつものように露の名前を呼ぶ。
しかし、返事が返ってこない。
「露? いないのか?」
この時間にはいつも帰ってきているはずなのに。
ああ、真子ちゃんと遊んでるのかもな。
あんまり遅くならなければいいがな……。
露のことを恋しく思いながら居間の扉を開く。
露がうずくまって泣いていた。
「露!?」
露の頬にそっと手を当て、涙を拭う。
止まらない。
涙が溢れ出てくる。
「どうしたんだ、どこか痛むのか!?」
露は目を振り絞って首を横に振った。
「私……いらない」
唇を震わせながら必死に喉から音を出す。
「いらない? 何が……」
「鋭一を悪く言う友達なんていらないっ!!」
信じられないくらい大きな声を出した。
まさか……。
俺の恐れていたことが起きたのか。
「露、言っただろ! 俺のことは悪く言っていいって! お前、せっかく友達が出来たのに……!」
「いい! いらない! 鋭一を悪く言わなきゃいけないなら友達なんていらない!」
露は俺の制服をしわくちゃになるまで握り、俺の胸にすがりつく。
「鋭一さえ愛してくれればいいから……!」
「露……お前はまだまともに生きられる。この手を血で汚した俺とは違って」
「それでも、鋭一は私の英雄なの! 鋭一が私の光なの!」
お前、そこまで……。
「その血塗れの手で、私を助けてくれたんだから……」
あれは、あの時は結果的にそうなっただけだ。
俺はお前を救おうとしたわけじゃない。
それどころか、お前の身寄りがないのをいいことに俺の元に縛り付けた。
全部私利私欲だ。
「お願い、私を愛して……」
あの時と同じだ。
露が暴漢に襲われてる時にバッタリ遭遇し、そいつが俺に突っかかってきた。
俺の胸ぐらを掴んできて、俺は病気が移るのが嫌だったからそいつを血祭りにあげた。
クソ親父に仕込まれた護身術という名の凶器で。
腕の骨を滅茶苦茶にして、歯を全部折っただけだから、死んではないと思うが。
そしてその後、露が俺の後ろをしつこく付いてきたんだ。
俺が甘かったのかもしれない。
あの時から露の心はとっくに壊れていたんだ。
俺なんかを英雄だと、光だと思ってしまうほどに。
露のために俺がしてやれること。
それは変に気を使うことじゃなくて。
ただ、愛してやればいいんだ。
俺に露しかいないように、露には俺しかいない。
友達なんていらない。
俺さえそばにいてやればそれでいいんだ。
「露、愛してる」
唇を重ね合わせる。
露に俺の愛を全て伝えたい。
心の傷につける薬はない。
こんなことを繰り返しても、俺たちの傷がなくなるわけじゃない。
ただ、痛みが和らぐだけ。
それでもいい。
俺たちはそうするしかないんだ。
お互いに乱暴に愛を押し付けあって、慰め合うしかない。
世間から見れば俺たちは歪だろう。
お互いに依存し合う歪んだ愛情。
だが、歪でも俺は露にとっての光。
露は俺にとっての光。
露が死んだら俺も死ぬ。
俺が死んだら露も死ね。
歪でも、俺たちにとってはこれが正しい愛。
俺は全身で露を愛した。
露の全身に俺の愛を叩きつけた。
✳︎✳︎✳︎
「露、今日は何を食べたい?」
「シチュー」
俺の膝の上で機嫌良さそうに露が言った。
「……カレーの次はシチューか。昨日買っておけばよかった」
「またスーパー?」
「そうだな」
「一緒に行く」
「そうか、じゃあまたアイス買うか」
「うん」
日が沈んだ暗い道を、露と手を繋いで歩いた。
周りがなんと言おうと、お前がいてくれればどんな場所でも光の世界なんだ。
愛してるよ、露。
いつまでも、ずっと。
こんにちは、臥龍です。
今回は初めてのダーク路線でした。
恋愛小説を書いてて思うのが、愛の形って人それぞれだと思うんですよね。
何が間違ってて、何が正しいというのはなく、愛の形はいつでも不定形で人によるものなのです。
今作は人を選ぶ内容だとは思いますが、最後まで読んでいただけたのなら幸いです。
ありがとうございました。