6.迷宮のレイン
〝死〟とは、非常に冷たいものだ。
命を失った人間の体は冷たくなり、堅くなり、そして重くなる。
だが、俺の体は、まだ温かかった。
人形師狩りに捕らえられ、あの短刀で命を奪われたと、そう思っていたのだが……。
ガチャン、バリン。
激しく響く、何かが割れる音が路地に響く。
「ちっ。何でえ、鏡かよ!」
同時に、忌々しげな声が辺りにこだまする。
人形師狩りの声だ。
察するに、奴は路地の向こう側から俺を見つけて、殺そうとした。
だが、それが鏡に映った虚像であるという事実に、割るまで気付かなかったのだろう。
だとすると、俺は人形師狩りの毒牙にかかったわけでは、なさそうだが。
もし違うのなら――。
背後から俺を捕まえ、引っ張った白い手は、いったい誰のものなんだ?
自分が死んでいないという事実が、俺の閉じかけた意識を現実に引き戻す。
記憶がはっきりしてくると同時に、俺は今、自分の体が地面に横たわっていることに気付いた。
その上半身が、何か温かい、柔らかいものに包まれている感触にも。
驚いて起きあがろうとするが、何かにがっちりと体を押さえつけられていて、うまく動かせない。
かろうじて、首は上下に動く。
頭を上にあげ、その目に映ったものを見て、心臓が飛び出しそうになった。
俺の体を押さえつけているものは、白い、細い腕。
その腕の持ち主は、上に「美」をつけなければ非常に失礼に当たるのではないかと思われるほど、可憐な少女だった。
紫の光沢を放つ、長い黒髪がさらりと俺の顔にかかる。
年齢は俺と同じくらいだろうか。十六、七歳の少女。
何の因果か、その場に座り込んでいた彼女の腕に、俺は強く抱きしめられていたのだった。
香水だろうか。優しい香りがする。衣服を隔てているとはいえ、その柔らかい体に押しつけられた俺は、全身から火を噴きそうだった。
あくまで偶然だ。偶然なんだけれども。俺の顔がうまい具合に彼女の胸の谷間に押し込まれてしまっている。
どうしたもんだろうか、これは。
普通に考えると、一刻も早くこの体制から立ち退かなくてはならないはずなのだが。
体が思うように動かない。
少女も、俺をしっかり抱いて離さない。
何が何だか分からず困惑していると、どこか遠くで、鐘の鳴る音が聞こえた。
よく響く鈍い音が、数回。
町に定刻を知らせる、鐘の音だ。
それに反応してか、美少女はピクリと体を震わせる。
加えて更に、俺を抱きしめる腕に力を込めてくる。
「何でえ、もう時間切れかよ。……小僧! 聞こえているな!? まだ近くにいるんだろう!? 命拾いしたな、次に会ったときは、絶対に殺すからなぁ!」
人形師狩りは捨て台詞を吐き、どこかへと去っていったらしかった。
しばらくして、完全に敵がいなくなったと、本能的に感じ始めた頃。
ようやく、美少女は俺を解放してくれた。
俺は反射的にバッと体を起こし、彼女から距離を置く。
そうして、初めて気付く。
その場所が、鏡のあった通路から少し後ろへ戻ったところにある、別の狭い路地だと。
「良かったね。あいつ、行っちゃったみたい」
落ち着いた、物静かな声。
俺は思わず、少女を凝視する。
紺色の長いスカートと、白い清楚なブラウスを身に纏った、可憐な少女だった。
とても大人びていて、知的な雰囲気を醸し出している。
「あ、あの。ひょっとして、俺のことを助けて……?」
俺は訊ねた。声がすっかり上擦ってしまった。
彼女は俺に向かって、にっこりと微笑んだ。
「路地の陰で、ずっとあなたが追いかけられている様子を見ていたの。このままじゃ捕まってしまうと思ったから。……迷惑だったかしら」
「いやいや、とんでもない! おかげで助かったよ、ありがとう」
