最終話
つばさと迅が、くるみを空港へ迎えに行った日から、1週間が経った。
ハーバードスクエア近くのアパートメントの5階。迅が選んだ、つばさとくるみの新居は、地下鉄ハーバード駅が近く、図書館、飲食店、小売の店舗も数多くあり、居心地の良い場所だった。
つばさが奏でる ― ダイスの瞑想曲 ― が、キッチンの向こうの部屋から響いてくる。
「あ~、いい朝! 近くにレンタサイクル店を見つけたの。つばさ、もうヴァイオリンは止めて、朝食を済ませたら、一緒にサイクリングで街探索しましょうよ」
窓を開けると、ヨーロッパ風の煉瓦色の街並みに木々の緑がよく映えている。
くるみは、鼻歌まじりにフライパンから、サニーサイドアップにした目玉焼きとベーコンを取り出して皿に並べた。
それと、つばさに欠かせないのは……炊きたての白飯と納豆にお醤油。
「つばさ、できたわよー、朝ごはん」
キッチンに顔を出した少年は、満面の笑みを浮かべる。
「うゎ~い、旨そう!」
居心地のいい新居で、手作り朝ごはん!
なんかこれって、アメリカでくるみと新婚生活してるみたいだ。
ご満悦で食卓につき、納豆をこねだす”弟”を眺めながら、くるみは、こんがり焼いたパンにバターを塗り始めた。サニーサイドアップと納豆ご飯の相性は、どんなもんかと思案しながら。
「つばさ、珈琲、入ったけど……いる? それと、食べながら、スマホ見るのは止めなさいよ」
「あ……っと、珈琲は飲むよ。クリームだけ入れて……あ? ちょっと待って。う~ん、この記事は……アウトだろ」
つばさが見つけたのは、”IN TOUCH WEEKLY” 。アメリカのゴシップ雑誌のWEB広告だ。
そこには、派手なロゴでこんなタイトルが書かれていた。
”Genius Boy Violinist Find Love !" (恋する天才少年バイオリニスト!)
その下には、お腹が見えそうなタンクトップと破れたジーンズの娘が、愛おしそうに、つばさの腕に寄りかかる写真が付けられていた。
パパラッチってやつは、一瞬だけのシーンをよくもまあ、こんな際どい感じに写真に収めれるもんだ。
違うってばっ! これは、”くるみ”だ。僕らは”姉弟”! それをこんな下世話なゴシップ記事にするなんて。
僕はくるみが大好きだけど……こういうのとは、絶対に違うんだから。
すると、くるみが、つばさのスマホを覗き込んできた。
「あーっ、やられた! これって、つばさが私を空港に迎えにきてくれた時に撮られたのね。しかも、ガセネタ!」
つばさはスマホの電源を落とすと、憮然として言った。
「本当にムカつく連中だよな、交響楽団の弁護士に電話して、即刻、ここの出版社にクレームつけてやる」
ぶんぶん飛び回る虫=”パパラッチ”とは、よく言ったもんだ。まったく、僕らの爽やかな朝に水を差すなよ。
* *
桐沢 迅が研究員として所属する、CSAIL(コンピュータ科学・人工知能研究所)は、MIT(マサチューセッツ工科大)の研究施設で、研究領域、研究員の卓越した優秀さ、人数においてもMIT最大の研究施設だった。
その上、STATA CENTERと呼ばれる、CSAILが入ったビルは、建物のデザインでも異彩を放っていた。どこから見るかによって、形が違う。まるでピカソの絵のような斬新さなのだ。
しかも、中身はほとんどがガラス張りの吹き抜けで、迅は個別の研究室をもらえるまでは、この開放感に随分と戸惑ったものだった。
「……といっても、この研究室も外からは、ほぼ丸見えなんだけどな」
迅は、彼の研究室に訪ねてきたクリステナ・ミウォッシュに、苦い笑いを浮かべた。
彼女は、ショートの金髪がいかにも快活そうなポーランド系アメリカ人で18歳。顔立ちは凛として美しく、澄んだとび色の瞳には、高い知性が見て取れる。迅が、珍しく警戒心を感じない同僚……それが、クリスチナ ― 通称クリス ― だった。
「私は隔離された部屋で、怪しそうな研究してるよりかは、ずっといいと思うけど。それより、これって、迅ご自慢の義弟さんの写真じゃないの?」
「はぁ? 俺には”自慢”の義弟なんていなかったはずだが」
迅は、そう言いながらも、クリスから差し出された雑誌、”IN TOUCH WEEKLY”の表紙に目をやった。そして、眉を盛大にしかめた。
今週のトップ記事は、
”恋する天才少年バイオリニスト!”
「あいつ、くるみまで巻き込みやがって……そもそも、モデルなんて派手な真似をするから、こういうことになるんだ」
「あら、あら、大変ね。つばさ君、爆発事故があった引越し先から、また、ハーバードクスエアへ引っ越したばかりなんでしょ」
「まったくだ……どれだけ、俺に面倒かけたら……」
だが、その瞬間、迅は険しく表情を変えた。
なぜ、クリスが知っている? 俺は一言だって、言っていない。
つばさの前の引越し先も、爆発の件も……そこから引越し先を変えたことも。
迅の心を読み取ったかのように、18歳の少女は笑った。
「ごめん、だって、迅がつばさ君のパソコンをハッキングしてた内容……別の所から見ちゃったんだもの。あんまり、やらない方がいいよ。だって、あれって……” 犯罪 なんだから”」
「……呆れる。気づかなかった。俺のつばさに仕掛けたハッキングに、クリスが同時に、ハッキングしていたってわけか。しかし、あれだけで、何で次の引越し先の住所までが分かるんだ」
その疑問が、後々に起こる事件の幕開けになることを迅は、まだ、気づいていなかった。
「その件はね、ランチに同伴してくれたら、話してあげる。美味しいピザ屋を見つけたんだ」
明るい笑みを浮かべて手を引くクリスには、悪意の欠片も感じられない。迅は、仕方ないかと腰をあげると、すらりとした細身の背中に向かって言った。
「ピザと中華は、もう飽きた。頼む、ランチは別のメニューにしてくれ」
できれば、こんな生活がもう少し続けば良かったのだ。だが、類まれな天才たちに、平穏な日々は似合わない。そう遅くない時期に、彼らはまた巻き込まれるのだ。
”非公開設定のタイムラインに”
『余罪のタイムライン~番外編 つばさのキケンなお引越し ― 完 ― 』
*只今、構成を考え中の本編の予告編のような短編でした。




