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第1話

 8月16日。午後1時30分。


 ここは、アメリカ、マサチューセッツ州、ケンブリッジ市。ケンブリッジ市は、ハーバード大学やMIT(マサチューセッツ工科大学)を抱える全米屈指の学術都市で、数多くの企業の研究室をかかえる産業都市でもある。


 その郊外の一角にある高級アパートメントの部屋で、闇雲やみくもつばさは、自分のパソコンの前で盛大に眉をしかめていた。


「うわぁ、たちの悪いスナフキンに、もう、見つけられた」


 Windows Liveメールの受信トレイに見覚えのない”HAYATE KIRISAWA”フォルダが作られていたからだ。


 パソコンのメアドなんて、教えたこともないのに、あのハッカーは、使用回線をどこからか調べ上げて、”僕の”パソコンの中に、勝手に”自分の”フォルダまで作ってやがる。


 ”HAYATE KIRISAWA”=スナフキンこと、桐沢きりさわ はやて


 彼はつばさの義兄でありライバルでもあるのだ。


 ちなみに、つばさは、15歳。知能指数160の天才児ギフテッドであり、音楽面に秀でた才能を持つ。今はボストン交響楽団の客員バイオリニストとして活躍している。

 対する、桐沢 迅は23歳。つばさの母違いの義兄で、MIT(マサチューセッツ工科大)のCSAIL(コンピュータ科学・人工知能研究所)の研究者で、趣味はエベレスト南西壁登頂。こちらは子供時代に自衛隊機にスクランブル指令を仕掛けて、補導歴まで持っている名うてのハッカーでもある。


そのメールは、マウスでクリックする前に自動的に開いた。


『馬鹿か、お前、何で俺に隠れてこそこそ引っ越してる』


 義兄からのメールは、彼のぶっきらぼうな性格をそのまま映し出したようにそっけない。


 せっかく、ホームスティ先から出て、くるみと二人で、ハッピーなアメリカ生活が送れると思ってたのに。


 どうせ、義兄にバレるのは時間の問題なのは分かっていたけれど、まだ、入居してから3日だぞ。ボストンの高校に留学している、くるみが夏休みで日本に帰国している間にサプライズで引っ越しを敢行した僕の立場はどうなるんだよ。ちょっとくらい、くるみと水入らずの時間があってもいいじゃないか。


 ムカつく気持ちを抑えきれない。それなのに、一つ年上の姉のくるみは、相変わらず義兄、贔屓びいきで、ことあるごとに、”迅兄さんは素敵”とか、”イケ面”だとか、”寡黙な山男ってところが魅力”とか、ふざけんなよ! 義理っていったって、くるみと迅兄さんは()()じゃないか。


 くるみには僕がいるっていうのに。


 くるみが自分の()()であることなんて、てんで無視して、つばさは口を尖らす。そして、我慢ができず、足元にあったバイオリンケースから愛用のバイオリンを引っ張り出すと、弓を取り、強い調子で奏でだした。


「”最低最悪” ”悲劇” ”絶望”! その表現には、不幸の旋律 ― 減七の和音ディミニッシュ・セブンス・コード、使いまくり!」


 こんな気分の時は、あの曲に限る。


「トッカータとフーガ、ニ短調! 」


 ”鼻から~牛乳”などと、歌いながら、本来はオルガン曲であるメロディをバイオリンでやけっぱちに奏で続ける。

 続けて、”ブラームスの交響曲1番”を華麗に弾きこなしたところで、ようやく気が済み、バイオリンの弓を下した時、


「こら、つばさ! 何度ノックしたら、お前は気がつくんだ」


 長身でイケ面の青年、桐沢 迅が、玄関の扉をばんと開いて入ってきた。


* *


「は、はやて兄さん? ど、どこから入ってきたの」

「どこからって、そこからに決まってる」


 憮然とした表情で玄関の扉を指さした迅。


「嘘でしょ。アパートメントのエンタランスも玄関のキーも開くには、AIの顔認証が必要なのに。第一、ここ8階だよ……あっ、まさか、また外壁をクライミングしてきた……とか」


 義兄の趣味? は、エベレスト登山だ。思い出したくもないが、以前、つばさは大学の4階の窓から突き落とされそうになった時、壁を上ってきた迅に助けてもらったことがある。


「何で俺が義弟おまえの家に入るのに、壁を登らなきゃいけないんだ」

「だって、迅兄さんは、すぐに高い所に登りたがるから……」


 知らん顔を決めているが、義兄の表情にはどことなく勝者の感がある。


 つばさは、次の瞬間、あっと声をあげた。

「迅兄さんっ、ここのアパートのセキュリティシステムに侵入したね! それで、エンタランスと部屋の鍵を開いたんだ。この極悪ハッカーがっ。それと同じ調子で、僕のパソコンにも勝手に入り込んだってわけか」