顔の熱もとれ、緊張も興奮もだいぶ収まってきた。
冷静さを取り戻し、俺は彼女に礼を述べる。
いろいろと、予想外な出来事から解放されて、安心したのも束の間。
美少女は四つん這いになり、すっと俺の側に寄ってきて、じーっと俺の顔を見つめ始めた。
宝石のような紫の瞳が、鋭く俺を射る。
顔と顔が、くっつきそうなほど近い。
また、俺の顔に高熱が宿る。
「な、何か……?」
なんとか声を絞り出す。
すると彼女は「やっぱり」と、小さく囁いた。
「あたし、すごく小さい頃に、あなたと会った記憶があるわ。とっても久しぶり」
「え……?」
俺は動揺する。いつ、どこでこんな美少女と、お近付きになったというのだろう。
全然、記憶がないんだが。
「……覚えてなくても、無理はないわね。たった一度、偶然会っただけで、お互いに名乗りもしなかったもの。でもあたし、覚えているの。あなたの雰囲気、あの時と、ちっとも変わってないわ」
寂しそうに、美少女は笑う。
俺に全く心当たりがない様子なのを、少し残念がっているみたいだ。
その顔を見ると、ものすごく罪悪感がこみ上げてくる。
これはもう、嘘をついてでも久しぶり、とか言っておいたほうがいいんだろうか。
なんて悶々と考えながら、俯きがちな彼女を見る。
しかし、ふと俺は、その白い可憐な顔から、幼い頃の懐かしい面影を見出した気がした。
「……まさか、レインか?」
俺は無意識に問うていた。
ほとんど期待に近い疑惑だったのだが、彼女は驚いた表情で俺を再度、凝視した。
「あたし、あなたに名乗ったかしら?」
「いや。でも昔、連れの人がそう呼んでいたから、知ってた。覚えていた、のほうが正しいかな」
その反応からすると、やっぱり彼女の名前は――。
「本当に、本当にレインなんだな?」
少女は頷いた。
その瞬間、俺はとてつもない感動を覚えた。
「帰ってきたんだな! 俺もずっと、君に会いたかったんだ!」
思わず、俺は彼女――レインの肩を掴んでいた。
俺の勢いに、レインは目を瞬かせて、驚愕していた。
でもすぐに順応した様子で、少し頬を赤らめて、可憐に笑った。
「思い出してくれたのね。嬉しいわ」
「いつ、この町に戻ってきたんだ?」
「昨日、帰ってきたばかりなの。お祖父さまに呼ばれてね」
七年前。
レインを呼び戻し、連れていった人物が祖父だったのだろう。
おぼろげな影しか、記憶に残っていないが、偉大な人形師だと言っていた。
「本当は、家から出るなって言われてたんだけど。久しぶりに町の中が見たくて、こっそり出てきちゃったの」
「一人で?」
「ううん。連れがいたんだけどね、途中ではぐれちゃって。小さな女の子を見なかった? 赤い髪と目をしているの」
その特徴、俺には大いに心当たりがあった。
「その子、リノオールって名前じゃないか?」
「知っているの?」
「ああ。今、うちにいるよ」
「あなたの家に? ……リノオールは、あなたに懐いているの?」
突然の問いかけに、俺は少し考える。
「そうだな。嫌われてはいないと思うけれど……。素直な、いい子だったし」
なぜそんな質問をするのか、よく分からなかったが、レインは「そう」と、少し物思いに耽った、でも嬉しそうな表情を浮かべていた。
「迎えに行くわ。あなたの家に、お邪魔してもいい?」
「もちろん。歓迎するよ。俺たちが初めて会った場所だしな」
俺は立ち上がり、レインの手を引いて起こした。
「ありがとう。……そうだ、あなたの名前、まだ聞いてなかったわ。教えてくれる?」
柔らかな微笑で、レインは尋ねてくる。
拒む理由はない。即答した。
「ノイエ・アルペイトだ。よろしく」
「じゃあ、あたしも改めて。レイン・セーヴィラです。よろしくね」
そして、堅く握手を交わした。