第3話
「迅兄さん、タクシーを使おうよ。荷物だって持ってんのに」
「何が荷物だ。お前が持ってるのは中身が空洞のバイオリンだけだろ。俺は50kgを荷を背負って、いつも歩いてるぞ」
「それは、エベレストに登るためのトレーニングでしょ。バイオリンのコンサートでは、そんな体育会系の技はいらないの!」
「御託を並べてないで、さっさと歩け。俺のアパートまで歩いたって40分くらいだ」
「40分~」
「たまには、運動しろ。まったく、こんな至近距離に引っ越しやがって、普段は散々、俺をコケにしてるくせに」
つばさは、決して口には出さないが、わざわざ、姉のくるみを伴って、迅が赴任したCSAIL(コンピュータ科学・人工知能研究所)に近いボストンに留学してきたのだ。そのこと自体が、二人が迅を頼りにしていることを明白にしていた。
頼りにされても迷惑なだけだが、迅はつい彼らのことが気になって、世話をやいてしまう。
居ると五月蠅いが、居ないと心もとない。歯がゆくても、そんな奇妙な感情を迅は振り切ることができなかった。
迅はバイオリンケースを後生大事に抱えて、後を着いてくる義弟の方を振り向きもせずに速足で歩いてゆく。
つばさが借りたアパートメントがあるサマービル地域は、ケンブリッジに隣接し、地下鉄やバスを使えば、迅の住むアパートには15分ほどで着いてしまう。迅はこれくらいの距離はいつも徒歩だ。
道路沿いに植えられた並木の濃い緑が明るい陽光に照らされて、爽やかな夏の風景を作り出している。ケンブリッジ市の8月の平均気温は26度。高温多湿の日本に比べて、かなり過ごしやすい気候だ。
二人は、会話のないまま、南西方向にローウェルストリートを進んでゆく。この辺りは住宅地だが、有名な大学に近いこともあり、学生風の人々とすれ違うことも多い。
次のサマーストリートに入った時だった。
”Tubasa! Let's take a selfie! (つばさ君! セルフィーに入って!)”
スマホを手にした大学生風の複数の女の子たちが、今話題の少年天才バイオリニストの姿を見つけて、つばさの周りをわらわらと取り巻きだしたのだ。
「ま、待って。今はちょっと。え…と、みなさん……”E……Everybody, Wait a minute”」
自撮りに彼を誘おうとする女の子たちを阻止しようとするが、つばさは自分よりずっと背も高く大柄なアメリカ娘たちに囲まれて、たじたじになってしまっている。
すると、後ろで冷ややかな目を注いでいた迅が、つばさの腕をぐいを引いて、彼女らを制した。
”He can not take a selfie because he is private”(彼はプライベートだから、遠慮してくれ)
はっと、日本人としては長身で、がたいのいい青年に女子大生たちが目を向ける。可愛いルックスの天才バイオリニストと何処となく似ているが、こちらは大人のれっきとしたイケ面だ。しかもクールさも加味されている。
”Oh…nice guy” (まぁ、ステキ)
彼女らがざわめいたその隙をついて、つばさと迅は、自撮り娘たちの輪から遁走しだした。
「うざったい連中だ。あれがファンって奴か? お前は、あんな風に取り囲まれて、ご満悦か」
あれは、くるみの手前というか……偶然、ああなっただけで、僕は、何も女の子にちやほやされたいから、モデル業にまで手を出したわけじゃない。
義兄の皮肉っぽい台詞に、何か応戦しなきゃとつばさが口を開きかけた時、
「……!!」
地を震わす轟音と共に北東の方向に黒煙が舞い上がったのだ。
迅とつばさは、ぎょっとそちらの方を振り向いてから、目と目を見交わす。ほどなく、人々の騒ぐ声と共にけたたましい消防車と救急車のサイレン音が響いてきた。
「……爆発? あれって、僕が借りたアパートがあるサマービルの方向?! 」
「テロの可能性もある。あちらにいたら巻き込まれていたかもな」
情報収集のため、迅はスマホを取り出したが、今の今すぎて、まだ何も情報は発信されていなかった。
「気が変わった。タクシーを拾おう。俺のアパートに帰ればもっと詳しいことが調べられる」
つばさは義兄の言葉に眉をひそめた。迅が自宅のパソコンを使って、また違法なハッキングをするつもりなのが分かっていたからだ。それにも増して、何か悪い予感がしてならない。
嫌な感じ……もの凄くやっかいなことを抱えてしまったかのような
不吉な思いを振り切れぬまま、つばさは迅の後を追った。
* *
CSAIL(コンピュータ科学・人工知能研究所)の近く、チャールズ川に面した迅のアパートは思っていたよりは清潔で、つばさをほっとさせた。
くるみは、前はここをよく”襲撃?”していたみたいだけど、僕は来るのは初めてだ。
きょろきょろと、興味津々で見渡してみると、義兄の部屋は広めの1Rをカーテンで2部屋に仕切ってあり、キッチンとユニットバス付の小ざっぱりとした場所だった。
ただ、家具らしい家具といえば、小さなサイドテーブルが置いてあるだけで、本や登山用のリュックやピッケル、ハーネス、テントなどがフローリングの床に雑多に積み上げられている。その上、
「迅兄さん……あんた、もしかして、毎日、その中で寝てんの?」
部屋にはベッドはおろか、布団らしきものも見当たらない。ただ、いかにも年期が入った深緑色の寝袋が一つ、部屋の真ん中に、陸揚げされたマグロみたいに無造作に置かれているだけだ。
「ああ、それなー、冬は随分、温かいんだぞ。夏場は、エアコンをガンガンに冷やして入り込むとちょうどいいかな」
うあぁ、やっぱり、この人は流離のスナフキンだ。こんな都会にいないで、とっとと、”おさびし山”に帰れ。
もしかして、今夜は僕もここで寝るのか……あのマグロみたいな寝袋で? 狼狽えるつばさには、完全に無視を決め込んで、迅はカーテンを開くと、作業部屋にしている隣の場所へ入って行った。
そこは、寝袋が置かれた部屋とは打って変わって、整然と何台ものパソコンやその周辺機器が並べられた部屋だった。
なるほど、ここが迅兄さんの悪の巣窟 ― ハッキング部屋 ― ってわけか。
だが、迅が次にしたことは、つばさが予想したような邪悪なキーボード操作ではなかったのだ。ごそごそと、義兄がパソコンラックの下から出したきた機械。二つの銀の比翼を持ち、小型カメラを内蔵した姿を目にした時、
「ドローンだ! 迅兄さんは、そのドローンをさっき黒煙が上がった場所に飛ばそうっていうんだね。お願い、迅兄さん、その操縦、僕にもやらせて!」
つばさは、つい、そんな風に懇願してしまった。なぜなら、ゲーム好きのつばさは、常々、やってみたいと思っていたのだ。青空を自由自在に飛んで行く”空飛ぶカメラ”のリモコン操作を。