 更生したとか何とか言って、ちっとも変ってないじゃないか。つばさは慌てふためいた。迅は、小さく笑うと、部屋にあったソファーにどさりと腰を下ろした。


「突然、不躾な方法でやって来たのは謝る。けどな、そっちも悪いんだぜ。こっそりホームスティ先から引っ越そうなんて、阿漕あこぎなことを考えるから」

 ……で、と迅は、ソファから身を乗り出した。


「どういう理由なんだよ。まさか、ホームスティ先に居づらくなったわけじゃないだろうな」


 普段はくるみがメールや電話をしても、知らぬふりを決め込んでるくせに、こういう時ばかりはやけに口をはさんでくる。保護者気どりは止めてくれよと、つばさは頬を膨らませた。


「別に。ただ、僕がいると、色々と迷惑かけちまうからさ」

「迷惑って、 ホームスティ先にか」


 つばさは、少しばつが悪そうにキッチンに向かうと、ごそごそと棚からカップを2つ取り出した。


「えっと、その話は後にして、何か飲まない? 何がいいかなぁ、紅茶? スリランカのハイグロウンとコクのあるインドのアッサムを合わせたブレンドなんて、どぅ?」


「……」


 むっつりと黙り込む迅。


 紅茶のブレンドは、あの女 ― 藤野 香織 ― の専売特許だ。それにしても、たった一度しか出してもらっていない茶葉の名前まで、こいつは正確に記憶してやがる。


「つ・ば・さ、お前、まだ、藤野 香織のことで、俺を批判してるのか。もう、あれから、2年も経つっていうのに」


「そんなことないよ~。だって、香織さんは今は新しい道で頑張ってるんだから。それより、気になってるのは、迅兄さんが手に持っている”美味しそうな紙袋”は何かなぁ」


 これかと、迅は苦々しい顔で義弟に持ってきた紙袋を放り投げる。つばさは喜々としてそれを受け取った。


「ああっ、やっぱり予想通りのダンキンドーナッツだっ。迅兄さんっていい人だなぁ。僕の好物をちゃんっと買ってきてくれるなんて」


「現金な奴、俺はインスタントでいいから珈琲にしてくれ。ドーナツは甘すぎて、食べる気がしないが」


 ぜんぶ、食べていいのっと喜ぶ義弟に薄い笑みを浮かべると、迅はもう一度、話を元に戻した。

 

「……で、お前がホームスティ先に迷惑をかけてるって話だが」



「もぐもぐ……やっぱり、それ聞きたいの? ……パパラッチってやつが、カメラ持って、四六時中、来てるんだ。あと、ファンの女の子たちとかも」


「パパラッチ? ファンの女? ってもしかして、お前がやってるクラシックとは別のファンか」


 迅は、少し考えてから、なるほどな……と、ばつが悪そうにドーナッツに集中しだした義弟の方を見た。そういえば、最近、こいつの記事をネットでもよく目にする。


『ボストン交響楽団所属の天才バイオリニストは、15歳のジャパニーズ。アイドル並みの容姿を持つ天才児』


 つばさがおずおずと告白を始めた。

「ちょっとしたノリで、TIME誌に写真を撮らせたら、あっちこっちから取材が来るようになって、音楽誌以外でもモデルになってくれとか、五月蠅くなってきて……SNSとかでも拡散されて、人気がうなぎ上りで……ほら、僕って見た目もいいから」


「……自画自賛は止めろ。それににても、モデル? お前、そんなこともやってるのか」


「だって、くるみがやってみたらって、薦めるもんだから」

「馬っ鹿じゃないのか。クラッシック界じゃただでさえ、お前は目立ってるんだ。これ以上、敵を増やしてどうしようってんだ!」


 盛大に眉をしかめて、怒鳴りつけてくる義兄が怖い。でも、パパラッチは別として、ファンの女の子まで”敵”呼ばわりは酷いんじゃないの。


「正直言って、僕も色々とまずいことをしたって思って……。だから、ボストン交響楽団の関係者にこのアパートを紹介してもらって、秘密でここに引っ越したってわけ」


 迅は、ぐるりとアパートの部屋を見渡してみた。ベッドルームは2つあり、ダイニングキッチンもかなり広い。もちろん、トイレ・バスも完備されているんだろうし、バルコニーもある。セキュリティも問題はないだろう(ただし、彼のようなハッカー相手でなければ)。

 ただ……


「15歳と16歳の姉弟が住むには、ここは華美すぎるんじゃないのか。家賃だって高いだろう。交響楽団から補助とかは出るのか」


「あ、平気、平気。僕、契約金をどっさりもらってるし、モデル料も入るし、年俸だって迅兄さんとは比べ物にならないくらいの……」


「あっ、もういい。そういうことなら、俺は帰る」


 心配して大急ぎでやってきた自分のことが、アホらしく思えてきた。迅はソファから立ち上がる。その時、


 カシャッ


 座っていたソファーから、違和感のある乾いた音が響いてきたのだ。はっと、迅は意識を音の方向に向けて眉をひそめる。その反応を予期していたかのように、つばさが言った。


「困ったね」

「そうだな」

「せっかく、引っ越してきたのにね」

「お前の事前調べが甘いからだよ」


 迅はそう言いながら、膝を折り、ソファの足元からその下を覗き込んだ。手を伸ばして底面に張り付けてあった機械を引っぺがす。


「隠しカメラだ。つばさ、お前の引っ越し先は、俺よりも先に、何処かの誰かさん(パパラッチ)に嗅ぎつけられてしまっていたようだな」



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